• 7月12日・水曜日。晴れ。

    命の危険がある暑さとは、先ほどのテレビの報道にあった。その通り、家から事務所まで朦朧としながらたどり着いたが、途中、息が上がって、チョイ、よろけたにはギョッとした。バス待ちの暑さに耐えかね、流しのタクシーに転がり込み、伊勢崎線のいつもは効きすぎる冷房車がヌルイのも尋常ではなかった。六日前、傘寿になりたてのわが身にとって、今後、八十路の道を、無事、渡って行けるものやらと、一か月の休載の挨拶にしては、誠に締まらない話ではある。ともあれ、何とか学会での報告も済ませ(7/8)、日常に戻ってブログを再開させて頂こう。なお、わが報告の出来栄えは、ほぼ2時間に及ぶ休みなしの熱弁であったが、自己採点では70点の良で、「優」には届かなかった。残念。
    本日は、報告用に作成した要旨の転載をもって勘弁していただこう。かなり長文の上、背景的な説明がなければ、理解しにくいのは承知しているが、それでも全体をご覧になれば、わが意図は何となく察せられるのではなかろうか。こう思い、あえて掲載する次第である。これを機に、一人でも多くの方々に、大都市と地方の問題に興味を持っていただければ、当方としては何よりのことである。

    7月8日・土曜日 於・明治大学

    金子光男

    人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い…中島敦 山月記より

    吸引する大都市—地方再生の道を探る—

    1. 都市はどこから来たか

    柳田国男は言う。「自分は特に日本の都市が、もと農民の従兄弟によって、作られたことを力説した」(「都市と農村」・昭和4)。
    ⅰ:「境界」を持たない日本の都市。例えば春日部市のわが雑感から―締まりのないわが街。柳田も言う。「都市と農村との間には明確なる分界線」を欠く、と。その理由.日本は農業社会であり、富は「都市」の外側にあったことがその1.次いで、海に守られて、言葉や感情、慣習もほぼ同質の社会のゆえに、激しい殺し合いもあったが、皆殺しになることはまれで、わが身の安全を求めて「窮屈な城壁にこもって固守する必要」を感じなかった事情がある。(資料1参照)

    ⅱ:西洋都市の特徴。これに対して西洋都市は、封建領主に対抗して生活圏を確保する必要から、武力を持つ城郭都市の建設に向かった。後にその権力が王侯、法皇にも対抗しうるほどにまでなったことを思えば、財力、軍事力の巨大さもうかがえよう(例えば、マキアベリ『フィレンツェ史』岩波文庫上・下参照)。そして、ヴェーバー(『都市の類型学』参照)によれば、都市は自ら首長の選出と自治制度を確立し、これこそ西洋都市にしか見られない特徴だと言う。そこから、ギリシャ古代都市の伝統と相まって、都市独自の個人主義的市民意識の涵養とそれに結び付いた都市文化、経済の発展がもたらされた。この点におけるキリスト教の果たした役割は巨大であるが(同教の、血縁、地縁的紐帯を断ち切った個人主義的な特徴を見ようとすれば、差し当たりマルコ伝3章31~35、バニヤン『天路歴程』岩波文庫を参照)、同教の普及は都市と結びついたからだと、ヴェーバーは言う。
    近代に至って、都市域の拡大が必然になったとき、西洋の場合は「卵の殻」を破るようにして拡大したのに対し、我が国では「キャベツの葉」を剝ぐようにして柔らかく開いた、とは藤森照信の言であるが、以上の比較を踏まえれば、絶妙な比喩であったと言いたい(『明治の東京計画』・岩波文庫)。

    ⅲ:柳田の都市発生論。さて、我が国で「都市」が発生するのは、まま偶然からであった。湊の風待ち、川辺や往来のある場所に自然人が集まり住するところに不定期な市が立ち、それが定期市となり、町、都市へと続く。そこでは農民にとっても、市民にとっても便利や利益もあり、町場は成長していく。さらに、外国との交易が加われば繁華となる。堺、筑前では自治の萌芽さえ見られた。だが、都市の存続は領主の城下町ですら定めがたく、しばしば消滅の危機に見舞われ、それを救うのは常に農村からの人口流入であった。
    柳田は言っている。中小都市は余剰人口を抱えた近村からの「出入自在なる住民を通して、村の力にその存立の基礎を築いているからで、人はしばしば農村の衰微を説くけれども、都市こそはさらにそれ以上に、有為転変の定めなきものであった。…全国民の七割を占めている農村の居住者らは、今一度改めてこの重要なる対都市問題の正しき理解を試みよ」。また言う。「この六十年間の日本の都市などは、ただ四方から流れ込む者の滝壺」の如しである、と。ここに、わが都市は農村の従兄弟によって作られたとの意味は明らかだが、それ以上にここでは、都市は常に農村によって支えられなければならず、その支援は限度を超せば農村、そして結局は都市自体の疲弊を来すという、柳田の深刻な問題意識をくみ取るべきであろう。(資料2参照)

    補注:人口の農村からの押しだす力と都市の引く力.人口増=自然増+社会増.社会増=流入-流出の意味.都市における人口再生能力の限界と構造.中国の人口減少の苦悩.E・トッドの人口論.

