• 10月3日・金曜日。曇り。今夏のやけるような熱暑はおさまり、朝晩の涼しさは有難いが、インフルエンザがそろりと迫る。御気をつけあれ。

     10月7日・火曜日。曇り、時々雨。高市氏、自民新総裁に。株価の狂騰、新総裁への期待値は68%と、滑り出しは上々に見える。ただ、氏の政治姿勢、裏金問題への取り組み、それに絡む人事で友党・公明党の憂慮、国民の反発も伝えられ、前途はやはり多難である。当然だ。一国の命運を担うに、安閑な道であろうずはない。

    筆者からも一太刀浴びせれば、選挙禊論には、断固反対である。特に「政治とカネ」の自民積年の問題に対して、「解党的対策」を取らず、政策的成果さえ上げれば国民は忘れる、と開き直れば、次の選挙で鉄槌が下る。自民の最近の敗退は、単に右派的支持者の流出ではなく、統一教会、裏金問題が主たる理由だと肝に銘じよ。

     朝日新聞に(語る 人生の贈りもの)という連載物があり、筆者も必ずではないが、対象に惹かれるとよく読む。もうだいぶ前のことになるが、カルーセル麻紀氏の話(’25/5/25₋6/20)にはあれこれ考えさせられた。特に、氏の人生行路をとおして浮き上がってくる人間の奥の奥から沸き上がる、どうにも抑制し難い情念というべきか欲求というか、そうした何とも言い難い力(フロイトはこれを性欲動といったように思うが)が、当人を捉えて離さず、社会的、道徳的ないかなる規制や強制力も、また人生上の損得の理屈や教えもまったく効き目を持たずに、当人を引きずりまわしていく、氏の物語にただひきつけられた。これを知れば、人間とは理性的、合理的であると言った人間像など、いかにも皮相で、浅薄なものだと、改めて得心させられるのである。

    現在では、この種の話に対して、社会的な認知や理解がどこまで進んでいるかはともあれ、法的な対応はやや緩和されて来たのであろう。過日の記事(朝日・10/1)もその一例であろう。出生時に、戸籍に記された性別を変更しようとするには、まず性器の概観をそれに合わせて変更すること、つまり手術によって性器を切除したり、作り変えて「外観要件」を満たせという性障害特例法が施行されていたが、この法令は違憲であるとの判断が、2023年に最高裁によってすでに確定されている。それでもそれ以降、今年9月までに、外観要件を満たしていないために、性別変更が認められなかったという訴えに対して、家事裁判では「外観要件を違憲」だと判断した案件が5件報告されていると、最高裁は確認している。これを思えば、そうした歩み以前の当該障碍者の苦痛は並大抵のものではなかったであろうと推察される。

    カルーセル麻紀氏が辿った人生にも、そうした人々にどこか重なるものがありそうだが、氏の場合、そのような法的保護の有無にかかわらず、自身の体にまとわる男性性を何としても除去しようという衝動は苛烈で、文字通り命を賭けても成し遂げたいという点で、上の人たちとは全く別物であった(以下次回)。

     

  • 9月22日・月曜日。曇り時々晴れ。

    9月29日・月曜日。晴れ。いまだに夏日があるとは。トランプ大統領は、国連総会で地球温暖化は存在しない、詐欺だ、とまで言い切った。米国民はこれをどう受け止めているのだろう。地球の明日が、本当に心配だ。このままでは将来世代に申し訳ない。そして、長期にわたる真摯な科学的研究とその成果を、己の金儲けのために一撃で否定できる人間が世界の最高権力者になった恐怖を覚える。それを許した政治制度の問題はさておき、ここでは現在を予見したような、米国映画『デイ・アフター・トゥモロー』(2004)をあげておく。科学からの真剣な警告を、経済的利益のために政治権力がにべもなく抹殺するが、その結果生じた地球規模の悲惨がありありと描かれている。

