• 4月9日・木曜日・晴。但し、昨日の雪の名残か風寒し。

    ここに、新たな経済思想――つまり単なる理論の枠を超えた、社会経済の在り様をその歴史的な意味と展開までをも視野に納めた思想体系――の構築が待望される時代になったのでしょう。マルクス経済学はその筆頭に位置するはいうまでもありません。が、私はここにJ.S.ミルをその一人に加えたいと思います。御案内のごとく、彼はサン・シモン、フーリエらフランス社会主義思想の洗礼をうけ、またコントを介して社会動態的な視点を持つという点で古典学派の枠を超え出た経済学者でありました。のみならず、定常的経済状態をリカードに反して積極的に評価し、経済発展よりも文化的生活の重要性を、自然環境の維持と共にほぼ初めて主張した思想家として、新たな社会観の構築に彼なりの貢献を、さらにそこに彼の現代的な意味合いを認めざるを得ないと思われるからです。その線上にマーシャルが浮上します。彼は古典学派の伝統を受け継ぎながら、近代経済学の創立者の一人であったことは申すまでもありませんが、その彼は直面する新社会の矛盾にたいし、マルクスとは別種の解決策を模索しようといたします。すなわち、資本主義体制を革命的にではなく、その温存を図りつつ、そこでの矛盾の除去をめざす。彼の弟子、ケインズもその意図において師と同じ道をとったといえば、これはもう大学一年生の思想史の授業のレベルとなります。

    しかし、敢えて私はこれに触れざるをえません。と言うのは、御著でマーシャルについては「騎士道」の精神が、またケインズには経済に対する国家的介入の是認が、彼の『自由主義の終焉』を引かれながら指摘され、しかもそのご指摘は本書のその後の展開にとって単なる導入的な手続きをこえた極めて重要な意味を負わされていると、私は解したいからです。

    すなわち、騎士道の問題はこうです。スミスの説く「利己心」は、しばしば誤解されるように、自分だけの利益追求を専らとし、他者の権利の蹂躙も厭わぬ利己主義的な「心」では決してなく、むしろ同感の原理の制約とフェアープレーの精神に裏打ちされた観念でありましたが、歴史の中でその点が見落とされたのは彼にとっては、不幸でした。いずれにせよ、かかる条件のもとでの各人の自由な経済活動が自らの幸福の達成と共に、社会全体の幸福と発展を齎す、と彼は展望した訳でしたが、その結果は総労働対総資本ののっぴきならない対決から、革命にまで事は進んだのでした。であればこそ、マーシャルは私利の追求ではなく、社会的福利を目指すと言う意味で経済人に「騎士道」の精神の涵養を説いた。他方、ケインズはかかる心理的、精神的要素もさることながら、自由主義市場に潜む制度的な矛盾に着目し、国家によってその是正を図る道を探ったと言うことでしょう。その理論的な到達点を、我々は後にあの『一般理論』の内にみることになる、というのは要らぬ蛇足です。 

    しかし、次の点は是非申し上げておきます。御著では、「利己心」の何らかの掣肘と自由主義的市場の是正に対して、これは経済人が自らとりうる対策と言ったレベルのものではなく、国家的な取り組みを要するが、その実行はやがて経済社会制度の本質的な修正にまで行き着く問題を含んでいる次第が追い追い明らかになります。いずれにせよ、彼ら二名の主張にはそうした認識が潜むと同時に、それは何も彼ら二名のアイデア何ぞではではなかった。これは合衆国、日本そしてドイツ、要するに先進資本主義国が取り組むべき共通の問題でもあって、そうであれば先生がまずこの二人をさりげなく扱われるその筆致には中々油断のならぬ気配を感じさせられるのです(以下次回)。

  • 4月3日・金曜日・風強く花舞う。桜はこれにてシマイか?

    前略、風ゆるみ、ツルリとしていた桜の枝も大分ふくらみ、散歩がてらに木々を見上げて、こんな駄句を一句。

      寒風を耐えて膨らむ蕾あり  みつお

    といった手紙を書き始め、以降、日々の草草に紛れて、さて続きをと筆を執るころには、蕾みどころか、早や花の散り際となってしまいました。ご無沙汰しておりますが、その後いかがお過ごしでしょうか。小生、退職してまる一年となります。現在、友人の会社の名ばかり役員として、週一度、早稲田に出向いてパソコンの手ほどきを受けるほかは、概ね春日部に蟄居し、か細い読書の日を過しております。それを思えば、リュックに本を詰め込み、毎日、大学図書館にこもって、孜々として研究に打ち込まれる先生には、心底頭が下がります。能力の差、といってしまえばそれまでですが、やはり決定的な何かが違うと諦めるほかはありません。

    さて、さきに先生から頂戴した英書、Europian Reformism、Nazism and Traditionalism.  Economic Thought in Imperial Japan、1930-1945(Peter Lang2015) を先月初め己が定めた箇所を何とか読み終え、ここにささやかな読後感を綴って御礼とさせていただきます。と言って、早々のうちの、かつは雑駁な読書であれば、意に満たぬピント外れなものになろうことを、予めお許し願います。

