• 2月16日・月曜日。晴れ。本日、朝日の社説の一言に、思わず唸った。「政治は灯台のようなもの。未来に通じる道筋を照らす明かりで、現在の闇を映す鏡ではない。『世論調査の民主主義』は真の民主主義ではない」。仏ミッテラン政権の法相として、死刑存続を主張する民意に向き合い、その廃止に導いたロベール・バダンテール氏の言という。眼前の民意なるものに迎合し、票欲しさの減税オンパレードに終始した、この度の衆院選と比べて何たる違いか。こうした減税政策の結果、この国の将来の基幹的な政策の財源が掘り崩され、将来世代に途轍もない負担、困難を強いることになる、と主要政党はまったく説くことができなかった。ここに究極のポピュリズムを見たが、これは結局、国民の政治意識の問題に尽きる。

    2月27日・金曜日。晴れ。

    3月2日・月曜日。曇り。

    承前。前回に引用したスピノザによれば、2千年前のイエスの教えは国と時代を越えて通用し、しかもそれを理解するのに、何か特別の能力を必要とするどころか、ごく普通の人が自然に分かり、さらには自分の生活の支えとなるものだ、と言っているのだろう。とすれば、我われ人間はこの限り、この2千年来(それどころかそれ以前から)、一歩も前進、進歩していないと言わざるを得ない。仏教の説く偸盗、色欲、虚言、憤怒等の十善戒の教えから解き放たれた人間は、人類誕生から今にいたるも一人もいまい。これが人間であり、我われには越えようにも越えられない限界があるのであろう。

    こんな分かり切ったことを今さら持ち出したのも、人類社会は現在、途方もない危機に襲われているのではないかという、なんとも言いようもない恐怖を覚えるからである。科学とそれに裏打ちされた技術は、無限進歩を驀進し、兵器の破壊力は想像もつかないほどになった。他方、それを扱う人間の精神的、理性的な能力は進歩するどころか、2千年前と少しも変わらず、権勢欲、支配欲その他の欲望にさいなまれ、その抑制力はまったく働かない。弓や鉄砲をもって原野を駆けずり回るのとはわけが違う。陸海空にくわえて宇宙にまで拡大し、狙えばピンポイントでどこにでも弾道を落とせる能力を持つ。

    そして、プーチンは言った。必要なら原子兵器を使う。ウクライナ戦争での発言だが、そうなれば世界がどうなるか、お前たち、分かっているだろうな。だからオレをあまり追い詰めるなよと言っているのだ。まさか、一直線にそうなる訳でもあるまいが、あり得ない話ではない。こう思えばこそ、世界の指導者たちはそう簡単にウクライナ支援も出来ない。その結果が4年に及ぶウクライナ戦争であった。その間、世界はプーチンの政治的脅迫に呪縛され続けてきたのであった。

    プーチンが今取っている人類全体を人質にした政治的戦略は、今のところ成功しており、見ようによっては彼の胆力、戦略性には、お前、自分の野心ためにそこまでやるのかと、恐れ入る他ない。と言うより、ここまでの狂気を目の当たりにして、世界はこの事態をどう軟着陸させるのかは、喫緊の課題に違いないが、先に戻って、科学技術と人間の精神的能力の乖離の問題は残っている。しかも、技術進歩と共に、その乖離は二乗、三乗と指数関数的に開いていくのでる。その意味では、江崎先生の言われたように、人類は賢くなった、とはとても思えず、こうした事態を前にただ呆然とするばかりである。

    ことは、プーチン一人の問題では無い。習近平やトランプといった現在の世界最高権力者の思惟と行動もまた常軌を逸した点で、恐怖そのものである。とくにトランプ大統領の政策なのか単なる思いつきなのか、彼のその決断は、歴代の権力者の中でも群を抜く凶暴さであり、危険極まりない。そこには規範意識はまったく欠落し、だから予測不能な上、国際法その他外交上の規則や取り決めを歯牙にもかけない。生命、環境、人権といったおよそ人であるならば、ごく自然にこれは大事にしなければ、と言った心情、性情は微塵もないのであろう。ここにあるのは、眼前の1ドルの儲けであり、己が権力の拡張、名声と称賛への浅ましいまでの渇望であり、それを獲るためにはどんな犠牲も厭わないという、むき出しの執着である。

