• 12月1日・月曜日。晴れ。師走、はや年末。

    言うまいと 思えど漏らす えーッ師走!  みつお

    12月5日・金曜日。晴れ。「同盟国の方がたちが悪い」と言い放った、過日のトランプ大統領の言葉には、愕然とし、心底、失望した。根拠の無いことを平気で口走り、それを愧じることも無い。かかる人格を大統領をいまだに支持する米国民に伺いたい。本当に、このヒトでいいんですか。世界からの信頼を失わないんですか。軍事力と経済力さえあれば、国家として存立して行けるものなのだろうか。米国民のために心配する。

    承前。パリ市近郊にはあのブーローニュの森が広がる。辺りが暮れなずむ頃、星付きの高級レストランからは華やかな明かりが漏れだし、樹々の暗闇には、湧き出たように、気づけば娼婦や男娼たちの影が揺らめきだす。そう、ここはまた「売春の森なの。美しくて、退廃的。そんな街であたしはバーのママになって、マダムと呼ばれる」までになった。このことを、人はどう考えたらいいのだろう。何の足場もない「か弱い女」が、東洋からふらりとやって来て、人あしらいの難しい浮き沈みの激しいこの道で、たちまち揺るぎない地位を築くとは。よほどの勁さと人としての魅力があってのことではなかったか。

    マダムの日々も板についてきた、そんな折であったか。「フランスのおっぱいの大きい知人」から「モロッコで性別適合手術ができる」との情報を得た。早速、「病院に手紙を出しました。150万円出せばやってくれると分かりました。性器を取って、睾丸を包んでた袋をヴァギナにするんだって。パリのゲイボーイたちには「やめろ」「行くな」と止められました。死ぬかもしれない。でも、行くしかない」。

  • 11月14日・金曜日。晴れ。高市政権は安倍政治をなぞるようなところがあり、まず景気浮揚による自民単独過半数を達成し、出来れば憲法改正から右翼的な国家改造を目指しているのだろう。まさか戦前の天皇親政政治まで求めているとは思えないが、いずれにしろ個人の自立と自主性を尊重する民主主義的政治は大幅に改変されるに違いない。国民は経済発展に幻惑され、総選挙では間違っても白紙委任のような圧勝を政権側に与えてはなるまい。

    11月17日・月曜日。晴れ。本日、中高時代の友人から2名の訃報を受ける。うすうす予感していたとはいえ、ほんの1カ月の間での事であれば、さすがに滅入る。獨協中学・高校の6年間を共に過ごした級友たちであった。ドイツ語組に属した我われはたしか34人ほどであり、組替えもなくそのまま卒業したのである。それゆえ縁は深い。現在存命なのは、10名に満たないだろう。

    いずれも癌を病んでいた。それでも、旅に出、時折の会合には幹事役を引き受け、私など大いに助けられたものだ。ご遺族の悲しみは深かろう。だが、病床で長患いをせず、病と共生しながら明るく逝けたことは、一つの慰めではなかったか。それにしても、82歳とはそのような歳なのだと、改めて思う。合掌。

    承前。その後の道行は文字通り「フーテンのマキ」となって、愛媛、福岡、愛知、大阪と渡り歩くが、その道中が平安であろうはずもない。「いじわるババアのゲイボーイ」との戦闘に備えて、胸元に剃刀を仕込んでは「カミソリ・マキ」の異名をとるなど波乱万丈。中でも圧巻は、新歌舞伎座(大阪)裏でやっと見つけた、怪しげな病院での睾丸の摘出手術である。次第に濃くなる髭の対処に手を焼き、同僚のタマ抜きの「すごい美人」に対抗するためもあって決断する。執刀医の言葉がむごかった。「簡単や、3万でええ。けど、引き返されへんで」。たしかに手術は簡単だったが、案の定、術後は傷口が膿んで、これを「ホチキスで止めて」仕事に出るオマケがついた。

    この大阪での生活が、麻紀氏の転機となる。ゲイバー(ミナミ)で働く他に、キタではヌードショウの舞台に出るようになり、カルーセル麻紀と名乗った。左の太ももには牡丹と蛇のからんだ入れ墨が映え、時には本物が巻き付く「しなやかな体を舞台にさらすと、マスコミが食いつく」ようになってきた。こうして女優、タレントとして芸能界への道が開かれた。ただ、本人はストリッパーを自認してやまない。「皆嫌がって出来ない仕事をするのがあたし」だからだ。