    すでに本書は日本語版(原書?)をもち、その英訳版として刊行されましたが、しかしそれは単に日本語版の逐語訳ではなく、わが国の当該問題に必ずしも通じていない欧米研究者らを慮って、枝葉を刈り取り、あるいは補足し、彼らの理解の便をはかったとは、謝辞にあるところです。かくて、文脈が明確となり、主張される映像はクッキリと刻まれたように思われます。しかし、何かを取るは、何かを捨てるの譬のとうり、日本語の文章に込められた常に変わらぬ先生特有の、あの粘り強い陰影にとんだニュアンスが削がれるのは止む得ないことでした(もっとも、こう感ずるのは、我が薄弱な英語力のせいであって、読み手には十分その意が伝わっているのかもしれません。いや、キットそうなのでしょう)。

    さて、以下では要らぬ蛇足ながら、話の接ぎ穂をえるために、少しく私の文章を入れさせて頂きます。19世紀末には、資本主義の在り様はそれが誕生した頃とは全く異なる顔貌を見せつけるにいたりました。市場のプレーヤーである企業規模とその構造、生産性や支配力、市場競争の熾烈さ等々は、その何れをとっても前世紀のスミスに特徴的にみられる、調和的で何処か牧歌的な経済社会の佇まいを完全に消滅させてしまいした。たしかにそこでは、マルクス、エンゲルスが『共産党宣言』冒頭で、その生産力の発展は人類史上初めて成し遂げられた資本主義の成果だと称えざるをえなかったほどの、目覚しい進歩が達成されたのも周知のところです。ただ、そのような急速な進化と拡大は、そこに孕む矛盾をいやが上にも苛烈、過酷なものへと追い込んでまいりました。そして、これら諸問題に対して、スミス以来の古典学派の経済学ではもはや立ち行かなくなるのは、これまた至極当然なことでした(以下次回)。 

  • 3月26日・木曜日・晴。

    元に戻って、亀甲会の書芸展では、これも書か、という印象であった。もっとも、ここでは漢字の元となる、あるいはその成立直前の絵図と文字のいまだ未分化の象形文字が素材であるから、普通の書展とは趣を異にするのは当然である。これらを読み解き、鑑賞する素養のない者にとっては、書というより絵画にちかく(普通の書展でも、それは同じであろうが)、大小様々な用紙に刻された多様な墨痕、墨線の掠れ、捻りが描く形象に勝手なイメージを重ねて、分からぬながらも感心した顔つきをする他はなかった。それでも加藤氏の三十代半ばにものされたと言う作品には、書全体が孕む躍動、作者の息遣いが感ぜられ、それらが迫って、なるほどここには確かに一つの世界が宿る。この魔に魅入られたヒトがあっても不思議にあらず、と了解した次第だ。だが、私にとって特に興味深かったのは、そうした美的世界ではなく、図案や象形がそこに込められた意味と共にその後の漢字へと転生する過程が垣間見られたことである。白川静の世界に別の道から踏み入った感があった。

    この項を終えるについて、一つ蛇足を付しておきたい。私にはついに亀甲会の魅力は分からず仕舞いであったものの、だから本会はツマラン、などと言う積りは毛頭ない。そんな不遜なことを言える資格のある者は誰もいない。あってはならない。だが、ある文化的、宗教的基準を設け、それに及ばぬ分野、領域、作品等々を「下らん」(この語の謂れは、江戸期、京の朝廷から江戸に何物かを下賜されるとき、「下る」と言い、そうでないツマラヌ物は「下らん」とされた事による、とは先日読んだ小説に教えられた)として排除する社会は、どの時代、どの国にもあったこと、現在でもそれは無縁ではない。いかに自由な社会といえども、油断をすれば、アッと言う間にそんな社会になってしまいかねない。戦前のわが国の極端な愛国主義、排外主義の潮流を思い起こせば、それは明らかであろう。

    私は将棋が好きだ。好きだから好き、と言うほかはない(と言って、最近、その情熱は大分落ちてきているのだが)。この感情を頼りに、何故そんな物にウツツを抜かすか、その理由は皆目ながら、他者のそんな気持ちを忖度し、理解は出来る。コイツにとって、これは命にも等しく、コレあるがために、生きていられるのでもあろう。それからすれば、仕事は其れを支える、稼ぎにすぎぬ。職務を恙なく果たせるなら、それで良いではないか。こんな風に、社会が人々の楽しみ、喜びを最大限認め、許し、許容できるようであって欲しい、と切に祈る。そのような社会が持続し、強固に守られてあるなら、何故、遮二無二経済発展をし続けなければならないのだろうか。