    以上は、単に筆者一人の思い込みではない。オーナー・ハサウエイ氏(次期米国際法学会会長)もまた悲痛な思いを吐露されているのである。さきのベネゼイラに対するトランプ政権に対し、「今回の攻撃は国際法にも、米国の国内法にも根拠がありません。私はこの行動が世界、ひいては人類全体を、非常に危険な状態に陥らせる可能性があると、心配しています」(朝日新聞’26年、2月7日・土)。その対抗策として、氏は「国際社会の団結」を呼びかけるが、それが功を奏するのを、ただ祈るしか手立てがないというのも、なんとも頼りなく、やり切れない思いでもある(この項、終わり)。

  • 2月6日・金曜日。晴れ。この一週間、寝たり起きたりの日々であった。インフルエンザか単なる風邪なのかは知らず(例によって、のたうち回るような苦しみでなければ、まず医者には行かないからで、それゆえ周りからはひどく叱られるのだが)、咳、痰、鼻汁に悩まされながら、ただ布団に蹲り、ろくな食事もとらず、ひたすら難儀の去るのを待つと言う、実に原始的な療養法、あるいは獣のような対応で、本日に至る。まだ、咳はかなり残っている。今冬の寒さは格別で、トランプはだから温暖化は詐欺だと相変わらずの能天気だが、そうではない。地域、地方により、逆に寒気が募るのも温暖化だとは、科学の弁である。

    2月9日・月曜日。晴れ。昨日は衆院選の投票日であり、結果はご存じの通り、自民圧勝であった。これについての筆写の感想は、いずれ述べる機会があれば触れてみたいが、本日は割愛したい。

    承前。江崎氏によれば、科学とは、既存の科学的知識の誤り、不十分な点が否定され、また是正されて「論理的にきちんと整合した形で、革新的な知識が加わっていくもの」であり、こうして旧い知識は解体され、新理論が誕生する。こう見れば、科学には「進歩」が組み込まれており、それゆえ科学は進歩せざるを得ない営みなのだ。「内在」とはそういうことであろう。

    と言うことは、そうした革新的な知識が論理的、かつ整合した形で組み込めないような分野、領域では、進歩はおぼつか無いということになろうか。それはいかなる領域か。氏は言われる。「芸術や音楽も、革新的な「変貌」を遂げることがありますが、必ずしも進歩ではないでしょう」。まさにそうだ。

    ここで筆者もまたマックス・ヴェーバーなる巨人の肩とは言わず、腰辺りにすがって遠望すれば、芸術表現は素材、表現形式、技術等において多様な変貌を遂げてきたにしても、それぞれの流儀で生み出された最高傑作の芸術的な価値は後世の傑作によって乗り越えられることはないだろう。紀元前100年頃に制作されたと言うミロのビーナス像、あるいは広隆寺の半跏思惟像の芸術的価値が、現代の作品によって毀損されることがないことを思えば、この間の事情は何となく理解されよう。

    これは何を意味するのだろう。筆者にはしかとは答えられない問いではあるが、芸術的価値とは、どこかに頂点があって、それをこえたそれ以上の価値はない、あるいは人間にはそれを生み出す能力はない、そのような対象なのではないか。つまりここでは、既存の作品に「革新的な」芸術的価値が加算され、累積的に価値が高まり、無限に進歩するといった構造にはないと言いたいのである。

