2024年02月02日

2月2日・金曜日。曇り。明日、節分。この時期、この程度の寒さでは、今夏の熱暑が思いやられる

承前。最後に、この種の問題が起こるたびに、不思議な話だ、と思わされる点について一言したい。不祥事に見舞われた政治家は、常にと言ってよいほどに、自分は知らなかった、秘書や会計責任者が勝手にやったと言い切り、その事を愧じない。確かに、自分の仕える政治家の虎の威を借り、勝手なことをし、様々な利益を欲しいままにする秘書や支援者はいるだろう。その場合には、政治家はそんな人間を使った己が不明を恥じると共に、断固司法に訴え、処罰すべきである。だが、そんな話は聞いたことがない。むしろ、温情的に処理するが、厳しく出て、政治家自身の不正が、逆に表に出るのを防ぐためではないのかと、勘繰りたくなる。
だが、圧倒的に多いのは、政治家自身が秘書に強要して引き起こす、特にカネ絡みの不祥事ではないか。しかし、彼らは鉄面皮にも、lawmaker(立法者)としての権限をここぞとばかりに振り回し、不正が立件できないような法的仕組みをでっち上げては、逃げ込み用の穴倉まで準備する。国民にはついぞ払ったことのない用意周到ぶりには恐れ入る(しかも、この度ハッキリしたことだが、そのように自分たちに都合のいいように作った政治資金規正法だが、それすら彼らは守らなかったことを、国民はどう理解したら良いのだろう)。そして言う。「自分は知らなかった、検察から告訴もされていない。だから、不正はない。むしろ秘書が…」。
この場合の政治家の心情は、こうであろう。法に触れさえしなければ、何をしても構わない。こうして脱法すれすれの行為に走るが、ここには当該の法が目指した立法の精神に対する敬意、尊敬はまるで欠落している。だがこれは、ヤクザ、詐欺師らが法に触れないように、慎重に仕事をするのとどう違うのであろうか。しかも彼らは、公人なのである。
それ以上に許しがたい思いに駆られるのは、彼らが恥ずかしげもなく、秘書や会計責任者が勝手にやったことで、自分は知らなかった、と平然と言ってのけられるその精神、心持ちである。そうして、一切合切の責任と罪を、自分の部下に押し付けてしまう。これを恥知らずと言わずして、何と言うべきか。知らなかったことは、すでに彼の落ち度に他ならず、自らの無能を晒していることも分からないのだ。それ以上に、昨日までの自身の半身とも言うべき、掛け替えのない人間を、いとも容易に切って捨てられる彼らの冷酷、非情、身勝手さに唖然とさせられもする。
こうした政治家は、彼らが切り捨てた人たちにも彼自身の名誉があり、また彼らの家族がいることを、どこまで配慮し、その事を深刻に考えているのだろうか。そこにはそれなりの論理と手当てがあって、そうした犠牲者が被る被害はそれ相応に償われるのだろうか。時に、自殺にまで追い込まれるとすれば、それはもう筆者が若いころ散々読んだ松本清張の世界そのものであろう。清張は、権力や組織が自らの存続のために、その悪事、不都合の一切を弱い個人になすり付けて逃げ込むさまを、執拗に告発して、倦むところがなかった。彼からすれば、人は誰でも幸せに生きる権利があり、それはどこまでも守られなければならない。いかなる権力、組織と言えども、自身の存続のために人間を都合よく利用し、犠牲にし、奉仕させることなどあってはならないからである(この項、終わり)。


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