    記事には、胸も豊かで、首には蛇が巻き付いた麻紀氏の写真が載っている。その美しさには、凄艶で、ゾットさせるなまめかしさが漂うが、同時に何年もの修羅を潜り抜けて鍛えられた怖さもにじむ。これでは、ある種の男たちが絡めとられるのもやむを得まい。そんな麻紀氏を見込んだか、世話になったゲイバーのママから、店を出すから「ママとしてちょっと行ってくれない?」と言われて向かった先が、パリのパピヨンというゲイバーであった。

    ボンジュール、メルシーしか知らない、パリでの生活が始まった。元々、音感に優れ、どこに行っても、土地の言葉をたちまちものにする才能にくわえて、持ち前の強さ、逞しさが彼女を支えた。学校ではなく、ジゴロみたいな遊び人たちから教えられる「悪い言葉」を耳できいて覚えた。「外国語を覚える時はそれがいいの。海外で悪口言われた時、(黙って)苦笑いするしかないなんて嫌。だから悪い言葉は知っておかなきゃ。フランス語だと、まずは「メルド!」。「くそったれ」って意味よ」(以下次回)。

  • 10月27日・月曜日。晴れ。ここ数日の寒さはどこへやら、快晴とまではいかないが、Tシャツ姿の外国人を見る。わが身と引き比べ、チョイト、驚く。

    11月10日・月曜日。晴れ。気づけば霜月。久しぶりのことだが、雨続きの寒さにやられて、鼻かぜを引き、2,3日寝込んだ。幸い、それ以上の大事には至らず、本日出社となる。

    承前。まだ15歳の麻紀氏は、18歳と偽り、札幌ススキノのゲイバー店に「マメコ」として出る。グリーンピースのように顔も背も小さいことから、ママが付けた源氏名だ。思わず「やだわ、って思ったけど」、ママが励ます。「あんた、マメコは売れる名前だよ。一流になるよ」。ここを皮切りに、その後道内を、時にヤクザに追われ、借金を踏み倒しながら転々とするが、舞台は本州に移って、いつしか鎌倉の「青江」に流れ付く。「海の家のような掘っ立て小屋」の暮らしは、「地獄に行こうか、青江に行こうか」と言われるほどの日々であった。そして、ここで今に続く「マキ」の名前を得るが、同時にこの道で生きるに必要な手管のすべてを身につけた。

    「すごい時代ですよ。高度成長期に入るのに、戦後のどさくさも残ってて、新橋や有楽町なんて立ちんぼがいっぱいいたのに、東京五輪が始まるからって排除されたの。マヤちゃんもその一人。私に全部教えてくれた人よ。男のだまし方とか、セックスの仕方とか」。    

    確かにそうであった。東京五輪の10年前頃からであろうか、東京中が掘り返され、せわしなくダンプが行きかう。巨大クレーンが狂ったように大空をかき回し、東京タワー(1958)が日々背丈を伸ばしていく映像が、筆者の眼にも浮かんでくる。だが、こうした怒涛のような経済成長の陰では、有楽町や新宿といった繫華街の裏側には、ここで言われるような人達が佇んでおり、それをこわごわ見たのを薄っすらと思いだす。わが15歳の頃であった(以下次回)。

  • 10月20日・月曜日。曇り。一昨日の大谷選手の活躍は、人間の域をはるかに超え、だから誰もがマンガの世界だと呆れた。大リーガーの面々も息をのみ、その後には感嘆の叫びしかなかった。その一々をネットニュースで読めるだけ読んでいると、人間とはどこまで高みに登れるのか、その能力と限界の問題を考えさせられる。

    明日、国会では首班指名の選挙が行われ、高市新総裁が選出される予定である。このことについては、別の機会に所感を記したい。

    10月24日・金曜日。雨。富士の初冠雪の報をきく。夏が去り、はや初冬の趣き。四季は三季になったか。

     

     太平洋戦争開戦の翌年(昭和17年)、釧路の漁師町に生まれる。15歳で家出するまでの生活は、その後の混沌とした人生行路を予感させるものであった。アメリカに徹底して勝つ男を願って、父親がつけた「徹男」だが、小さな子供で母親の着物を好んでまとい、小学校で「男か女か分かんねえな」と言われて、女への「なりかけ」と呼ばれ、いつしか「テツコ」となる。漁師町であり、戦時でもあれば差別やいじめは免れない。そんな中「テツコに手を出すな」と守ってくれる番長の庇護があった。除夜の鐘を耳にしながらの初詣の帰途、通りかかった女郎屋の格子から覗いた「お女郎さんたち。白塗りしてこっちを見てるの。うわあ、きれいだな。大人になったら女郎になろう。そう思いました」。パチリとスイッチが入った瞬間であったのだろうか。