    2. 消えゆく富:「骨材」の調達と消える山

    ⅰ:巨大都市東京の出現。高度成長期の概観:前節では都市は、「滝壺」を目掛けて「四方から流れ込む者」たちによって成立し、維持されることを示し、都市が地方から「吸引」する第一の対象は住民たちであったことを見た。本節では、まずはこうして吸い寄せられた彼ら住民の暮らしについて見ておこう。
    「出稼ぎ労働者」と称する彼らの多くは、低廉な宿泊所に吸収される。これは一見、江戸後期から維新にかけて東京に流れ込み、やがては東京三貧街(芝新網、四谷鮫が橋、下谷万年町)の木賃宿、貧街に身を落とす流民、無宿人(これについては、松原岩五郎『最暗黒の東京』(明治26)の迫力ある報告を参照)の末裔にも見えるが、彼らはこれとは全く異なる出自の者たちである。そもそも「都市と農村」が書かれた昭和4年は、金融恐慌(昭和2年)、世界恐慌(昭和4年)のさ中の資本主義の矛盾が赤裸に露呈する時代であり、彼らはその落とし児であった。
    彼らは農村内での経済的な両極分界で田畑を失った貧窮農民であり、やむなく故郷をあとにした人々であったが、その後継はその後も続いて戦後の高度成長を支える出稼ぎ労働者の先駆であったと言えよう。彼らもまた、先人たちと同様、粗末で不衛生な宿泊所に身を寄せるが、それがのちの「ドヤ街」(ヤド(宿)の逆さ語。御世辞にも宿とは言えない粗末な塒)と称する独特な宿屋街の成立であるが(山谷、寿町、釜ヶ崎)、最も肥大するのは高度成長期(昭和30~同48)頃であったようである。

    補注:ドヤ街の機能。安価な宿泊施設による大量な低賃金労働力のプール.食事、酒、博打、女の供給.やくざ組織と結びついた職業斡旋.経済成長を支えた裏面史の一頁.

    ⅱ:高度経済成長期概観。年表的に示せば以下の通りである。地下鉄丸ノ内線開通(但し池袋・御茶ノ水間)(昭和29)、家電三種の神器(洗濯機・テレビ・冷蔵庫)(昭和30年代)、「もはや戦後ではない」(経済白書・同31)、333mの東京タワー完成(同33)、東京オリンピック開催及び新幹線開業(同39)、3種の神器・3C時代の到来(同40)、141mの霞が関ビルの竣工(同43)(それまでは31mの高度制限あり)、墨田川花火大会再開(同53)。要するに、高度成長時代とは、一面では大規模な建設、土木事業の推進の時代であり、コンクリートジャングルと言われる東京発展の幕開けであった(終わりなき高速道路建設、地下鉄、空港・港湾・海浜、河川埋め立て、上下水道等を想起されよ)。
    このプロセスを、「修飾なしに一言でいえば、都市の巨大なコンクリート化、すなわち大地表面を覆い、その深部を抉り、どこまでも続く隧道を穿ち、そして天を魔する高楼にいたるまでコンクリートを流し込み、貼り付ける作業である。かくて大都市圏はコンクリートによって何重にもコーティングされた巨大人工構造物の群帯として浮上するのである」(金子光男の手紙・2019、12/10より)。

