• 4月27日・月曜日。雨。かなりの降雨を見たが、自然と思いは岩手・大槌の森林火災に至る。未だ鎮火せず、まとまった雨は今少し先らしい。かの地の人々にお見舞いを申し上げる。

    5月1日・金曜日。雨のち晴れ。

    5月7日・木曜日。晴れ。本日、朝日朝刊トップにごみ処理問題が上がる。ごみの収集、処理場施設の維持、更新、その予算にくわえ、現行施設の相対的な過剰と維持費の増大等々の問題である。つまり、住民の減少と高齢化した多くの地域社会において、現存施設は大きすぎ、にも拘らず維持費は経年劣化によって増すばかりか、原資となる税収減がのしかかっているのである。ここには、上下水道施設が直面しているのと同じ問題がある。

    これについては、ここでもしばしば指摘してきたが、市内の上下水道網の維持管理費だけで、自治体は財政危機に見舞われると言われて久しい。そして、ごみ問題には、収集から焼却他に要する多数の作業員の確保という、これ特有の問題があり、それが今や深刻になっている。要するに、我われの社会は、近い将来、生活を支える最も基礎的な土台が立ち行かなくなる危険に直面している。AIだ、軍事力だ、憲法だ、移民だと大騒ぎしている裏では、のっぴきならない問題が迫っているのである。

    5月11日・月曜日。晴れ。本日は、前回の文章の訂正である。大枠は変わらず、量的にはささいなものだが、内容的にはかなりの改変である、と言っておきたい。

    朝日新聞(4/5)にこんな一文を見た。「返却。病院で採血された6歳の息子。帰宅後、一緒にお風呂に入っていると、採血された部位をじっと見ながら、こう言った。「ママ、血ってどうやったら返してもらえるんかな。やっぱり取られた分は返してもらわんと」(神戸市・自分でたくさん食べて造血頑張ろう!・35歳)」。

    人間存在について、なんと直截に語られたことか。昼間、採血された腕をまじまじ見ながら、何か釈然としない許しがたい思いに捉われた。ボクは自分の血を病院にあげたのではない。何か知らないが、黙って血を抜き取られてしまった。これではいけない。このままにしていては、自分の重要な一部が盗まれ、ボクは壊されたままだ。それは自分に対する攻撃であり、否定だ。元の自分に還るには、取られたものはどうしても取り戻さなければならない。6歳の坊主の言葉としては、大分ひねてはいるが、その心はそういうことではないかと思う。

    かのイエリネック(1851-1911)(ドイツの国法学者)は言っている。己が所有物を奪われることは、ただその物を失うだけではない。わが所有権への侵害であり、ひいては自身の存在の毀損を意味する。それゆえ侵害された権利は回復されなければならない。たとえその損失が、高々1マルクであろうとも、放置してはならない。そのための費用がいかになろうと、問題では無い。ここには己れの人権と尊厳がかかっているからだ。これぞ『権利のための闘争』(村上淳一訳・岩波文庫)である。

    ひとは誰でも、生まれながらに自由平等で、生存し幸福になる権利がある。それは人間が作る法律以前に天(これは神とも自然とも理解される)から与えられ、誰からも奪われることのない権利とみなされ、生まれながらに備わった生得的な権利である。何人と言えども、これを奪うことは出来ないし、奪ってはならない。これが自然法で説かれた自然権の教えである。なお、社会の法律(実定法と言われる)は、この自然法を基に構成されると言われる。

    ここには説かれるべき多くの論点があるが、先を急がなければならない。各人に平等に付与されたこの自然権に基づいて、僧侶、領主、貴族らの特権的な権力をを認める身分的な封建社会を突き崩し、平等な市民社会を誕生させる社会理論が生み出された。それを指導したのが、T・ホッブスであり、J・ロック、J・J・ルソー達であった。とくにロックの言う自然権の中身は「生命、身体、財産」への権利とされ、それは誰からも、それゆえ国家からも侵害されてはならない。むしろ国家や支配者は、市民との契約を通じて(社会契約説)、市民の権利を擁護するものとして存在するのである。それゆえ、それを擁護できない政府、国家に対して市民は果敢に挑戦し、変革しうる権力を持つ。こうしてロックは、国家に対する市民の「抵抗権」・「革命権」を認めたのである。彼のこの思想が、世に言う「名誉革命」(1688。英国での無血による王権交代)の理論的な支柱となったのである。

