2023年04月07,10,14,17日

4月7日・金曜日。曇り

4月10日・月曜日。晴れ。

4月14日・金曜日。晴れ。

4月17日・月曜日。晴れ。前回の文章にやや手を入れた。

 

昨日の天声人語(4/9)は、実に傑作であった。と言うよりも、思わず虚を突かれたような一撃であった。この何年もの間、国も社会も少子高齢化と今後の日本社会の成り行きを心配し、様々な対策、制度造り、予算化を進め、なんとかその流れを阻止しようと躍起になって取り組んできた。それに対して、では伺いますが「多子若齢化」の社会なら、子供は貴重ではなくなるのでしょうか、との質問が新中学一年生から発せられた。家庭庁政策相と子供記者とのやり取の中での一幕である。

恐れ入りました。これまでの政府の発想、対策は、子供をまるで道具か資源かのように扱い、それが少なくなると、今後の労働力や介護、年金基金など困ることが多いから大切にしよう。逆に言えば、子供が多ければ、そんな心配は不要だからどうでもよい、と言っているように聞こえる。この質問は、子供、つまり人間に対する、現在の我われ大人の考え方がいかに浅ましいかを、一言の下に明らかにした。このように指摘されるまで、この問題の本質に思い至らなかったことを、我われは恥じなければならない。

人間を道具化するとはどういうことか。道具とは、その目的に役立つ限り貴重であり、そうでなくなれば捨てられる。役立つとは、便利であり、利益を生むかどうかで測られる。人間も同じである。役立つために勉強し、必死になって己を磨く。人に負けてはいけない、諦めてはならない。敗者は無価値となって社会の片隅に打ち捨てられてしまうからだ。かくて、何とも息苦しく、ギスギスした競争社会が出現した。しかもそれは、日本だけではなく、世界的な現象のように思える。

ここにみられる人間観は、人間能力のある一面だけを取り出し、それを極端にまで伸ばそうとする歪(いびつ)なものに見える。ここには、その人がそこにいるだけで周囲は慰められ、他の人には無いその人だけの価値を尊ぶという見方はない。

確かに、これまでの歴史において、ひとは誰もがかけがえのない存在として大事にされるという社会が在ったのか、と問われれば自信はない。古来からの世界的な宗教やその教えが、今なお我われの生き方を支え、導く指針であり続けていること自体、人間の本性は昔からまったく変わっていない証にも思える。つまり、人間は常に、少しでも役立つ道具であることを求められて、今に至った。

しかしそうは言っても、現在の人間観は、科学技術の発展と相まって、これまでに輪をかけて、極端にまで突き進み、何のための進歩であり、利益であり、人生なのか訳が分からなくなった時代にあるように見える。我われはこの先どこに進むのであろう。

ところで、人間を道具化しない見方とは、どのようなことだろうか。筆者にもしかとは答えられない問いだが、朝日新聞(4/7・夕)に掲載された、藤本千尋「ゆらゆらゆれるかかが大すき」の一文に多く教えられた。

彼女は自閉スペクトラム症(ASD)障害の母親を持つ、小学一年生の児童である。母親が「ちょっとへん」と気づいたのは、保育園児の「年中」の頃であった。一緒に遊ぼうと言えばいつも「ニコニコうなずいて」くれるが、あそびはなかなか始まらず、「わくわくしてまっていると、そのうち、かかはこまったかおでゆれはじめました。右へ左へ、ゆーらゆら。そしてそのまま、手をはなしちゃったふうせんみたいに、ふわーっとどこかへとんでいってしまいました」。

ASD障碍者の苦手は、大きく言って曖昧なこと、相手の気持ちを理解すること、騒音の中の他、嫌なことが「忘れられないこと」であるようだ。だから遊ぼうと言われると、何をどうすればいいか分からず、揺れ始める。また 多くの失敗や困った記憶があふれだす。そこでかかの記憶を楽しいものだらけにしようと、聞いてみると、「かかがしっぱいしても、おこらずわらってくれたとき。あとかかいがいがしっぱいして、みんなでわらちゃったとき」。そこで彼女は思った。「かかは小さなたのしいを、だいじにだいじにあつめてるんだ。…それはとてもすてきなことだとおもいました。それに、しょうがいがあるからといってとくべつにおもわなくても、いつもしているみたいにふつうにすごすことも、えがおにつながるんだときづきました」。
どうであろう。人をあるがままに受け入れ、それを喜びとする社会、人を道具としない社会とはこのようなものなのかもしれない。少なくともここには、一つのあり方が示されているように思える。もち論こうした生き方を、グローバルにまで広がった現在の競争社会のただなかで根づかせ、実践することは難しかろう。だが、そのように意識して生きることは出来るョ、と上の文章は告げているのではないか。ここでさらに気付かされる。周囲にこうしたひとが一人でもいれば、現在のように互いが寄る辺なく、砂漠のような競争社会の中で暮らそうとも、一息つき、大きな慰安を得られるのではないか。

なお、本文は北九州市主催の14回子どもノンフィクション文学賞、小学生部大賞を得た作品であることをここに付しておきたい。

 

 


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です