    ⅲ:消える山・おびえる住民―佐久間充『ああダンプ街道』(岩波新書・2011)より―。

    かくてようやく、我われは本節の主題にたどり着く。まず、ここで言う「骨材」とは建設物の重要な素材であり、ここでは「砂」のことである。では、前節の巨大建設群に不可欠な膨大な砂は、どこから調達され、そのことが現地の住民の生活にいかなる結果をもたらしたのか。その次第を遺憾なく示したのは、上記の佐久間氏の労作であるが、ここではその一文を引用するにとどめたい。その惨状は十分示されているからである(なお、以下は2019,12/17に掲載したわがブログからの転載である)。
    佐久間氏は言う。昭和40年頃では、その大半が「千葉県君津市を中心とする一帯」から供給された。「この地方では、山砂の採掘によって丘陵が次々と姿を消した。国定公園である標高三五二メートルの鹿野山(かのうさん)の場合は、いたる所に高さ一〇〇メートル前後の絶壁が出現し、山容が無惨に変わりつつあった。(資料3)
    「問題は、その山砂の輸送の仕方であった。馬車が通っていた狭い砂利道にダンプカーが走り出したころ、住民は物珍しさも手伝って見守っていたが、いつの間にか交通量は一日四〇〇〇台にもなっていた。
    「沿道の所々には、民家や商店が密集していた。ダンプカーが巻き上げる砂ほこりで、民家もダンプカーも見えなくなり、日中でもダンプカーはライトをつけ、住民は戸を閉めて電灯をともす日々が六年も続いた。道路はようやく舗装されたが、今度は、ダンプカーの荷台からこぼれ落ち、そのタイヤで細かく磨り潰された山砂の粉じん(塵)や、排気ガスによる黒い粉じんが、激しい風圧をともなって沿道を覆うという状態が、今日にいたるまで続いている(2011年現在、引用者注)。アルミサッシ戸が役に立たず、タンスの中まで汚れる家もある。
    「沿道住民のじん肺問題が発表された翌年の、昭和五七年度における千葉県による測定では、ダンプカーによる粉じんの量は、月当たり最高が一五九トン、年平均でも九五トンである。工場地帯の煤煙が多い所でも、月当り一〇トン程度であるから、君津市のダンプ粉じんいかにすさまじいものであるかがわかろう。これに一〇〇ホンを越す騒音、振動、交通事故死や泥はねが加わって、沿道住民の平穏な生活は長い間破壊されたままである」(前掲書ⅱ~ⅲ頁)。そして、ダンプ公害の「張本人であるダンプカー運転手」は、ダンプカー購入時の巨額な借金と過酷な労働による健康被害に苦しむと言う。
    そこで著者は言う。「開発という魔力によって犠牲にされた地域住民の怒りと慟哭に耳を傾けてみると、開発と機械文明の氾濫に身をまかせているわれわれのすべてが、その生き方を問われているような気がしてならない」(以上、同書ⅰ~ⅳ頁)。発展する都市の背後で進行する地方の崩壊と苦悩に、我われは今、深刻に向き合わなければならない。それは、都市の明日を予兆しているからである。

    補注:なお、骨材としての砂の欠乏は世界レベルの事らしいことは、ジャパンタイムズ「信じがたいことながら、世界から砂が無くなる」(2021、5/5・水)の記事が告発している(詳細は、同年、12/17のわがブログを参照)。
    言うまでもなく、都市の吸引物は砂に限らない。市場経済では、物品は値の良い市場に送られるとすれば、全国で生産される食肉・果実・魚といった多様な高級品は大都市の高級料理店に収まり、地元ではまず消費出来ない。そして、最高級のマグロが中国人バイヤーに競り落とされたとは、最近知った。さらに、大都市の経済的な機会、知識、ファッション、その他種々の文化財の集積が、地方の若者を吸い寄せる。
    また、林業の衰退、山林の荒廃についても国土の保全、環境維持の視点から、特に注視される必要がある。

    3. 人の消えた地方都市のその後―夕張市の事例:『縮小ニッポンの衝撃』(NHKスペシャル取材班 講談社現代新書・2017より)