    こうした事例は他にも多々あろうが、たとえばイエスの言葉はどうか。新約聖書に記された彼の言葉は、以降多様に解釈され、深められ、その点で進歩してきたと言えるかもしれない。その間に積み上げられた神学体系は巨大で、筆者にはその扉すら開けられもしないほどだが、しかしその集積がどれほであっても、それ自体はイエスの遺した言葉(TESTAMENT:遺言・契約)を離れてはあり得ない。しかも、それがキリスト教と言う限り、その集積から彼を越えて、彼を否定した新たな価値を持った教えが樹立されると言うことはない。むしろ話は逆で、イエスへの理解が深まるほどに、その言葉の真理性はさらに明らかとなると言う。スピノザ(1632-77)は言っている。キリストの「物語の最上の部分は・・・主に道徳的な教訓から成り立っている。この部分の内容は誰もが自然の光によって簡単に理解できるのである」(吉田量彦訳『神学・政治論』(下)57頁。光文社2014)。

    科学的進歩は先行の業績を踏まえながら、それを否定しつつ真理に向かって侵攻し、これを進歩と言ったが、これにたいして上に事例はそれとは反対の方向をさしている。研究の深まりによって、始祖の深さ、真理性がいよいよ明らかになると言うからである(同じことは、孔子や仏陀についても言えるのだろう)(以下次回)。

  • 1月9日・金曜日。晴れ。この所、夜間の冷え込みは相変わらず厳しいものの、日中の日差しは、日ごとに春らしさを増してきている。まさに新春、体のほぐれを感ずるが、これを十全に歓ぶ気分にもなれない。ほどなくあの酷暑に襲われるかと思えば、今のこの寒さを身内に十分沁み込ませておこう。そんな気に捉われる。

    1月19日・月曜日。晴れ。第二次大戦以降、辛うじて支えられてきた世界秩序が崩壊しかかっている。言うまでもなく、トランプ政権の常軌を逸した横暴さのゆえだ。国際法は不要で、自分を縛るのは自分の道徳(筆者には全く意味不明)だと嘯く。彼の意に反すれば、有無を言わさず武力や経済制裁を課す。世界は、突如、理想や法の支配から、力(武力・経済力)の支配する「弱肉強食」の世界になった。これはプーチンがウクライナに侵攻した4年前頃から強まったが、たったそれだけの期間で、これだけの変化、そして惨事を、人類は見せつけられたのである。民主主義とはかくも脆い組織だと、改めて思い知る。

    1月26日・月曜日。晴れ。厳しい寒気、続く。この間、ダボス会議(スイス)がもたれ、カナダのカーニー首相の基調講演が聴衆の心をつかみ、世界に感銘を与えた。名指しこそしないがトランプ政権を見据えて、「大国への迎合は安全を手にしえず」と、世界の大舞台で言い切った。

    これに比べて、トランプがノルウェイ首相に送った手紙は、別の意味で世界を唖然とさせ、ニューヨークタイムズ(1/24~25)のコラムニストは「常軌を逸した錯乱と妄想だ(deranged and delusive )」と嗤った。そこには、ノルウェイ政府がノーベル平和賞を自分以外の者に送った故に、もはや世界平和にかかわる意思が失せたとあったからだ。かかる人格が世界最高権力者なのである。彼を選挙した米国人の恥辱はいかばかりかと同情し、また世界の不幸を思う。何たる悲劇であり、転じて「喜劇」ではないか。

    昨年末(12/28)、朝日新聞が筆者には面白い問題を提起した。「この一世紀で人々は賢くなったと言えるのだろうか。幸せになったと言えるのだろうか」と。これはそれまで1年半にわたって連載された「百年 未来への歴史」という記事の中の一つである。筆者がこの記事に特に興味を持ったのは、江崎玲於奈氏(1973年ノーベル物理学賞)の「この百年 人類は賢く 幸福になった」という、誠に明るく、ポジティヴな答えに触発されるものがあったからである。

    江崎氏の言う、人類がこの百年、「賢く、幸福」になった理由はこうである。百年前の世界の暮らし向きに比べて、現在は総じて豊かになった。それは科学技術に支えられて、生活環境が改善されたからだ。つまりここでの「幸福」とは生活上の物質的な改善のことであり、その改善を可能にした科学技術を進歩させただけ、人類の「賢さ」は増した、と纏められようか。