    本日、前回の文章にやや手を入れた。

    久しぶりにこんな川柳を詠んだ。

    ヤッパリな 自分のためか 石破ダメ  みつお

    本日(22)、自民党総裁選が告示され、5人の立候補者が届け出た。何のことはない、たったの一年前、もう少しごちゃごちゃした顔ぶれの中にいた面々で、今度こその意気込みで突進してきた一年浪人組ではないか。先だって、立憲の野田氏から、まるで敗者復活戦だ、と揶揄されたが、中々のパンチであった。一浪生の敗者復活戦というなら、ここは乾坤一擲、さぞや根性と覚悟の入った勉強の成果が見られるのではないかと期待もするが、これまで聞こえる各候補者の弁からは、そうした熱量はまるで伝わってこない。総裁選には「#変われ自民党」なるコピーが掲げられたが、これは痛烈な皮肉なのか、それとも表紙だけ変えようと言う意味なのか。

    現在の我が国の国情は、ご存知の通り、こんな総裁選ゴッコにうつつを抜かしていられるほど呑気なものではない。トランプ関税の後始末から外国人労働者、コメ問題、急激な物価高にくわえて国民生活に密着した諸課題の一刻も早い解決が迫られているというのにである。これら一切を棚ざらしにしてまで総裁選の前倒しを急げと、どれほどの国民が要望しているのだろう。それどころか、少なからぬ国民からは石破辞めるなコールの声が上がっていたではないか。

    とすれば、今回の総裁選は、自民党が直近の参院戦で3連敗を喫した責任を全て石破政権の政策的失敗に帰し、お前のセイだと言い立てる。こうして有無を言わさず引きずり下ろして、今度こそ総裁にありつこうとする権力亡者の権力闘争、というより足の引っ張り合い、国民不在の「コップの中の嵐」に過ぎないように見える。それどころか、こんな政治家にとっては、この度の自民党敗北は、残念どころか、待ちに待ったチャンス到来の奇貨として、押し頂くような思いでうけとったのではないか。もっともらしい理由を立てながら、自分のための石破降ろしであったのだ

    言うべきことは、多々ある。だがここでは、候補者の中にみられる次のような主張に対し、言っておきたい。今回の党敗北は、裏カネや教会問題は関係ない。その決着はつけられている。政権の間違った政策の結果なのだ。よって、今後の内閣人事も、そうした問題とは切り離し、適材適所の原則に従う。

    断固、反対する。冗談じゃない。特に裏カネ問題は何も決着を見ていない。それが生じた原因と経過はいまだ不明であり、であればまた同じことが起こりうる。企業献金の在り方も宙に浮いたままだ。自民の「政治とカネ」は積年の問題でありながら、いまだ決着をつけようとしない。そうした不信が凝り固まって、この度の結果になった。仮に、いかに立派な政策を示そうと、信頼の持てない政党にどうして投票できようか。それを、しっかりした政策によって結果を出せば、国民は分かってくれるとは、これほど国民を馬鹿にし、舐め切った話はない。これを言う候補者にとって、この手の国民の怒りなんぞは、チョイト経済を良くしてやりさえすれば、たちどころに消えちまうものなのだろう。

    こうした党の根本的な真の問題に手を付けず、その覚悟も決意もないまま、ただ上辺だけの政策を並べ立て、これぞ「#変われ自民党」の中身なのだと言っていられるならば、自民はただ「変わり果てた」姿をさらしているに過ぎない。この党には、政権を担う責任はもはやない。

    なお、解党的な改革の言葉も候補者たちから出ているが、本気でこれに取り組むおつもりなら、ほぼ50年前の1974年に出版された田中秀征『自民党解体論』(復刻版『新装復刻 自民党解体論』旬報社2024)を熟読されることから始められたらよろしい。と、御節介ながら、一筆、添えておこう。恐らく、どなたも読むまいが。

  • 9月1日・月曜日。晴れ。本日より長月。夜が次第に長くなると言う意で、本来は「夜長月」というらしい。涼しげな響きを感ずるが、その実は熱帯夜という何とも凄まじい夜夜ではある。

    9月8日・月曜日。晴れ。

    9月12日・金曜日。曇り時々雨。残暑和らぐ。前回の文章を整えた。

    石破総理は、昨日、党総裁の辞任を表明する。理由は色々あるが、ここでは「党内に決定的な分断を生みかねない。それは決して私の本意ではない」の一言を上げたい。正直、この文章を読んでも、筆者にはその意味が今一つ分からないが、多分、こういうことらしい。このまま臨時総裁選を行うには、その前に、手続き上、議員各自の意思確認のために署名捺印した文書の提出が求められ、それはまた石破降ろしの踏み絵となって、石破派、反石破派の対立が生じ、ひいては党の「決定的な分断」を呼び起こすから、それは避けたい。