    かつて炭鉱の街、夕張メロンで全国にその名を知られた夕張市は、最盛期には人口、11万人(昭和35)を数え、市内には映画館が立ちならぶ。休日のデパートでは家族連れの買い物客で賑わった。だが同市は2006年、353億円の赤字を抱えて国内唯一の財政再生団体に指定されてしまった。その結果、8億円の地方税収しかない当市が「今後20年間にわたって毎年26億円を返済」する義務を負わされ、市の独自の起債はおろか予算権も失い、鉛筆一本の購入すらままならない状況に陥った。この窮状に対し、国や道庁からの交付金によってどうにか帳尻を合わせているに過ぎない。
    ここに至る過程では、「炭鉱から観光へ」のスローガンのもと次々第三セクターを設立し、テーマパーク、スキー場の買収やらと「超」積極的な自治体運営に邁進しては、そのすべてに失敗。ついには粉飾まがいのヤミ起債問題まで発覚した果てのことであった。かくて市の負った負債弁済こそが第一の義務となり、「撤退戦」とまで言われるほどに、行政サービスは極限まで切り捨てられてしまった。それはさながら、行政サービスとはどこまで削減可能なのかを探る実験場になったかのような状況であったという。確かにこれまでの過程を見れば、無責任な放漫経営の失敗であり、自業自得だと言えなくもない。ならばこの破綻は、ここで取り上げた大都市問題とは無縁のようにも見える。だがそこでの事態は、人の消えた街ではどれほどの惨禍がありうるかをまざまざと見せつけているばかりか、全国の地方都市の明日を予見しているという点で、考察すべき貴重な事例を提示しているのである。
    当市の人口減少はこうである。市の面積は東京都23区を合わせた以上でありながら、住民は、現在、約7千人である。最盛期の一割にも満たないほどの激減ぶりだが、それでもなお下げ止まらない(資料4)。これを筆者の生まれ育った23万人の文京区(’22)の場合と比較すればどうだろう。当市を直接知らなくとも、殺風景な街並みと酷薄な気候の下、互いに寄り添うこともままならない住民生活の様相が浮き上がってくるのではないか。
    市にとっては、上下水道ほか各種のライフラインは無論のこと、市営住宅、学校、病院といった諸施設の運営と共に、それらの必要な補修、保全は市民生活を守る上で当然の義務である。だが市職員は4割というレベルの給与減額によって、多くが離職し、十分な補充は出来ない。余力のある市民は他市へと転居し、税収のさらなる減少を来す。税は払えどまともな行政サービスはないとなれば、当然だろう。その結果、多くの高齢者が取り残される街となった。以下では、特に市営住宅が抱える問題に目を向け、ここで言われる「撤退戦」について見てみよう。
    夕張市には、現在、耐用年数をこえた1200世帯以上の市営住宅があると言う。市営である以上、その維持・管理は、防犯・崩落・火災等を考えれば、居住者の有無にかかわらず市の義務であり、放置は許されないだろう。しかし市にはその余力はない。そこで取られる対策は、その放置が建物の損壊等により、市民の身体に危険を及ぼす恐れがあるか否かを基準に、最低限の対応ですますというものであり、極端に言えば、その危険がなければ建物の朽ちるに任せることになる。多くの空き住宅にはその利便性から住民からの強い懇請があっても、まず入居はさせない。一棟丸ごと空き家にして処分する必要があるからだ。これを「政策空き家」と言う。
    こんな事例もある。団地の3階に住む老夫婦は、長年、コンクリートの壁から漏れ出す雨漏りに悩まされてきた。天井のシミは広がり、押し入れの夏蒲団はびしょ濡れになることもある。そこで雨日のたびに「雨が漏れだしてくる壁に雑巾を貼り付けて」対応し、「夜寝ている時にもポタッという音で目がさめることがある」。思い余って、役所の担当者に来訪を乞い、実情を訴えたが、「屋根の上にブルーシートを敷く以上の対応はしてもらえず雨漏りはその後もずっと続いている」(81頁)。
    これが当市の「撤退戦」に依るところの住宅政策(と言うべきか、放棄と言うべきか)の内容の一端である。住民の困窮が目に浮かぶが、市の対応を責めることも出来ない。そして、市民が極端に減少し、税収を失った結果、なすべき行政サービスの限界点を探るような実験場となった自治体の苦悩は明らかである。
    しかし、事はここで終わらなかった。問題の重大さは、ただ人口減少ではなかったからである。当市が直面した課題は「老朽化した住宅だけではない。入居率が落ち込んでも、団地全体に張り巡らされた水道管や浄化槽のメンテナンス、除雪や道路修理などのコストは変わらずにかかり続けるのだ」。2015年、市はそれらの負担がどの程度になるかを把握するため、市営住宅、橋梁、水道管や道路などを含めた「インフラを今後40年にわたって維持し続けるのにかかるコスト」を試算してみた。その「結果は488億円」。つまり「財政破綻した時に夕張市が抱えていた借金を上回る金額が必要となる」と言うのである。
    だが、以上は単に夕張市の問題に留まらない。先に言ったように、それはまさしく「疲弊する地方都市の明日を予見」する事態そのものであった。2012年に発生した笹子トンネルの天井板崩落事故に触発されて、その後総務省は各自治体に上と同様の調査を指示し、驚くべき結果を得たからである。曰く。自治体の多くは「現状の公共インフラをそのまま維持し続けるのは到底不可能だということだ。人口増加に合わせて拡大してきたインフラを今後、大幅に縮小していかなければほとんどの自治体の財政は持たないのである」(62-66頁)。これが、膨張し続け、発展しいる都市の裏面で生じている地方の疲弊の一端である(同時に、大都市からの処分に困る建築廃材、土砂等が山中深くに密かに破棄され、環境破壊、土砂災害を呼んでいることは周知の通りである)。
    翻って、以上は地方自治体だけの問題であって、東京はじめ大都市は大丈夫だと、胸を張って言えるのであろうか。柳田は言っていた。「都市こそは有為転変の定めがたい」ものだと。経済や政治の潮目が変わり、大災害や気候変動の波に飲み込まれて、退潮の憂き目にあえば、大東京に蓄積された極端にまで利便性を追求した、巨大なインフラ施設の維持やそれらを稼働させるエネルギーの費用の問題のみを考えただけでも、空恐ろしくなる。その時、大東京に拡散して生活する膨大な住民はどう守られるのか。そこで見ることになる東京の悲劇は、とても夕張市の比ではあるまい(過日の朝日新聞(‘23・7/1・朝刊)によれば、我が国の最低賃金は961円であり、主要先進国の中で最も低く、しかも韓国との比較では、20年前は2倍以上であったものが、今年は逆に、1割ほど低額になっていると言う。これを国力衰退の一兆候だとみれば大袈裟だろうか)。

