• 7月3日・金曜日・豪雨。

    さて、前回の論を進める前に、そこで取り残した問題を一、二補足しておきたい。それは、科学の客観性についてである。科学、特に自然科学の成果は、普遍妥当性を持ち、またそうでなければならぬ、と言われる。社会科学では、経済学がそれに最も近い学問である。だから、唯一、ノーベル賞の対象学問になれたのであろう。その成果の客観的な判定が可能だ、とされたものと思う。

    では、この場合の普遍妥当性とは、どう言うことであろうか。分かりやすく言えば、その成果が「真理を欲する万人に妥当する」ことである。普通、科学的成果は「因果法則」として示される。「Aは常にBを結果する」。生じた事柄を、それを生じさせた要素に分解し、その要素間の関係を上記のように、原因と結果の関係式に纏め上げる。ただ、現実の事象はコンナ単純なことではなく、無数の要素が同時に関係し、影響しあっているのだから、とてもじゃないがその作業は困難を極める。実験装置はそうした錯綜した要素群を排除し、調べようとする要素のみを引きだし、その関係を検討するための条件作りと言ったらよい。

    例えばロベルト・コッホ(1843-1910)は結核の発症メカニズムを、こんな風にして確定した。結核に罹患した検体から結核菌を抽出し、これを純粋培養する。ついで、何世代にもわたり継体して飼育され、こうして無菌化された鼠に注入する。その際にも、細心の注意をもって器具その他を滅菌し、他の感染を防止する。21日目にその鼠を解剖して、結核の感染が確認されたら、そこから分離された結核菌を他の検体に感染させ、かつそこから結核菌を抽出できる事。所謂「コッホの四原則」と称する手続きをもって、彼は細菌学を確立したのである。のみならず、彼は多様極まりなく、複雑な症状を呈する結核を結核菌との関連で把握し、診断学からその治療のための道を後世に開くことができたのである。

    これは、人類が現在でも恩恵を受けている医学史上稀に見る一大偉業であった。ここにいたる細菌学の歴史は、興味深いエピソードに尽きないが(メチニコフ『微生物の狩人』)、ここでは彼が、結核の発症を結核菌との関連で捉え、その論理を確定しえた、その異能と刻苦を称えておきたい。彼の眼前にはかのフィルヒョウが立ちはだかり、その前途は決して平坦ではなかったからである。

    ただただ、我が記憶のみにすがって書いた、それゆえ大いに怪しげな上の文章から、私は何が言いたいのか(何かとてつもない道に踏み迷って、とても疲れた。本日はこれまで)。

  • 6月25日・木曜日・晴れ。陽強し。

    今日は、パソコンの前に座ること、早や小一時間。なにを記すべきか、一向に思い浮かばず、大いに弱った。頭の引き出しをアレコレ引っ張りだしてはみたものの、どうも適当な素材がみつからない。そろそろネタ切れになってきたのか。そこで、苦し紛れに、コンナ物を書いてみようと思い立つ。題して「分かる」とは、どう言うことか。自分でも覚束ないことをやっつけようとするのだから、その行方はしれない。その積りで、お付き合いを。

     『広辞苑』はいう。「2、事の筋道がはっきりする。了解される。合点がゆく。理解できる。3、明らかになる。判明する。」その事例として「試験の結果が分かる。犯人が分かる。」があげられている。2と3の「分かる」は、微妙に違う事が、何となく分かる。3では、起っている事柄の経過、結果が明らかになる、という意味になりそうだが、2の場合は、生じた(或いは、ている)事柄の理由、すなはち、因果の繋がり、を了解すると解したい。

    これを歴史に当てはめて言えば、こうなる。生じた事を記述し、物語ること、これが歴史である。だからhistoryはstoryでもあるわけだ。しかし、ここで記述するといっても、生じた事柄をただ闇雲に書き留めることではない。それでは、事がデタラメに書き連ねられただけで、書いた当人でも何を書いたか分かるまい。まずは事を成り立たせている要素、成分を引きだし筋道を立てて書かなければなるまい。まずは時と場所を特定し、ドンナ状況の中で、誰が何を誰とどの様にしたから、この事が起った、といった具合だ。