     こう聞くと、なにか弱々しい少年時代(?)に見えるが、「食いぶちは自力で稼ぐ」力は、負けてはいない。港に落ちたサンマやサバを拾ってカネに替え、中学生になれば線路際に落ちた石炭を集めて家計を助け、凍てつく早朝、親父の酒を一杯ひっかけ牛乳配達、新聞配達に飛び出す。腹が減れば、水商売の姉さんたちの家に上がり込んで、ご馳走になるなど、じつに逞しい。  であれば、高校に進んで、安穏であろうはずもない。戦時下の丸刈りの時代に、長髪に挑む。たちまち、教頭が「なんだその頭は!」といきなりバリカンを入れられ丸坊主に。「だから殴った。「なんだこの野郎!」よ。ケツまくったわよ」。ここで高校生活はあっけなく終わって、家を出る。昭和33年9月のことであり、こうして波乱に富む放浪生活の幕が開く(以下次回)。

  • 10月3日・金曜日。曇り。今夏のやけるような熱暑はおさまり、朝晩の涼しさは有難いが、インフルエンザがそろりと迫る。お気をつけあれ。

    10月7日・火曜日。曇り、時々雨。高市氏、自民党新総裁に。株価の狂騰、新総裁への期待値は68%と、滑り出しは上々に見える。ただ、氏の政治姿勢、裏金問題への取り組み、それに絡む人事で友党・公明党の憂慮、国民の反発も伝えられ、前途はやはり多難である。当然だ。一国の命運を担うに、安閑な道であろうずはない。

    筆者からも一太刀浴びせれば、選挙禊論には、断固反対である。特に「政治とカネ」の自民積年の問題に対して、「解党的対策」を取らず、政策的成果さえ上げれば国民は忘れる、と開き直れば、次の選挙で鉄槌が下る。自民の最近の敗退は、単に右派的支持者の流出ではなく、統一教会、裏金問題が主たる理由だと肝に銘じよ。

     朝日新聞に(語る 人生の贈りもの)という連載物があり、筆者も必ずではないが、対象に惹かれるとよく読む。もうだいぶ前のことになるが、カルーセル麻紀氏の話(’25/5/25₋6/20)にはあれこれ考えさせられた。特に、氏の人生行路をとおして浮き上がってくる人間の奥の奥から沸き上がる、どうにも抑制し難い情念というべきか欲求というか、そうした何とも言い難い力(フロイトはこれを性欲動といったように思うが)が、当人を捉えて離さず、社会的、道徳的ないかなる規制や強制力も、また人生上の損得の理屈や教えもまったく効き目を持たずに、当人を引きずりまわしていく、氏の物語にただひきつけられた。これを知れば、人間とは理性的、合理的であると言った人間像など、いかにも皮相で、浅薄なものだと、改めて得心させられるのである。

    現在では、この種の話に対して、社会的な認知や理解がどこまで進んでいるかはともあれ、法的な対応はやや緩和されて来たのであろう。過日の記事(朝日・10/1)もその一例である。出生時に、戸籍に記された性別を変更しようとするには、まず性器の概観をそれに合わせて変更すること、つまり手術によって性器を切除したり、作り変えて「外観要件」を満たせという性障害特例法が施行されていたのだが、その後、2023年、この法令は違憲であるとの判断が、最高裁によって確定される。だがそれ以後も、最高裁によると、外観要件を満たしていないがために、性別変更の要求が認められなかったという訴えが続いて、家事裁判においてこの「外観要件」は「違憲」だと判断した案件が、今年9月までに5件報告されている。 これを思えば、違憲判断が出される以前の当該障碍者が負わなければならなかった肉体的、精神的な苦痛、負担は、並大抵ではなかったであろう。カルーセル麻紀氏が辿った人生は、まさにそうした人々の人生そのものであった。氏の場合、法的保護の有無にかかわらず、自身の体にまとわる男性性を何としても除去しようという衝動は苛烈で、文字通り命を賭けても成し遂げたいという点で、それ以後の人たちとは全く別物であった(以下次回)。