  • 3月18日・水曜日。うす曇り。

    「遊び」こそイノチ、仕事はこれを支えるカネ蔓だ、と言って憚らぬ人にたいし、現代の評価はまだまだ厳しいのではなかろうか。「これは仕事だ、遊びじゃない」といった言葉を思い出すまでもなかろう。ソンナ人は会社での出世を早々に諦めるほかはあるまい。刻苦勉励、勤労精神に支えられて、一気に近代国家を造り上げたわが国にあっては、特にそうした心情は根強いのだと思う。また、列強の植民地化を免れようとすれば、必死にならざるをえなかった歴史的な事情もあった。だが、我が日本人は、常にこんなシャッチョコ張った二宮尊徳翁ばかりではなかったようだ。これについては江戸期における、武士から町民までの、今から見れば羨ましいばかりの安穏とした暮らしぶりを、だからもはや再び帰らぬ「面影」として詩情豊かに描いた渡辺京二『逝きし世の面影』を是非読まれたい。

    「遊び」には、いい加減、チャランポランの意味が絡みつき、そこから何かマイナスのイメージが出てくる。「遊び人」となると、これはもう決定的である。正業を持たず、ひたすらヒトの懐を当にし、日がな一日遊び呆けるようなヒトの意となる。『日本国語大辞典』には、遊びとは、4、からかったり、もてあそんだりする対象。おもちゃ。5、賭け事や酒色にふけること。遊里、料亭などで楽しむこと。6、仕事や勉強の合い間の休憩。7、しまりのないこと。たるみ。8生活上の仕事などにあくせくしないで、自分のしたいことを楽しむこと。他に、機械のあそび。

    これに対して、playにはもっと積極的な意味が込められている(ドイツ語のspielenも同じ)。例えば、こうだ。2、競技する。3、演奏する。4、芝居や上演をする。役を演じる。5、行動する。6、(動物などが)飛び回る。(光や影・風などが)ゆらぐ、ちらつく。(噴水・光などが)噴出す、飛び出す、等々である(『新英和大事典』より)。

    このように比較をしてみると、彼我の遊びのイメージには、かなりの落差があるようにみえるが、どうか。我々の場合、仕事が主であり、遊びは仕事の合間の息抜き、だからその時間には決まった目的もなければ、やるべき事もなし。その揚句はせいぜい遊里にでも足を運んで賭け事、酒色にふけり、よく言えば、明日の仕事のためのエイキ、どんなエイキかはともかく、を養うばかりということになろう。その故だろうか、わが国の文化論では、ホイジンガやカイヨワに見るような遊び考は生まれず、遊び場、クイモノ屋の案内、旅マップめいた物の氾濫になったのか。だが、人生いまや80,90年の時代である。仕事を退いた残りの時間が格段に増えた己が人生を、そんな事で送れるものだろうか。そんなことで、果たして充実した生になるのであろうか。なおここで、大河内一男『余暇のすすめ』について一言すれば、本書は恐らく、社会科学の立場から初めて余暇を本格的に扱った名著とは思うが、だがこれとてもその署名が示しているように、仕事の合間に残った「余暇」時間の善用が主題であって、その限り仕事に従属させられた「余暇」を問題とし、ここで扱った遊び考には及んでいない。

  • 3月12日・木曜日・快晴。

    昨日、春のそよ風に誘われた訳でもないが、上野の森美術館に出かけてみた。知り合いが書を出展し、その案内状を送ってくれたからである。主催は亀甲会(パソコンではトテモ打てない込み入ったカメとカイである)。頂戴したパンフレットによれば、「甲骨・金文を主題とした書芸術展」とある。主宰は加藤光峰氏なる私には初めて知るお名前であった。

    甲骨文とは、亀甲、獣骨に刻まれた文字を言い、殷代の占いの記録で、漢字の最古の形を示す、とは日本国語大辞典の説明である。金文は、これも殷・周代の古銅器に彫られた銘文とある。亀甲会はと言うより、主宰の加藤氏は、若き日、この古代文字が宿す呪術的な力に触発されたか、捉えられたのであろう、そこに潜む美的世界を現代に蘇らそうと心血を注いで、すでに半世紀を越えられた。くだんの知人他総勢23,4名の会員たちも、この魔界の美と魅力に取付かれてしまったのであろうか。例えば、わが知人は定年までの4年を惜しげもなく切り捨て、この世界に飛び込み、苦しみと挑戦に明け暮れる創作にはつき物の魔と戦いながら、実に充実した日々を過しているとの由である。

    この言を耳にし、尽くづく思い起こすことがあった。ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人間)の世界である。彼によれば、我々の言う仕事のほとんどは「遊び」からの分枝であり、遊びは決して不真面目、真剣さに欠ける領域ではない。遊びは神事とのかかわりの中で、それぞれの分野を開き、またそれを洗練させてきた。祈りは詩歌、音楽、器楽誕生の温床になったであろうし、舞踊もそうだ。収穫の感謝と祈りは、初穂の奉納の儀式と共に神酒や多様な食の饗応の場でもあった。相撲にみるように、武芸や格闘の試合も神への奉納と共に大きな楽しみの領域であったのは言うまでもない。このように、ホイジンガは「遊ビノ相ノ許二」文化全般の発祥、発展を概観したのである。ここでは「遊び」は、仕事以上の真剣さでもって扱われたのだ。彼のこの文化論は「遊び」を初めて真面目な考察すべき対象として取り上げたという意味で特筆されうる功績であったと、カイヨワは評価したのである(本日はここまでとし、あと一回続く)。