    もとに戻ろう。かの坊主の直観ははるかに、17,8世紀の大哲学者の思想に直結していたのである。恐るべし、六歳児。筆者は正直に言おう。身体への侵害はあってはならぬとする生存権の主張は、天から直接与えられたと言うより、社会生活の中で、歴史的な過程の中で徐々に生み出されたものではないかと理解していた。つまり私は、生まれながらの生得的な権利の意味が分かっていなかったのである。権利とは、生の根源に根ざし、だからこれを侵害された時、誰であれ、幼児であっても、激しく抵抗する他ないのだと教えられた。人権とはかくも犯しえないものなのだろう(この項、終わり)。

  • 4月24日・金曜日。曇り。

    気象庁は先週(4/17)、40度を越える日を「酷暑日」と呼ぶことにしたと言う(ただ、正確にはこの言葉は日本気象協会が傘下の予報士130人に実施したアンケートを基に決定されたものらしい)。これまでは「猛暑日」と呼ばれた暑さに対して、こうした呼称が与えられた理由は、「極端な暑さへの注意喚起と熱中症予防啓発をより強化するため」であると言う。たしかに、「今日は酷暑日だよ」と言われれば、「そうか40度を越えた日か」と意識化され、それに対してより積極的な対応を促されるだろう。頻繁に水分を取り、エアコンの温度を下げ、不要な外出は控える、等々。言葉の力とはそういうものである。

    であれば、筆者は気象庁のこの決定を諒としたい。ただ、何を今さらとの思いが無くはない。国民は毎年襲いかかってくる、しかも年々強度を増し、期間も長引く猛烈な熱暑に、心身共に疲弊させられているのである。それは、酷暑日の選定に先立ち、役所の実施したアンケートによれば、炎暑日、厳暑日、極暑日、超猛暑日と言った「酷暑日」を越えた言葉が多数寄せられていることからも察せられよう。

    だが、この点で、気象庁を非難するのは、全くのお門違いというものだ。この役所に列島全体の酷暑日に対する具体的な対策、政策を実行させる予算や権限はまるでないからだ。それは中央政府、地方政府の仕事である。国、県、市町村、個人、また企業や研究機関も一体となって、それぞれやれることに取り組み、対応していく他はない。国家は世界と連携し、自然環境の保全や有機的な法整備と予算化を進め、自治体は森林・河川の保護と都市、町づくりを工夫する。企業の生産や個々人の生活は出来る限り省力化し、余分な化石燃料の消費を控える等々。公教育の意義も看過できない。こうした取り組み、さらには温暖化に対する全体的な構想、そういった諸点に対し一体どの政党が本格的に取り組み、明日の日本の国造りに邁進しようとしているだろうか。先の総選挙においてこれらが争点になったであろうか。それらをすべて放り出して、40度を越えた日を「酷暑日」というと言って、一体、何が改善されると言うのだろう。世の政治家先生らに、この事とくと伺いたい(この項、終わり)。

  • 4月17日・金曜日。晴れ。

    過日(4/14)、久しぶりに町屋の鍼灸院に行く。施術に当たり、右手ばね指の苦痛を訴えた。術後、肩の凝りがひどく、特に肩甲骨の可動が悪い。それが原因かもしれぬとの宣告である。風呂の後、鏡の前で両腕を振りかざし、脳内ではきれいな大車輪のように回わすが、鏡に映る姿は誠に無様。腕は背中にまで行かず、横でヘンテコに回るばかりであった。小学生の頃はちゃんと出来たはずなのに。そして、先生はあの時、こうも言っていた。パーキンソン病の兆候か、次回、調べてみましょう、と。歳を取るとは、色々、厄介なことだ。