    もしこの要約が正しければ、妙な話だ。政治集団とは、常にのっぴきならない利害対立の坩堝(るつぼ)の中にあって、知略と脅しにまみれた討議や詐術、あるいは説得、調整の限りを尽くして、最後は不満を残しつつ、微妙な均衡の上に、一つの解へと辿りつくもので、であればこそかのビスマルクが言ったように「政治は芸術」なのであろう。それを対立のたびに「決定的な分断」に陥るようでは、子供のけんかであり、話にならない。老獪な自民党にそれが分からないわけがない。

    この度の辞任表明に至るまでに、筆者から見れば、党内にはまったくみっともないやり取りがあった。実は、臨時総裁選なるものは、実際に行われたことはなかった。で、いかなる手続きで開催されるべきか、委員会が設置され、また議員の開催についての意思確認として署名捺印の文書提出が決まる。ここに一幕の喜劇が演じられることになった。それまで鼻息の荒かった議員諸氏は、己の名前が天下にさらされることに恐れをいだき、右顧左眄、周りはどうか、地元民から石破降ろしに加担したのか、と叩かれるのではないかとか、大勢が判明するまでダンマリを決め込んだのである。総理側も、それを見越して、ハードルを上げれば、書類は出ず、前倒しも消滅すると読んだふしがあった。折しも、石破辞めるな、コールが鳴り響き始めた頃である。

    こうして、何とも情けない事実が浮き上がる。我われの持った国会議員とは、自らの確たる信念もなければ、意思もない御仁たちであったのだ。小学校の学級委員会でもはるかに自立した意見が聞かれる。こんな人間集団だからこそ、派閥から還付されたパーティー券の売上金を、法に触れると予感しながら、派閥の事務総長辺りから「皆さんそうしておられますよ」と囁かれ、報告書への記載もなく、であれば臨時収入であるから納税の義務が発生するはずだが(国民は一円たりとも許してもらえない)、それもないまま何となく「裏金」として処理されたのであろう。そして、事が発覚すれば、適正に政治活動に使っただの、机の引き出しに入れたままにしておいただの言って、見苦しい言い訳にへどもどする羽目とはなった。

    忘れてもらっては困る。君たちは、国政の最高機関である国会の議員なのである。時と場合によっては、国民の生命、財産に責任を負うべき職務にあるのだ。自分の意見をしっかり持ち、正しいと思ったことは、きょろきょろせずに、まっすぐ行いなさい。

    最後に、石破総理に申し上げる。貴方はこの度、党の「決定的な分断」を回避し、自民党を救われたのかもしれない。それによって、自民党議員たちはどれほど安堵したことか。だが反面、貴方は国民を見捨てたことにはならないだろうか。上記のような人間集団の党を温存させ、そこから党は再生できるのか。とてもそうは、思えない。ここは一番、自民党を思い切って解体し、新たな政治地図を描くべきではなかったか。そうしてこそ、この国の今後の安寧と平和の基が築かれたのではなかったか。貴方は最後の最後に、そうするチャンスを自ら放棄したのである。これまでと同様、決定的なところで、周囲の圧力に屈し、怯んだゆえにである。私は、それが無念である(この項、終わり)。

  • 8月8日・金曜日。晴れ。

    8月14日・木曜日。晴れ。残暑の厳しさは相変わらずだが、夜風には涼味がさしてきた。ただ、晴れにしろ、雨にしろ、その獰猛さには容赦がない。温暖化の影響であろう。

    8月18日・月曜日。晴れのち曇り。常軌を逸した暑さと湿気に、ただうな垂れるのみ。外国人旅行者、とくに北欧からの人々は、この暑さに驚き、呆れかえっているとあった。インドでは氷河がとけ、水没した町があったと、何かで読んだ。世界中がこんな調子らしい。