    ただこれに対しては、人間の賢さや幸福は、ただ技術の進歩や生活改善のみで測れるものでもなかろうという、嫌みな問いを提示出きそうだが、そうしたことを含めて答えるには、高々一頁のインタビュー記事では、所詮無理な話で、だから、この問いに対する江崎氏の回答について、筆者はそれとして了解する。

    たしかに科学の進歩は、人類の進化・前進をはかる最良の目盛りに違いない。では、科学は何故、「進歩」するのか、あるいは出来るのか。氏は言う。「科学的発見のプロセスは、常に先達の積み重ねの上に、論理的にきちんと整合した形で、革新的な知識が加わっていくもの。言わば、科学には仕組みそのものに「進歩」が内在している」。これを、かのニュートンは絶妙な比喩を使って、こう言った。「私が他の誰よりも遠くを見ることができるとすれば、背の高い巨人の肩の上に立って、視野を伸ばしているからだ」。

    ここでは、科学ばかりか、人間の進歩の在り方が、これ以上ないほど平明に述べられ、同氏の説明には欠ける所はない。流石である。そして同時に、ここに、我われ人間の進歩の在り方の限界が提示されているようにも、思われるのである(以下次回)。

  • 12月26日・金曜日。晴れ。強風。腰痛を養う。だが往時のそれに比べればドウということもない。オウ、来たか。久しぶりだな、っと懐かしむ気分もある。

    2026年1月5日・月曜日。あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。

    年頭の「手紙」は、昨年末の文章の修正で始めさせていただきます。読み直して、意に満たざるところ多く、止む無くこうした次第となりました。

    なお、一昨日のトランプ政権のベネゼエラ襲撃と大統領拉致の報には、衝撃を受け、今年以降の先行きに大きな不安を覚える。本日の日経ダウ平均は大幅高で終え、その影響は限定的と言っていたが、あまりに楽観的に過ぎ、正月ボケと言わざるを得ない。何より、大国(ここでは米中露の三国)は、利があるとみれば、力ずくで取りに行き、法も正義も秩序もお構いなしの態度をむき出しにしてきた。理屈は後で捏ね上げればそれ済むとみている。そして、世界はこの3国で分断統治し、世界の安定(これが彼らの言う「平和」である)をはかる。このままでいけば、我われはそういう時代に突入することにならないか。

    承前。麻紀氏のこれまでの人生(勿論、まだ終わった訳でもなく、今後もまだ長い「メイクドラマ」(長嶋茂雄)が続くやもしれないのだが)の意味は、人によって様々に解釈されよう。それで良いし、それ以外にはあり得ない。筆者はそれを問おうとして、氏の話を取り上げたのではない。その訳を以下に記して、この欄を閉じたい。

    筆者がまず言いたいことは、我われはまだ人間のことを良く知らない。分かったつもりでいて、分かっていない。これまで見てきたように、麻紀氏の人生は、当人にもどうにもならない身内から突き上げてくる、抑制不能な欲求であり、願いであり、それが自らの命すら奪う危険であろうとも、そうせざるを得ない衝動、力に翻弄されたもののように見える。これは端から見れば、事の是非善悪を越えた理不尽なものに見える。誰でもひとにはそうした性向があるだろうが、ある種の人たちにはそれがのっぴきならない衝動として迫ってくるのであろう。その時それが、社会規範、常識と相反するような場合には、死ぬほどの苦悩にさいなまされるに違いない。だが、そのよって来る本当の原因、その対処について、人間はどれだけ知っているのであろう。多くの文学作品の主題ともなるところであろう。

    だが考えてみれば、こういうことがあると言うその事自体は、いま改めて言われなくとも社会は、また人類の歴史は、すでに十分知ってもいるのである。にも拘らず、社会、そして社会を代表し、それどころか社会、国家のあり様を指導せねばならないと信ずる権力は、これを弾圧、強制し、人びとをある枠組みの中に押し込めようとして止まない。戦時においては特に、その締め付けは狂暴となる。少しでもそこからはみ出ようとする人間を容赦しない。そこに宗教が絡めば、さらに酷いことになる。