    帰途、町屋斎場を左にみながら、隅田川の堤にでる。川面の春風は格別であった。年のうち最良の季節のそよ風だ。良いに決まっている。カミソリ堤防で、僅かな距離だが栽植された個所もあり、その新緑にも慰められる。これが味わいたくて、鍼に痛んだ体を鞭打ち、よせばいいのに北千住を目指すのだ。

    この道行の醍醐味は千住大橋を渡ったところで、ブツリと切れる。巨大な国道4号線が、突如表れ、暴力的に街を貫通し、ダンプ、トラックほか無数の車両が突入、疾駆し、その轟音は果てることも無い。この地獄道を命からがら渡って、旧日光街道の細道を伝っていけば千住の繁華街に出る。そこでの道中は、夕刻から九時くらいにかけては夕餉の買い物やらこれから飲みに繰り出そうという連中で溢れ、都心では見られない顔を見せる。昭和30年代のスーパーなどまだなかった時代の商店街の賑わいと言ったらいいだろう。そして、駅周辺の飲み屋街の密集は、今や一つの奇観であろう。これに類した町と言えば、これまた4,50年前の新宿歌舞伎町、池袋西口界隈の飲み屋街が浮かぶくらいだ(人によっては、渋谷、新橋、品川辺りの賑わいをあげるだろうが、筆者はそれを言うほどその実際を知らない)。

    千住の縦にではなく、地面に這うようにして広がる商店街は、その背後にある、これまた昔ながらの長屋風の連なりを思い起こさせる家々の密集に支えられているのだろう。そのせいか、銭湯も多いように見える。大きなマンションも見受けられるが、大勢は変わらない。町は細い路地で幾重にも縫い合わせられ、行き止まりかと恐々歩いていけば、いつしか通りに出られるという寸法だ。かつて玉野井がそんな風情であったが、今や東向島と名を改め、巨大マンションとスーパーが乗り出し、全く別の街となってしまった。

    筆者はそんな千住をホッツき歩いて、最後は丸井の食堂街にこもり夕食を喫する。春日部に帰還したのは10時を回ったころだろう。歩いた総歩数は一万二千歩。翌日は鍼の効き目とこの行脚がたたって、終日動けず。ただベットで呻吟するばかりの日となった(この項、終わり)。

  • 3月23日・月曜日。晴れ。

    3月30日・月曜日。晴れ。都内の桜が開花したかと思う間に、はや見ごろである。筆者には咲き急ぎのようにも見えるが、染井吉野の寿命が切れかかっていると聞き(他方で、樹木に寿命はなく、手入れをきちんとすれば延命可能だとの説もある)、そのせいか、と妙な勘繰りをした。人生を花に託して何事かを思うのは、他は知らず、わが日本人の感覚であろう。今年、我は83歳。

    4月10日・金曜日。雨。昨日のニューヨークタイムズに、トランプ政権がイラン戦争にのめり込む過程についてのかなり長大な検証記事が載った。ネタニエフの見込みでは、今こそイランを叩く好機だとの強い慫慂を受け、トランプが政権中枢にその実現可能性について検討させる。そのやり取りは緊迫し、読みごたえがあった。中でも副大統領の発言は、その後の経過を見事に言い当てた。イランのトップの斬首により、イラン国民が蜂起し、体制変革が生ずる。こうネタニエフは主張するのだが、それは見込めない。戦争の長期化もある。さらに、他国の戦争への不介入というトランプの公約違反に対する支持者の離反、ホルムズ海峡封鎖の可能性等も指摘された。だが、結局彼は、間違った案とは思うが、「大統領の決断であれば、従う」と折れた。これによれば、イラン攻撃はトランプの決断であった。

    最近の社会情勢には、筆者はただ戸惑い、これをどう受け止るべきか分からぬまま日を過ごす他なかった。これが今日までの欠便の理由である。国内では、総選挙の結果、定数289議席のうち、自民が九割に迫る249議席を得て、高市政権を誕生させる。総理は、これをバックに国論を二分するような政策に挑むという。だがその内訳は、総有権者数での得票率(絶対得票率)では26.9%に過ぎず、つまり4人に1人でしかない。

