2024年04月05,08,15日

4月5日・金曜日。曇り。花冷えと言われ、昨日より10℃ほど下がって、真冬用のダウンを引っ張り出す。『平家物語』第二分冊、昨日やっと読了。あと二分冊ある。老眼鏡がまるで役に立たず、ほとんど裸眼で読むが、全冊読み終えるまでに、眼球が持つかと不安が横切る。まるで源氏の総攻撃に崩壊寸前の平家の如し。

4月8日・月曜日。曇り。日々、辞書と首っ引きで読むニューヨークタイムズの、地球規模の旱魃、住民の困窮、子供たちの栄養失調などの記事に、いよいよ気が滅入る。

4月15日・月曜日。晴れ。前回の文章に手を入れる。なお、この事について、今さらながら告白する。これまで私なりに多くの文章を書いてきたが、その度ごとに思うことだが、書かれた文章は時間をおいて読み直さなければならぬということだ。執筆中は、自分なりに分かっているつもりだが、実はそうではない。色々な想念が曖昧なまま、絡み合い、それを無理にでも一文の中に固定化しようとする。しかも選ばれたある言葉に込められた多様な意味の一つに引き寄せられ、その意味に沿って文章が流される。こうして文意はいよいよ怪しくなる。

読み直すと、この場合、自分が書こうとした主題について、実に曖昧な映像しかなかったことがよく分かる。そこで文章の推敲が始まる。書かれた文章や言葉を添削しているうちに、次第に己が意図が見えてくる。こうして、思索とは書くことであり、書くことが思索であると思い知るのである。こうした経緯は、かつて清水幾太郎が『論文の書き方』(岩波新書)で述懐していたように思う。

承前。事は科学技術の問題である。人間生活に有用であり、効率性、経済性を認知された技術は、大規模に使用され、さらに人知では越えられない障害に突き当たるまで徹底的に改良、進歩するものであるらしい。その間、物質の本性を追求する科学研究と相まって、ついには科学技術が解決できない問題はないというような時代の到来を夢見る。その途上にある一切の障害(ここでは汚染、温暖化等々)はそうした無限進歩の中ですべて解決されると信ぜられるのであろう。今で言えば、原発から出る放射性廃棄物はいずれ無害化されると信じられているようにである。それはいわば、人が神のような存在を目指すかのようであり、あのバベルの塔の科学版のようにも見える。

こうして我われ人間は、自分の能力に対して揺るぎない自信、信頼を寄せているのだろうが、それは筆者には実に危うい。これをズバリ言えば、我われ人間の本性と科学技術とのアンバランス、不均衡の問題だと言いたい。何やら大げさだが、事は簡単である。

自分自身の内面をジッと見つめてみよう。欲望、嫉妬、羨望、怒り等々が渦巻き、そこにおける悩み、悲しみ、懊悩は果てしない。そして、これらの苦しみを癒し、和らげ、救いの手立を、ほぼ二千年前のイエス、釈迦、孔子らの言葉に求めるのである。つまり我々はこうした領域については、ホモサピエンスとして誕生して以来、まったく成長していないと認めなければならない。だからこそ、彼らの言葉が今なお有効なのであろう(なお、ロビン・ダンバー・小田哲訳『宗教の起源』(白楊社・2023)が、世界宗教の発生時期、地域がほぼ亜熱帯地域の紀元前1千年紀に集中している「歴史研究の大きな謎」(215頁)について、社会史・人口論的視点を加味して興味深い解釈を示している)。

だが、科学技術の進歩は、極端に言えば、無限である。科学者は、恐らくそう信じている。その第一条件は分業化と文字による知識の蓄積にある。だが、ウェーバーは面白いことを言っている。芸術は形式や素材の変化はあっても、ある形式内で達成された完成美は越えられることはない。これは絵画でも、音楽でも同じらしい。そして、ある様式美と他のそれとの完成度との比較はできない。たとえば、ミロのビーナスと現代彫刻の完成度に優劣はつけられない。差異があるのは、好悪、あるいは趣味の問題である。美学についてまったく無知な筆者には自信はないが、どうもそういうことらしい。だが科学技術は違う。これは、兵器の進化一つをとっても明らかだろう。

とすれば、人間の中には、精神活動の内でも進歩できる領域と出来ない領域が併存しているのだろうか。だがそれ以前に、そも科学技術の進歩は無限なのだろうか。これは筆者には答えられない難問である。百㍍走のオリンピック記録は長期にみれば短縮されているようで、この点で我われはその限界をまだ見ていない。とは言え、この場合、走者を支える周辺の科学、技術の進歩のあることを忘れてはならない。スポーツ科学・医学、栄養学からスパイクシューズ、トラック等の無数の改良がある。そうした支援があれば、身体的な向上は可能なのであろう。それでもどこかにヒトとしての限界はあるはずだ。百㍍を1秒で走れるようになるとは思われないからである。そして、同じことは、科学技術についても言えるのかも知れない。となると、科学技術の進歩も、どこかに限界があると言わざるをえないのか。

どうも分からなくなってきた。よってこの問題はこれまでとして、ここでは精神的な成長度が2千年前のそれと同じ人間が、技術進歩に応じた道徳的抑制力もないまま、現在の最新の科学技術を振り回そうとする、その問題を考えてみたい。その時、我われ人間は、その進化に酔いしれ、眼前するあらゆる不足、不便を、その技術革新によって何とか克服しようとするのである。ドバイはその一例に過ぎない。しかも新たな技術が、それまで思いもつかない欲望を解き放たつ。そうして我われはあれもこれも、何でも欲しがり、限度を知らない。ついには秦の始皇帝同様、不老長寿の薬を求め、地球全土を支配したがる権力者は、それを可能にする火力を求め、手にするのである。例えば、プーチンはそうだ。彼は、意に従わなければ核を行使すると言っている。習近平も、台湾統合に必要ならば核を使うと言っている。

こうして欲望と技術進化は無限に続いて、抑制されない。だが、我らの住まう地球は有限であり、その限界を、今益々見せつけられている。恐らく、20世紀前半までの科学技術の規模は、地球からみて、まだ許容しうる程度であった。それだけ地球は広大であった。だが今や地球は一挙に縮小し、人類の生み出す破壊や害悪を吸収しえなくなった。ならば、一刻も早く欲望と技術進化のこの連鎖を止めなければならない。このままでは、人類は自身が積み上げた欲望の重みで、想像もつかない惨劇に吞み込まれるであろう。この世の断末魔を予言した「ヨハネの黙示録」が目に浮かぶ(この項、終わり)。


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