    4.地方再生の道はあるのか:メモを記して、あとは今後に

    以上から言えることは、大都市には構造上、自律的な成長・発展の能力はなく、常に地方や外部からの人的、物的支援を仰がなければならないということである。それが消費都市としての大都市の宿命であろう。しかし、大都市の吸引が限度を超えれば地方の枯渇と結局は、大都市の衰退を来さざるを得ない。現在、東京都区内の一部でもその陰りが見え始めているようであるし、周辺の都市圏のそれはかなり顕著になってきている。例えば北千住—春日部間の特に急行通過駅周辺の商店街の凋落は目を覆うが、恐らくこれは、私鉄沿線のどこでも見られる現象ではないか(こうした問題関心は、一部増田寛也編『地方消滅』(中央公論新社・2015)にも通ずる面がある)。とすれば、地方再生の問題はいよいよ避けて通れぬ課題であるに違いない。しかしいまだに、大都市でのオリンピック、万博他ビッグイベントの開催を契機に、日本全体へと波及する経済発展を目論む政策が後を絶たない(これも一種のトリクルダウンと称するものだろうか)。だが、この度の東京オリンピックの開催が地方経済にどれほど波及効果をもたらしたかを思えば、事の当否は明らかであろう。その全ての原因を、蔓延したコロナ禍に帰することは出来ないはずだ。

    以下、箇条書きにとどめて、結論にかえたい。❶.経済成長主義からの決別と定常的経済状態への移行:J・S・ミル『経済原理』(1848)(末永茂喜訳、岩波文庫、1959)、J・K・ガルブレイス『ゆたかな社会』(1958)(鈴木哲太郎訳、岩波書店、1985)、❷.道州制への移行:大都市圏からの離脱、地方の政治・経済的自立を目指す。原則的な地産地消経済の確立。これについては、島嶼経済が参考になる。本土、本島に依存的な離島では人口、経済も縮小するのに対し、島の風土・文化に根差した生活を守る島ではそれらは維持されるという。極端に人口の少ない島嶼の存亡は地域の明日を予見する(ジャパンタイムズ「小さな島々、大きな教え」’23,5/27・土を参照)、❸.道州間の経済・政治・文化・教育等の連携と競争、❹.中央政府の権限の限定:憲法に基づく三権分立を前提とし、その下での外交・国防・警察・その他国家的課題の決定権及び予算権と執行権等にとどむ、❺.憲法改正、❻.外資確保のためのトップ企業の確保と育成、等々。

    資料1
    (1)わが国と西欧諸国のそうした都市構造の違いは、まずもってその成立過程の相違に帰するようである。わが近代都市の原型は江戸時代の城下町であり、その在り様は西欧中世都市とは全く異なっていた。城下町は西欧とは反対に、城の外のしかも「最も生産性の高い農地」の直中で発展し、その意味で町は農業と共存していたのである。ここに、「西欧型の都市計画の手法であった「線引き」による都市と農業との裁断がむつかしい条件」があった。そして、こうしたわが国の「都市の歴史的性格は、明治以降の近代化に伴う都市空間の膨張の過程でも、つねに問題」となって付きまとうことになるのである。
    問題はこれに留まらない。その後の急速な都市化は当然、それに付帯する道路・下水道・公園等のための土地やインフラ整備を不可欠とするが、それらに対する資金の不足と地下急上昇とが相まって、都市建設は地価の安価な調整区域へと追い込まれる結果となったのである(都市研究懇話会他編『都市の風景 日本とヨーロッパの緑農比較』23-4頁。三省堂、1987)。

    資料2

    NHKスペシャル取材班・前掲書・4頁より

    資料3

    佐久間 充・前掲書ⅳ‐ⅴ頁より

    資料4

    NHKスペシャル取材班・前掲書60頁より

  • 5月26日・金曜日。曇り。本日は4/24(月)の文章の続きである。
    6月2日・金曜日。曇り。前回の文章の末尾を若干加筆し、何とかまとまりをつけた。なお、来月初め(7/8・土)、社会環境学会での研究報告者となり、その準備のため手紙は休載とさせていただく。今回は依頼されたからではなく、自ら志願しただけにそれなりの用意をしなければならない。論題:吸引する大都市—地方再生の道はあるのか—
    なお、本会は会員以外の方でも自由にご参加できます。詳細については、当会ホームページをご覧下さい。