    これで民意を得たと言えるのか。小選挙区制の弊害を、強く思わざるを得ない。風向きが変われば、同じ得票率で野党が政権に就く。その結果、政策は極端から極端へと揺れ動き、政治は不安定になりはしまいか。それを回避しようとすれば、絶対多数の政権党が今こそとばかり、民意を盾に、自党に有利な制度へと改変、固定化し、いつしか独裁国家になり果てる。民主国家から独裁への道は、人の思うほど遠くはない。ワイマール憲法を基にしたナチス誕生がそうであったし、かつて南米の模範と言われたベネズエラが思い出される。

    国外では、トランプ政権である。広大な米市場と、世界最強の軍事力を背景にした傍若無人の振る舞いには、ただ呆然とするばかりである。エプスタイン文書では常連として名を連ね、性的暴行を受けたとの女性の証言まである。米建国250周年を記念して発行される純金の記念貨には、自らの顔を刻印させようと思いついたらしい。生存者のそうした事例は規定に反すると抵抗した委員らは強引に追放し、恥も外聞もない。歴史上、こうした名誉欲と狂気に満ちた支配者はいくらでもいたであろうが、世界に民主主義社会を牽引し、キリスト教に根ざす徳育、教育の行き届いた米国において、こうした人物が大統領職に、二度にわたって就任したということに、なにか空恐ろしいものを覚える。

    公私の区別なく公権力を振り回し、自身の欲望の何でもかでも実現しようと躍起になる。そこで出会うすべての障害は敵と見、叩き潰しにかかる大統領を、側近たちの誰もが止められない。だから、おべっか使い、腰ぎんちゃくだとも揶揄されるのだが、そんな彼らとて、その職に就くまでにはそれなりの経験、見識を積んできてもいよう。例えば財務長官ベッセントは金融界での実績は大したものらしく、であれば今回のトランプの相互関税がいかに無理筋かは熟知していたはずだが、何も言えなかった。そして結局、最高裁はそれを違法と判断したではないか(と言っても、司法もまた、ようやくの思いでそこにたどり着いたのであったが)。

    そして、議会。与党の共和党は、これまでトランプの言うがままの体たらくで、最近ようやくイラク戦争に対して異論を唱え出しているが、それもただ、中間選挙で自分の議席が危うくなってきたからに過ぎない。言論界もワシントンポストはアマゾンのぺゾフに身売りするが、その背後にはトランプによる脅迫まがいの介入が仄聞され、それが経営悪化の遠因となったらしい。最後に、有権者である国民の反応がある。ここに来てトランプへの支持は急落するが、その理由はガソリンをはじめとする生活費の急騰からの怒りに過ぎず、イラク他に対する国際法を無視した横暴や、そうした戦闘で実際に殺される多くの人間の苦しみ、悲惨さには届いていない。そうした米国民の怒りは他人事でしかない。こうして、米社会のすべての局面で、何か倫理的な基準が崩れ始めているように見える。だからであろうか、ニューヨークタイムズのコラムニストは言っている。「アメリカはならず者国家になりつつあるのか?」(3/17・火)(この項、終わり)。

  • 2月16日・月曜日。晴れ。本日、朝日の社説の一言に、思わず唸った。「政治は灯台のようなもの。未来に通じる道筋を照らす明かりで、現在の闇を映す鏡ではない。『世論調査の民主主義』は真の民主主義ではない」。仏ミッテラン政権の法相として、死刑存続を主張する民意に向き合い、その廃止に導いたロベール・バダンテール氏の言という。眼前の民意なるものに迎合し、票欲しさの減税オンパレードに終始した、この度の衆院選と比べて何たる違いか。こうした減税政策の結果、この国の将来の基幹的な政策の財源が掘り崩され、将来世代に途轍もない負担、困難を強いることになる、と主要政党はまったく説くことができなかった。ここに究極のポピュリズムを見たが、これは結局、国民の政治意識の問題に尽きる。