    現下では、トランプ政権がそうだ。神は男と女しか作っていない。人としてのそれ以外の存在を認めない。何たる横暴か。同時に多くの人々を苦しめてもいる。しかも彼には、そうした痛みや悲しみを理解する感性もない。それどころか彼のこの政策は、ひたすら神に帰依した深い祈りに支えられた宗教的信条から出たと言うより、むしろそれによって、巨大なキリスト教派の支持を当てに出来ると見込んだ上での方針のようにも見え、それだけ浅ましさは募る。

    彼には、眼前の損得だけが問題で、風向きが変われば平気で前言を翻し、恥ともしない人間である。ここには、自分を越えた大いなる存在への敬意や畏怖もない。だから、彼の政策がのちにどれほどの惨事をもたらすだろうか、といったことへの恐怖、たじろぎといった感情も皆無であり、そうしたことへの想像力をまるで欠落しているのだろう。この様な人間が世界の最高権力者であるということに、底なしの恐怖を覚えざるを得ない。そして、筆者には、プーチンも同類に見える。だが、我われの時代は、何故こうした指導者を生んだのであろう。この問題は、別途、改めて考えなければなるまい。

    また我が国では、現政権は家族制度について、同性婚を認めようとしない。夫婦別姓を認めず、旧姓使用の法整備で乗り切ろうとする。総理はこれによって、生活上の不便はほとんど解消されるので、問題はないという。この問題では、多くは妻側が戸籍上の改正を強いられるが(しかも高市氏は高市姓を改姓してはいない身勝手さだ)、彼女は改姓を迫られる多くの女たちの、身の底から沸き上がる喪失感、その理不尽さを、単なる便不便の問題に解消して事足りる、と言う心情の持ち主である。こうした思考、心情は、政治的に右派と称する陣営、多くの宗教勢力に支えられているらしい。彼らからすれば、同性婚や夫婦別姓の承認は日本古来から伝わる家族制度の崩壊に至ると危惧してのことらしい。では、夫婦別姓を執る諸外国では、家族は成り立たず、社会は混乱しているのだろうか。そうではあるまい。なら、何故日本だけが混乱するのであろう。我われはそれほど愚かなのだろうか。

    そもそも伺いたい。あなた方はいかなる資格と権威をもって、国民はすべからくこう生き、暮らすべしとの号令をかけるのだろうか。国民はいつあなた方の臣下になったと言うのか。他者を侵害せず、刑法にも触れず、日々を真剣に生き、人生を全うしようとしている人々を、苦しめ、拘束する権限なぞ、君たちにあろうはずも無い。断じて、無い。いわんや、選挙資金や何やかやを脱税し、裏金化して必死に言い繕っているだけの政治家先生たちの、偉そうなお説に従う理由もない。

    あなた方に、もう少し立派に成れとは言わない。ただ、多くの苦しみ、悲しみに必死になって耐え、生きようとする人々への声に、もう少し耳を傾け、親身になろうと言う心持は持てないものだろうか(本項、終わり)。

    本年のブログ、これをもって締めさせていただきます。一年間のお付き合いに感謝し、来年も宜しくお願いいたします。皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。

  • 12月12日・金曜日。晴れ。かなりの寒波。今夜の冷え込みを思う。浅草新仲見世アーケード下に蹲る人々には、毎度、かすかに後ろめたさを覚えながらり過ぎるが、自分の無力を突き付けられているように感じるからだろう。

    12月15日・月曜日。晴れ。本日、新聞休刊。正直、ホッとする。毎日押し寄せる圧倒的な情報に辟易しながら、あらかた読むのに2時間は要する難行を強いられているからだ。他方、これを何紙も読みこなす御仁もあると聞き、恐れ入る。それにしても、広告宣伝を含めたほぼ30頁の分量は、優に新書版の1冊に相当するとは、大昔に読んだ憶えがあるが、ひとはそんな量の情報を毎日必要としているのだろうか。本日のように、無ければないで、どうということも無い。そして、情報が大量になるほど、その一々の価値は減少するのではなかろうか。それらはただ受け入れられ、消費さればかりで、その一つ一つを咀嚼し、玩味し、意味を考える暇もないからだ。