    承前。前便で見たように、極度の心的障害を被った兵士の場合、遺伝子を介して彼の子孫にまで影響することがあるすれば、その及ぶべき範囲、深度は測りがたいものになるだろう。そうなれば問題は、兵士が犯罪者であったかどうかは、もはやそれほどの問題では無くなるのかもしれない。確かに、万をこえる凶悪犯罪者が戦場でさらに殺人行為に麻痺し、その手口にも習熟してそのまま社会復帰するのかと想像すると、これはこれで何とも言いようのない不安は募る。
    しかしここには、これらとは別種の問題がある。すなわち、人格的な崩壊の危険である。今も続く激戦地のバクムート市で戦った兵士は「地獄を生きた」と言い、そこで経験した「あらゆるホラー(一言の日本語では表現できない。恐怖、憎悪、憂うつが折り重なったおぞましさ、そんな感情だと、ここでは言っておきたい)が、今私に付きまとい始めている」。体に深い痛手を負ったわけでもないにしても、彼の精神を犯し、忘れようにも忘れられない地獄絵の鮮明な映像が、呻き苦しむ声と共に、夜となく、昼となく彼に纏わりつき、苛むのであろう。しかも、孤独の内にさ迷っているのである。家族ですらここには入りこめない。しばしば彼に語りかける妻は、尋ねる。「あなた、私の言っていること、聞いているの」。
    その声が聞こえる分けもない。今、彼にはこんな絵図が巡り始めたからだ。「彼の友人たち、仲間の全員が、戦車の中で生きながら焼き殺されているのだ」。こうした例はまれではない。別の証言もある。「多くの仲間が殺された。武装された車輛の中で、焼かれた。自分はこの目でそれを見た。手りゅう弾が自分に当たったけれど、爆発しなかったんだ。」
    戦闘における生と死を分ける理由は、単なる偶然でしかない。しかしそれを直接目の当たりにした当人にしてみれば、死のむごたらしさにくわえて、戦友が身代わりになってくれたという負い目、生き延びてしまったという罪悪感が、終生、付きまとい、陰に陽に苦しめるとは、多くの文書で報告されている。しかもここには、今に至るまで、決定的な治療法が存在しないようなのである。となれば、こうした負担、苦痛を負った多くの帰還兵の内には、その重みに耐えきれず、そこからなんとか逃れようとして、アルコール、薬物依存、さらには異様な破壊や殺人行為にふける者たちが誕生するというのも、筆者なりに理解できない話ではない。それにしても、再び言う。彼らのその後の人生が、まさに「生き地獄」になるとは、言葉もない(この項、終わり)。

  • 4月28日・金曜日。晴れ。

    5月8日・月曜日。雨のち曇り。ゴールデンウィーク明けの久しぶりの出勤により、パソコンの手元が、少々、怪しい。とは、単なる言い訳で、ただ単に休みボケのゆえかも知れない。なお、前回末尾に以下次回としたが、今読み返すと、述べるべきことはすでに述べられたように思える。よって以下は、ごく簡単に済ませたい。

    5月19日・月曜日。雨。本日は予定を変更し、下記の文章に替えさせていただいた。

    過日の新聞報道により(4/29)お気づきの方もあろうが、実はこの度の春の生存者叙勲において、筆者も叙勲の栄に浴し、5月12日(金)、国立劇場にて永岡桂子文科大臣ご臨席の下、伝達式および勲章、勲記を授与された。その後皇居に参内し、陛下への拝謁も許された。と、こう書くと、いかにも立派であるが、実は総勢三百人ほどの一人として参列し、ただ目立たぬよう、間違っても奇矯なる振舞いに及んではならぬと、己を必死に抑え、ひたすら平穏に時の過ぎるのを願ったに過ぎない。

    それでもこの式に参列するための準備は、中々厄介であった。十年ぶりにモーニングを引きずり出し、散髪に行くやら、三越に出向いて正装用の靴やYシャツを購入し、揚げ句はカフスボタンまで借り受けた。こんな手はずと段取りは、とてもでないがわが能力で処理できる領分でないことはお察しの通りであり、はや面倒臭さに押しつぶされ、この段階で出席の意欲や闘志は丸々消尽してしまった。要するに、もうどうでも良くなってしまったのである。齢(よわい)、傘寿を迎え、これまで数々の式典を催し、そんなこともこの度の叙勲につながったのかも知れないわが経歴ではあるが、それらは何の役にも立たなかったのである。