    2月27日・金曜日。晴れ。

    3月2日・月曜日。曇り。

    承前。前回に引用したスピノザによれば、2千年前のイエスの教えは国と時代を越えて通用し、しかもそれを理解するのに、何か特別の能力を必要とするどころか、ごく普通の人が自然に分かり、さらには自分の生活の支えとなるものだ、と言っているのだろう。とすれば、我われ人間はこの限り、この2千年来(それどころかそれ以前から)、一歩も前進、進歩していないと言わざるを得ない。仏教の説く偸盗、色欲、虚言、憤怒等の十善戒の教えから解き放たれた人間は、人類誕生から今にいたるも一人もいまい。これが人間であり、我われには越えようにも越えられない限界があるのであろう。

    こんな分かり切ったことを今さら持ち出したのも、人類社会は現在、途方もない危機に襲われているのではないかという、なんとも言いようもない恐怖を覚えるからである。科学とそれに裏打ちされた技術は、無限進歩を驀進し、兵器の破壊力は想像もつかないほどになった。他方、それを扱う人間の精神的、理性的な能力は進歩するどころか、2千年前と少しも変わらず、権勢欲、支配欲その他の欲望にさいなまれ、その抑制力はまったく働かない。弓や鉄砲をもって原野を駆けずり回るのとはわけが違う。陸海空にくわえて宇宙にまで拡大し、狙えばピンポイントでどこにでも弾道を落とせる能力を持つ。

    そして、プーチンは言った。必要なら原子兵器を使う。ウクライナ戦争での発言だが、そうなれば世界がどうなるか、お前たち、分かっているだろうな。だからオレをあまり追い詰めるなよと言っているのだ。まさか、一直線にそうなる訳でもあるまいが、あり得ない話ではない。こう思えばこそ、世界の指導者たちはそう簡単にウクライナ支援も出来ない。その結果が4年に及ぶウクライナ戦争であった。その間、世界はプーチンの政治的脅迫に呪縛され続けてきたのであった。

    プーチンが今取っている人類全体を人質にした政治的戦略は、今のところ成功しており、見ようによっては彼の胆力、戦略性には、お前、自分の野心ためにそこまでやるのかと、恐れ入る他ない。と言うより、ここまでの狂気を目の当たりにして、世界はこの事態をどう軟着陸させるのかは、喫緊の課題に違いないが、先に戻って、科学技術と人間の精神的能力の乖離の問題は残っている。しかも、技術進歩と共に、その乖離は二乗、三乗と指数関数的に開いていくのでる。その意味では、江崎先生の言われたように、人類は賢くなった、とはとても思えず、こうした事態を前にただ呆然とするばかりである。

    ことは、プーチン一人の問題では無い。習近平やトランプといった現在の世界最高権力者の思惟と行動もまた常軌を逸した点で、恐怖そのものである。とくにトランプ大統領の政策なのか単なる思いつきなのか、彼のその決断は、歴代の権力者の中でも群を抜く凶暴さであり、危険極まりない。そこには規範意識はまったく欠落し、だから予測不能な上、国際法その他外交上の規則や取り決めを歯牙にもかけない。生命、環境、人権といったおよそ人であるならば、ごく自然にこれは大事にしなければ、と言った心情、性情は微塵もないのであろう。ここにあるのは、眼前の1ドルの儲けであり、己が権力の拡張、名声と称賛への浅ましいまでの渇望であり、それを獲るためにはどんな犠牲も厭わないという、むき出しの執着である。

    以上は、単に筆者一人の思い込みではない。オーナー・ハサウエイ氏(次期米国際法学会会長)もまた悲痛な思いを吐露されているのである。さきのベネゼイラに対するトランプ政権に対し、「今回の攻撃は国際法にも、米国の国内法にも根拠がありません。私はこの行動が世界、ひいては人類全体を、非常に危険な状態に陥らせる可能性があると、心配しています」(朝日新聞’26年、2月7日・土)。その対抗策として、氏は「国際社会の団結」を呼びかけるが、それが功を奏するのを、ただ祈るしか手立てがないというのも、なんとも頼りなく、やり切れない思いでもある(この項、終わり)。