    テレビ、SNSといった新手の競争相手に伍してシェアを維持し、入費をはかるには、現在のような何でも取り込んだ百科事典のような新聞作りを、毎日していく他ないのかも知れない。だが、こんなことが今後もずっと続くとは思えない。ただ、千年後の人類が紙に記された文字の異なる何千種類の巨大な知の集積を発見した折、いかなる反応を取るのか、見てみたい気もする。かつての人類のあり様を知る最良の資料とみるのか、あるいは聖書の死海写本のパピルスが焚きつけにされていた、そんな運命をたどるのか。

    承前。術後、麻紀氏はモロッコの病院で膿み朽ち果てるということも無く、無事、帰国する。その後の今日までの人生行路もまた、たちまち破綻したフランス人との結婚生活やら情痴の限りを尽くした男性遍歴に明け暮れ、さらには芸能人としてのキャリアと留置所生活が加わり、これらは常人には思いもよらぬことながら、ここでは省略したい。それでも、このことには触れておこう。

    成否も分からぬまま、文字通り命がけで手にした「女」の体ではあるが、その結果、麻紀氏をはじめ、そんな体験を持った「オンナ」たちの多くは幸せにはなれなかった。つまるところ自分はこさえ物なのであり、目標への一歩のはずがかえって遠ざかていることを、嫌でも認めざるを得ないからだろう。このことに絶望し、術後の彼女たちは「いっぱい死んだ。…あたしも死のうとしたことあるけど、ストリッパーだから」止めたの。

    人の心の何とも凄まじくも不可解なことか。これに比すれば理性とか道理なんぞはさかしらで、こんなものではどうにもならない生命の根源的で圧倒的な力、というものを見せつけてはいないだろうか。奥底に潜む自分でも気づかぬ、ときには狂暴な爆発力が、その人を捉えるのであろう(それはすでにして、幼児のむずかる様や怒りの中にも表わされているように見える)。

    もう一つは、父親の愛情である。父からすれば、米国との戦争では「徹底的に戦う男になれ」と祈って名付けた「徹男」が、見るも無残な姿になり果てた。だから親父は、自分を許すはずもなく、「鬼みたいな人だと思っていた」の。だが、そうではなかった。その本心に気づいたのは、遺品の中から封も切られていないものを含めて、レコードがいっぱい出てきた時だ。「全部あたしの曲。…そこらじゅうの店を回って買い集めてたみたい。家に蓄音機もないのに。…最後まで気づけなかった。通夜の日、ひつぎの前できょうだいでマージャンをしました。バンってたたきながら「親父、負けたよ」」。こうして、父親の心中にもあった、組んずほぐれずのドラマを知らされるのである。

    麻紀氏は、映画「一月の声に歓びを刻め」に出演し、「今年2月、毎日映画コンクール助演俳優賞」を受賞する。「男優でも女優でもなく、俳優」として。これは80年近く続くコンクールで初めての快挙であったが、賞としての男女の枠が撤廃されたからである。式当日、「30年前、パリで作った黒いドレス。シルクサテンで肌に張り付くの。82歳になって裸のおっぱい見えそうな格好で、ハイヒールは13センチ」を履いて、出席した。ここに彼女の今日までの矜持、暮らしの哀歓のすべてがにじみ出る。 そして、釧路を見渡せる高台に、「いつかはそこに」入ると思い定めて、墓を建て、墓石には赤く平原徹男の文字を刻む。大阪で名付けたカルーセルとは「外国語でメリーゴーランドを意味する」そうだ。彼女は当時は意識せずとも、釧路を飛び出し、日本中を巡り回って、パリやモロッコにまで出向き、最後は故郷の釧路に再び舞い戻る。こうして、カルーセルの意味を実現したのである。まるで、天が彼女をつまみ上げ、「ひとよ、見よ。ここに人生の奥義、秘密がある」と見せつけているような一場ではないか(以下次回)。