    8月25日・月曜日。晴れ。蒸して、ただ暑い。当方の一日平均歩行数が、9千歩代から8千代の前半まで一気に落ちたが、暑さのせいか、老いたのか。

    先に(7/18)、政治家はまずもって結果責任を負うべきであると言った。今回の参院選では、石破総理は自公合わせて過半数の議席確保を必達目標とし、だがそれは叶わなかった。であれば、総理の結果責任は免れない。これは現在、自民党内で吹き荒れている石破降ろしの言い分でもある。しかし、その勢いは党外には広がっていないように見えるのはともかく、筆者は騒ぎ立てている議員連中とは別の意味で、総理の結果責任をここで一言し、この項を閉じたい。

    この件について、エッセイストの阿川佐和子氏が面白いことを言い、筆者は思わずうなずいた。石破降ろしの議員たちは、ひとまず総理を引きずり下ろし、自分たちの親しいヒトに成ってもらい、ポストを得ようと言った下心が見える。言われてみれば、石破降ろしの先頭に立つ連中は確かに要職から外されているのが多い。世耕氏などは、自分たち(安倍派4人衆)は政治的経験に富み、十分役に立てると、あからさまな売り込みを図る有様で(朝日7/30)、これには驚きをこえて、いたく感心させられた。なるほど、政治家、しかも大臣クラスの大物議員になるには、これくらいの厚顔、鉄面皮でなければならないのだろう。

    曲芸師のように、脱法すれすれの隘路(あいろ)を渡って起訴を免れ、あるいは万が一、塀の向こう側に落ちかかっても、その罪を秘書に押し付け、また上手く言い逃れ出来さえすれば、ことは適法に処理され、問題はないとの言い分をどれだけ聞かされてきたか。直近では「モリ・カケ・桜」と、まるで打ちたての蕎麦をさかなに、花見酒に酔いしれる酔客の乱痴気に始まり、教会やら、裏カネやらの出し物まで見せつけられた。名優たちの演じる、滑稽の中にも、人間のそこはかとなき哀愁のにじむ江戸狂言でもあれば、笑いもし、涙を誘いながら、深く静かに人生を味わうことも出来ただろう。だが、ここで演じられたのは、嘘と隠蔽、ひとの命まで失い、くわえてむき出しな権力欲と保身と小心の、見るに堪えない醜悪さであった。

    国民は、こうした自民党の回り舞台を、これでもかと拷問のように見せつけられてきたのである。そして、悟った。こんな政党に明日は託せない。その結果が、三連敗であった。だが、この事実を、どうしたことか自民党議員だけが分かっていない。それゆえ彼らは石破総理に責任を全て押し付け、彼を交代させさえすれば、党は復権できると思いたいらしい。これまで散々繰り返された、本の中身も変わらないのに表紙だけを付け替える愚を今回も重ねようとするのである。

    石破総理の結果責任は、ここに始まる。総理は岸田政権からの統一教会、裏金議員の問題処理を誤った。その対策は、常に小出しであり、微温に過ぎ、徹底を欠き、今に問題を残した。これがすべてである。政権基盤の弱い石破総理には、強く出れば政権を失うという不安、恐怖があるのだろう。この恐怖心に付きまとわれて、自身の思いを成し遂げられていない。戦後80年の節目に首相談話を出したいと強く望みながら、党内にそれに対する反対派が渦巻くと知れば腰砕けになるのは、その一例である(因みに、村山談話の発出に際して、これが出来なければ首相を引くとまで覚悟したとは、村山氏の言葉である)。であれば、これは総理の弱さであり、己を賭けて理想に進むと言う情熱に欠ける。これでは、権力につきたいから、権力を得たと言われても致し方ない。だが、氏は自民党総裁を目指した時期には、とくに安倍氏に対して果敢に挑戦し、厳しい批判を浴びせて、ひるまなかった。それがときにタガの外れた安倍氏の行状を掣肘し、多くの国民の支持を得たのではなかったか。