    それでも、周囲からは、一生に一度の事だし、誰でも行ける所でもない、是非にも参列せよと励まされ、ようやくのこと万事整えた。かくて前日には意気も揚々、勇躍ホテルに乗り込んだ。までは良かったが、何か寒くてほとんど眠れず(あの日は、夕刻の大雨により、夜分はかなり冷え込んだ。皇居での園遊会が散々であったとは、後で知った話である)、翌日の式典は朦朧の内に過ごし、そのお蔭をもって無駄な力が抜けたのか、あがりもせずリラックス(?)して無事済んだ。とは言え、そんなこんなの疲労は今日まで祟り、わが「手紙」の10日間に及んぶ休載を余儀なくされた、とのくだくだした言い訳を、以上述べさせていただいた。

    ちなみに、筆者の勲位は瑞宝中授賞、昔で言えば、勲三等に相当するようである。と言って、それがどの程度有難いものかは、当方にもよく分からないが、一面識もない春日部市長や県知事から祝電が届き、さらには、いかなる次第か、何人かの国会議員からも、印刷された手紙が舞い込んだ。そして、思いもかけない方々からお祝い、お心のこもった手紙を頂戴したが、これは近頃にない喜びであった。どうも有り難うございました。この場をお借りし、御礼申し上げます。

  • 4月21日・金曜日。晴れ。いよいよ初夏の趣き。蒸し暑し。

    4月24日・月曜日。曇り。やや肌寒い。

     

    先に(2/22)、過酷な戦場での体験が兵士の精神を破壊し、後に深刻な事件を引き起こすこともあったベトナム帰還米兵の悲劇を引きながら、ロシアの現政権では、刑期を終えていない犯罪者を徴兵し、しかも兵役後は完全に社会復帰を許すという政策を導入したが、そこに潜む危うさについて一言しておいた(もっともこれは、現時点ではすでに廃止されたようだが、それでも帰還兵は万単位に及ぶらしい)。この不安は、現在のウクライナ戦争では、もはや不安ではなく、現実であるとも読める記事を、ニューヨークタイムズ(3/25-26)で目にした。「戦争の心的障害」、「戦争の心的障害を負う兵士」が、そのタイトルである。

     

    この戦争の特徴は、長大な戦線の固着と、格段に進化した兵器による弾幕砲火の援護の下、塹壕戦が展開され、それは一方で第一次大戦時の白兵戦を思わせる戦闘でありながら、同時にミサイル、ドローン攻撃がこれまでにないピンポイントの破壊力と残忍性を増幅させる、こうした点にあるようである。またウクライナ軍の場合、一年前までは戦闘経験のない男女混成軍であるという事情もある。

    このような戦場に、長く身をさらす兵士たちが舐める肉体的な苦痛はもちろん、その精神が被る損傷もまた想像を絶したものとなるだろう。記事は言う。これまでの「それぞれの戦争は心的外傷について、何がしか新しいことを我われに教えてきた」。

    第一次大戦では、病院は泣き叫び、硬直し、教科書では「道徳的廃人」と記されるような兵士たちで溢れたと素っ気ない。第二次大戦では、認識の深まりのゆえか、「最も強健な兵士ですら、過酷な戦闘ののちには心的崩壊を被る」と言われるように、やや「同情的な」所見に変わっていく。ベトナム戦争帰還兵については、戦争体験が刻印され、仕事や家庭生活が困難になるケースが報告された。そして、現在の研究はさらに進む。心的障害は、まだ生れていない子供の遺伝情報にまで作用することもあるという意味で、兵士の生涯をこえた影響力を持ちうるというのである。

    キーウ国立医科大学の心理学教授―ロシアのクルミア侵略以来(2014)、ウクライナ兵の心理状況をつぶさに観察してきた研究者―は言っている。戦闘に明け暮れた兵士たちに障害が出るのは、戦場から離脱して後のことであり、その症状は悪夢、フラシュバック、不眠、自殺願望等であり、兵士としての再起は望みがたい。

    そうした障害の発症時期は特定出来そうもないらしい。また、戦争に限らず、強烈な心的障害を受けると、何年か後に思いがけない形で、症状が出るそうだ。疫病研究者の報告によれば、「飢饉後に生まれた子供は、数十年後、両親の受けた経験の痕跡を引き、…肥満、統合失調症、糖尿病の発症率が高く、短命である」。これが事実であれば、現在のウクライナ戦争他、悲惨な状況に立たされた人々の惨状がその後の世代にもそれを強いることになる。人類はいまだ、心的障害の及ぼす多様で深刻な影響について、なにも分かっていないということなのであろう(以下次回)。

  • 4月7日・金曜日。曇り

    4月10日・月曜日。晴れ。

    4月14日・金曜日。晴れ。

    4月17日・月曜日。晴れ。前回の文章にやや手を入れた。

     

