2024年01月22,26,29日

1月22日・月曜日。曇り。このところのわが身辺、あれこれ衰運の極みにあり、不安と懊悩に取りつかれ、読書は言うに及ばず、「手紙」を書く余裕、能力を失い本日に至る。
1月26日・金曜日。晴れ。「明けぬ夜はない」の言葉通り、ようやく危機を脱する。だが、この歳にして、なお試練はあるものだ。いまや願うことは、ただ平穏な日々のみと知る。主の祈りにもこうある。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。あまり浅ましいことには、首を突っ込まないことだ。
1月29日・月曜日。晴れ。前回の文章、やや手を入れた。

元旦の大地震以来、被災地の悲惨と困難が今に続いて、痛ましい限りだが、その煽りを受けたのか、我が国の政治の混乱、浅ましさが炙り出されて、これについては、怒りをこえて、情けないという他言葉もない。一方では、掛け替えのない身内を亡くし、また命のほかは一切合切を失って避難所にたどり着けば、寒さと集団生活の苦悩、トイレの難渋にくわえて、温かな飲み物、風呂にも事欠く日々を強いられ、しかも今後の生活の展望を持てないまま途方に暮れておられる。そうした不安と悲しみの重圧に思いをいたせば、何もできないわが身は歯痒いばかりである。
他方、現在、国会内で「青い顔」をして歩いておられる面々もまた、同じように深い苦悩と、今後について限りない不安を抱えておられるらしい。しかしそれらは「折角かすめ取ったカネ」がどう間違えたか表沙汰となった。まったく迷惑千万だが、かくなる上は、如何にすればもっともらしく正当化できるか。それが叶わなければ、せめて自分とは関わりのない別のヒトのせいに出来ないものか。現在ののうのうとした議員生活を維持し、それ以上に大事な次期選挙の当選を図るためにはどうすべきだろうか。これがセンセイ方を青ざめさせる真の苦悩だと知れば、上記の被災者の悩みとの落差に、国民は救いようのない失望、やり切れなさに打ちひしがれるのではないだろうか。
国民の公僕たるべき政治家が、不正を働いた上、それを率直に認めず、あろうことか被災者の苦悩を差し置いて、真っ先にわが身の安全策に狂奔する様を見せつけられれば、彼らが国民の大惨事に寄り添う「選良」でないことは、隠しようもない。「情けないヤツ等とは知ってはいたが、そこまでやるか」という思いが募る。
筆者がこうした印象を持つのは、この度の「裏金疑惑」に対する自民党政治家の姿勢、対応があまりに他人事であり、事態の深刻さについて「バレちまった、マズイ」と言った程度の理解でしかなく、だからまったく上っ面だけの謝罪に終始しているように見えるからである。「収支報告書への不記載」を単なる事務上のミスとして済ます態度に、それはよく出ている。民間であれば、これは刑事罰、損害賠償級の一大不祥事に当たると言うのにである(朝日1/19・金)。
ズバリ、言う。政治資金法の改正こそ、事の本質である。岸田総理、総裁はそのことを明言せず、論点を「派閥解消」に逸らしている。政治献金の規制は、とうの昔からザル法と言われてきたが、それを今日まで放置してきた。何よりも、資金の扱いについて、派閥の会計責任者と政治家との法的関係を、政治家の関与があっても立件しにくい仕組みに仕立てた点が、ザルと称する理由だ。今回もそれがネックになって、安倍派「五人衆」は罪を逃れた。現在取りざたされている党の対策の中でも、「連座制」は回避し、議員と会計責任者との関係を断ち切り、ただ後者にのみ責任を負わせる従来通りの方法を温存させようとしている点に、事のすべてが表れている。少なくとも、私はそう見る(以下次回)。


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