    その石破が総理になった。彼ならきっとやってくれる。国民の期待は大であったが、総理となった石破氏は、かつての自身の言葉を守らなかった。総理になったら、先ずは国会で野党と政策論争をし、その上で解散すると言っていたのに、即解散し、大いに失望を買った。政治家の唯一の武器は言葉である。言っていることとやることの違う政治家を、どう信じればいいのだろう。かつて、国民に分かりやすく説明しなければいけないと、安倍氏に迫った彼が、あろうことか裏カネ問題で沸く衆院選に政党交付金なるものを支給し、怪しげな説明に追い込まれた。これらは全ては石破総理の責任でなされたことであり、それが選挙結果に影響したとすれば、それは紛れもなく総理の負うべき責任である。 以上は、総理の負うべき結果責任の一端である。だがそれは、現在自民党内で取りざたされている文脈で総理を止めるべき理由になると言われれば、直ちに賛成はしかねる。それは筆者一人の思いではなく、国民の多くが抱くところであろうことは、最近いくつかの大手メディアでなされたアンケート調査で、石破支持の数値が上がって来ているところからも明らかであろう(この項、終わり)。

  • 7月28日・月曜日。晴れ。言っても詮無いことながら、連日の熱暑に参る。

    7月31日・木曜日。晴れ。熱は高きから低きに流れる。体温より大気が低ければ、体熱は外気に出るが、逆になれば外気熱が体に入って、熱は体内にますます籠るのみ。場合によっては、危険な状態に陥る、とは先ほどテレビで教えられたばかり。40度を越える日が珍しくなくなった。これはもう「毎日、暑いね」と言って済ませる限度をこえた。政治、行政が真剣に取り組むべき挑戦であり、世界とも連携していかなければならない。だが、まだ間に合うのだろうか。

    参院選の結果はご承知の通りで、石破総理はその結果責任を負わねばならない。それを認めた上で、今、自民党内で渦巻く石破降ろしには、筆者は賛成しかねる。総理就任後の選挙で三連敗した責任を問うてのことだが、これを招いた直接の原因は、総理にのみあるとは考えられないからだ。それは、当の石破総理自身の思いでもあるだろう。

    衆院選の敗北は、総理就任直後のことであり、それ以前に仕出かした自民党議員の身から出た錆である。統一教会との癒着、裏金問題がそれである。これらに対し、当事者たちはまともに向き合わず、言い訳と責任転嫁に狂奔していた。裏金議員たちは、当初、その事実自体を認めず、逃げられないと知るや、知らなかった、秘書がとなり、最後は検察からの不起訴を身の潔白の証だと強弁する厚顔さであった。その後の企業献金の禁止や透明化の法整備では、野党間の調整もつかぬ情勢に付け入り、これを審議未了に追い込み、結局、国会審議を逃げ切った。

    国民はこれら一連の顛末を見てきた。そして、選挙のたびに鉄槌を下した果ての3連敗であった。その結果責任をただ総理のみに押し付け、石破降ろしの先陣を切っているのが、旧安倍派の4だか5人衆の面々だと報道にあった。冗談じゃない。彼らこそ教会との癒着や裏カネ還流の仕組みに深く関わり、連敗の責任を第一に負うべき連中ではなかったか。この点を衝かれて、世耕氏は「真摯に受け止める」と言いながら、選挙で民意を受けた身でだと、暗に禊は済んだと言わんばかりであった。彼の言う「真摯」とは、一体、いかなる意味なのか、筆者にはしかと判じかねる(朝日・朝刊7/30)。

    それにしても、選挙での当選がそれ以前のすべてを帳消しに出来るほどの免罪符になるものだろうか。地元では実績やしがらみから票を得ても、それが彼らの行状が認められ、許されたことにはなるまい。であれば、彼らはまず第一に深い謝罪と弁明、そして一層地元の発展に励むと訴え、一票を拝むようにしてもぎ取るのである。だが、選挙民の心には不信の念が深く残るであろう。しかも、こうした不信感は他の選挙区に波及し、同僚議員の票に響く。自民の退潮はその結果であり、こう考えれば3連敗の責任は彼らにこそあると言うべきではないか。

    ここには、深い病理があると言いたい。選挙なんか所詮茶番だ。有力者であり、実績さえあれば、どんな悪事も許され、結局は当選し、すべては無いものとなる。こんな奴に勝てる分けもなく、投票なんぞ無意味だ。かくて選挙は形骸化され、民主主義の基盤が掘り崩される。その隙をつくようにして、嘘と誠が入り混じり、怪しげで俗受けする主張がはびこり、人気を博し、気づけば途轍もない大権力者が目の前に現れる。ヒットラーはそんな風にして出現した。そんな足音がこの社会にも、かすかに聞こえてきているような気もするが、それは我が空耳なのであろうか。