    昨日の天声人語(4/9)は、実に傑作であった。と言うよりも、思わず虚を突かれたような一撃であった。この何年もの間、国も社会も少子高齢化と今後の日本社会の成り行きを心配し、様々な対策、制度造り、予算化を進め、なんとかその流れを阻止しようと躍起になって取り組んできた。それに対して、では伺いますが「多子若齢化」の社会なら、子供は貴重ではなくなるのでしょうか、との質問が新中学一年生から発せられた。家庭庁政策相と子供記者とのやり取の中での一幕である。

    恐れ入りました。これまでの政府の発想、対策は、子供をまるで道具か資源かのように扱い、それが少なくなると、今後の労働力や介護、年金基金など困ることが多いから大切にしよう。逆に言えば、子供が多ければ、そんな心配は不要だからどうでもよい、と言っているように聞こえる。この質問は、子供、つまり人間に対する、現在の我われ大人の考え方がいかに浅ましいかを、一言の下に明らかにした。このように指摘されるまで、この問題の本質に思い至らなかったことを、我われは恥じなければならない。

    人間を道具化するとはどういうことか。道具とは、その目的に役立つ限り貴重であり、そうでなくなれば捨てられる。役立つとは、便利であり、利益を生むかどうかで測られる。人間も同じである。役立つために勉強し、必死になって己を磨く。人に負けてはいけない、諦めてはならない。敗者は無価値となって社会の片隅に打ち捨てられてしまうからだ。かくて、何とも息苦しく、ギスギスした競争社会が出現した。しかもそれは、日本だけではなく、世界的な現象のように思える。

    ここにみられる人間観は、人間能力のある一面だけを取り出し、それを極端にまで伸ばそうとする歪(いびつ)なものに見える。ここには、その人がそこにいるだけで周囲は慰められ、他の人には無いその人だけの価値を尊ぶという見方はない。

    確かに、これまでの歴史において、ひとは誰もがかけがえのない存在として大事にされるという社会が在ったのか、と問われれば自信はない。古来からの世界的な宗教やその教えが、今なお我われの生き方を支え、導く指針であり続けていること自体、人間の本性は昔からまったく変わっていない証にも思える。つまり、人間は常に、少しでも役立つ道具であることを求められて、今に至った。

    しかしそうは言っても、現在の人間観は、科学技術の発展と相まって、これまでに輪をかけて、極端にまで突き進み、何のための進歩であり、利益であり、人生なのか訳が分からなくなった時代にあるように見える。我われはこの先どこに進むのであろう。

    ところで、人間を道具化しない見方とは、どのようなことだろうか。筆者にもしかとは答えられない問いだが、朝日新聞(4/7・夕)に掲載された、藤本千尋「ゆらゆらゆれるかかが大すき」の一文に多く教えられた。

    彼女は自閉スペクトラム症(ASD)障害の母親を持つ、小学一年生の児童である。母親が「ちょっとへん」と気づいたのは、保育園児の「年中」の頃であった。一緒に遊ぼうと言えばいつも「ニコニコうなずいて」くれるが、あそびはなかなか始まらず、「わくわくしてまっていると、そのうち、かかはこまったかおでゆれはじめました。右へ左へ、ゆーらゆら。そしてそのまま、手をはなしちゃったふうせんみたいに、ふわーっとどこかへとんでいってしまいました」。

    ASD障碍者の苦手は、大きく言って曖昧なこと、相手の気持ちを理解すること、騒音の中の他、嫌なことが「忘れられないこと」であるようだ。だから遊ぼうと言われると、何をどうすればいいか分からず、揺れ始める。また 多くの失敗や困った記憶があふれだす。そこでかかの記憶を楽しいものだらけにしようと、聞いてみると、「かかがしっぱいしても、おこらずわらってくれたとき。あとかかいがいがしっぱいして、みんなでわらちゃったとき」。そこで彼女は思った。「かかは小さなたのしいを、だいじにだいじにあつめてるんだ。…それはとてもすてきなことだとおもいました。それに、しょうがいがあるからといってとくべつにおもわなくても、いつもしているみたいにふつうにすごすことも、えがおにつながるんだときづきました」。
    どうであろう。人をあるがままに受け入れ、それを喜びとする社会、人を道具としない社会とはこのようなものなのかもしれない。少なくともここには、一つのあり方が示されているように思える。もち論こうした生き方を、グローバルにまで広がった現在の競争社会のただなかで根づかせ、実践することは難しかろう。だが、そのように意識して生きることは出来るョ、と上の文章は告げているのではないか。ここでさらに気付かされる。周囲にこうしたひとが一人でもいれば、現在のように互いが寄る辺なく、砂漠のような競争社会の中で暮らそうとも、一息つき、大きな慰安を得られるのではないか。

    なお、本文は北九州市主催の14回子どもノンフィクション文学賞、小学生部大賞を得た作品であることをここに付しておきたい。