2026年05月18,22,29日,06月08日

5月18日・月曜日。晴れ。世には外国語、しかも何か国語でも苦も無く修得し、母語のように操れる、例えば『大泉黒石』(四方田犬彦・岩波書店・2023)のような才能のあることを時に聞かされ、かかる御仁には筆者はひたすら羨望と尊敬の念に打たれ、ただうな垂れるばかりとなるが、今やそれどころではない。昨日、犬語、葉っぱ語、果ては石語、パンツ語まで解する才能までおられるらしいことを知り、一驚させれられた。そして、これを紹介する東海林さだお氏は、こうおっしゃる。「人間、パンツまで叱ると、もうこわいものはなくなってくる。この世に叱れないものなどない、と思うようになる」(『ショージ君、85歳。老いてなお、ケシカランことばかり』18頁。大和書房・2022)そうだ。

5月22日・金曜日。雨。

5月29日・金曜日。晴れ。

6月8日・月曜日。曇り。いつの間にやら、はや半年たつ。この間、知人、友人の物故者はすでに5名を数える。わが年齢を思えば、こうなるのは不思議ではない。もう3,40年前になろうか、どこで読んだか忘れたが、こんな話だった。近親者の逝去は、なにか艦船同士の戦闘に似ている。当初、襲ってくる砲弾は遠方に着弾し、まだ安心だが、次第に照準があってくる。これを読んだ時には、そんなものかと気にもしなかったが、今は相当にリアリティーがある。いつわが艦に着弾してもおかしくはない。といって、それを特段恐れているわけでもないのは、老人力のお陰だろうか。

今回は、献本された書物へのお礼状である。読むにやや厄介だが、お付き合いいただけたらと思う。

前略、長らくご無沙汰しておりますが、お変わりなく、いや益々、ご壮健のこととお慶び申し上げます。過日、と言ってももはや大分以前と申し上げるべきですが、ご恵贈頂いた新著、『ドイツ自由主義の歴史研究 三月革命期の社会科学者たち』(日本経済評論社 2026)の旺盛な探求心からも、その事をとくと感じ入った次第です。そこでは、ザッヘに肉薄する強靭な意志力、わが国の現在に対する歴史的・政治的な危機意識、またややもすると反自由主義的と評価されてきた、往時のドイツ経済学に対する軌道修正を図ろうとされる、経済史家としての領野からあえて一歩を踏み出し、未耕の地に斧鉞を入れようとされる大胆な学的関心に圧倒されました。

では、その未耕の地とはいかなる領野でしょう。まずはスミスをはじめとする古典派経済学に対するドイツ側からの切り結ぶような批判的な受容過程であり、三月革命期のドイツ経済・政治・社会状況を見据えて、自国の近代化を図ろうと結集した革命諸勢力の多様にして、背反する利害の諸対立の諸状況の確認、さらにそこから三月革命の成果としての近代国家への転生を保証する法制度の確立=憲法制定への、これまた錯綜した足取りと、「ドイツ立憲国民会議」、「プロイセン立憲国民会議」での議論との格闘です。なんという、膨大にして難儀な作業でありましょう。であれば、そこで扱われなければならない諸課題、領域は、もはや経済史研究をはるかに越えて、必然的に「国家学・政治学・憲法学・経済学など社会科学の諸分野に関連」する一大領域でした。

当方、大学を退いて早や10年余り。本格的な学術書に取り組むには、わが脳髄はだいぶ錆びつき、時に油をさし、十分の休養を取りながらの読書となりましたが、その甲斐は大いにありました。一つの事がらが理解されるとは、どういうことか、またいかにしてそれは可能か。このことを御著を通じて、改めて教えられたような思いです。

また、本書中、私が特に興味を惹かれたのは、3章の考察でした。ここではプロイセンの自由主義とその市民的経済思想が取り上げられますが、それを私の関心に引き寄せて言えば、市民の経済的・政治的自立への希求と、その裏返しの様々な封建特権からの解放の闘争であったと申し上げたい。ここに、英仏に比したプロイセンの社会・経済の後進性がいやでも明らかとなります。それ故また、そこで構想された市民社会像は、世襲制と結びついた立憲君主制を容認した点に見られるように、封建的な残滓は清算できませんでした。

ここには、フランス革命にみた、行き過ぎた自由主義に発する民衆の狂暴性、徹底した経済的自由競争が帰結する中産階級の解体と過激な労働運動の激発への懸念や恐怖も作動していたのでしょう。それらを制御する装置として君主制を存続させ、こうして政治権力の二元体制を編み出した。ここに至る国民会議の部会での議論はそれ自体、往時のプロイセン諸地域の経済・社会状況そのものを浮き上がらせ、同時にそれを見据える者の関心に応じて、法律・社会史・経済史・思想史的な構想物へと転生させる原液(今流行りの言葉で言えば、幹細胞とも言えましょうか)を提示しているようにも思われ、私には特に思想形成の醸成過程を見たような場面でした。

国民会議は革命の突然の挫折により、解体します。しかしそこでなされた議論、あるいは成果は反動政府とてそれらを否定し、無視することは出来ませんでした。それだけ浸透力のある議論がなされ、訴求力があったのでしょう。プロイセン欽定憲法の骨子として継承されたのでした。

プロイセン憲法が明治憲法のひな型であったことは、周知の通りですが、御著では、それと関連してドイツから移植された国家学、政治学が東京大学を中心として日本のその後の社会諸科学に決定的な刻印を記す次第が示唆されております。

しかしここで留意すべきは、ドイツ国家学は市民的自由主義に対して抑制的で「官僚主義的・国家主義的特徴」を持ち、それによって我が国の市民的自由主義に対しても負の影響を及ぼしたのではないかとの通説に対して、その修正を強く迫ろうとされる点です。それは山崎哲蔵の言葉を介して示されます。ここでは確かに君主の主権を認めるが、それは絶対無限ではない。「その目標は国法によって政府・人民の権利義務を確定し、立憲主義の制度を設立する点にある」と。つまり、移植されたドイツ国家学にも英仏で育まれた自由主義的な民権思潮は豊かに息づいており、それははるかにスミスの経済思想を導入しようとした「三月革命期」の社会科学者たちの努力に繋がることだと了解されます。

それにしても、学説史的研究の意義とは何かと時に自問し、すでに定まった評価に対する挑戦もまたその一つではないのか、と答えたい。それによってかつての作品が新たな脈絡でよみがえり、現代的な意味を与えられる。それはまた我われの視界を新たに開くと思われるからですが、如何でしょう。 まだ、申し上げるべき点はありますが、すでに長文となり、これ以上の饒舌は慎みたいと存じます。最後に、新著のご恵贈に改めて御礼申し上げます。有り難うございました。どうぞ、お元気でお過ごしください。


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