    しかし、これで事が物語れるか、と言えば、そうはいかない。引き出される要素、成分は、書き手が何を書きたいかによって、まるで異なってくるからだ。同じ事柄を対象にしていながら、全く異なる歴史絵巻が書かれる理由だ。一人のモデルを取り巻いた画学生達のデッサンが夫々違うように。そして、ここで特に言って置きたいことは、書き手を突き動かしてこれを書こうと決意させるのは、それは彼自身の自発的な意思の発露であるということだ。また、そうでなければならない。とすれば、ここでの書き手は、自立した独立人格が前提されている。だからその時、なにか強権的な力、意思が介在するようなことになれば、彼はそれに断固反対し、抵抗する存在でなければならない。そうでなければ、その物語は生じた事がらとは無縁、どころかそうした意思の都合の良いものへと変質しょう。歴史の改竄である。

    上で、私は何か大事なことに触れた。歴史は物語りであり、それはまた書き手の自発性に発し、そうなると、歴史とは彼の書きたい事を、書きたいように書く、という事になる。確かに、そういう事だと、私は思うが、これでは学問としての歴史はどうなるのか。学問とは、自然科学、社会科学、人文科学の何であれ、その成果は誰によっても承認される、ある客観性を有するもの、少なくともそれを目指す営みであるに違いない。現在はその認識において、合意されなくとも、反証と検証を通じて一歩ずつ真理へと近づく営為であると信ずる。そのために歴史学にもそれ固有の方法と規律、要するにディシプリンがあるが、これについてはよしとしよう。ここでは、一点、こう付言しておきたい。以上のように歴史を考えると、同じ出来事、対象も、時代により、関心の推移により常に書き換えられ、見直され、新たな歴史が生まれるということである。

    「分かる」という事を、私なりに分かろうとして、こんな事を書き連ねてきたのだが、本当は、人が分かる、とはどういう事かを考えたかったのである。本日はそのための予備作業という事で――もしかしたら、予備作業でも何でもなかったかも知れない――終わりとしよう。

  • 6月19日・金曜日・雨。九州地方に豪雨続く。

    過日、某ロータリー倶楽部から三十分ほどの話を、との依頼を受け、あわせてその要旨も求められ、以下の駄文を書いた。本日は、それを掲載することで、わが責めにかえたい。

                将棋と私

     今どきのゲーム機からみれば、将棋はいたってシンプル。何の変哲もない盤と駒。これを相手に、プロ棋士と称する奇人、変人、異能の人々が、昼夜を分かたず苦吟し懊悩する様は、これを観る人々に時に哀れをさそい、あるいは驚嘆、感嘆の念を生じて、倦むところを知りません。わがドイツの友人は呆れ果てたというように申しました。「ウチのオヤジはチェスに夢中のあまり、父親の死に目に会えなかった」。洋の東西を問わず、同じような話があるようです。一体、ここにはいかなる魔界が潜むのでありましょうや。

     私もそんな世界に魅入られたのでしょう。これまで将棋には随分のめり込んでまいりました。棋歴も六十年余りとなります。その割には実力が伴いませんが。その間、幾人かプロ棋士の知己を得る幸運に恵まれました。また、同僚との勝負の明け暮れ、あるいは棋友とも言うべき方々との戦いを通して、多くの事を学ばせて頂きました。曰く。考えることの苦しみと喜び、劣勢に耐える力、選び取った一手の重み、瞬時に変わる勝負の行方等々、数え上げればキリがありません。

     本日は、そんな私のささやかな体験談から将棋の面白さ、奥深さの一端にでも触れて頂ければ幸いです。

  • 6月10日・水曜日・梅雨の幕間・晴れ。

    T・O君

    手紙を有難う。そろそろ近況報告がくるかな、と思う矢先だった。一読し、まず浮かんだ言葉はこうだ。「男子三日会わずば、刮目すべし」。伸び盛りの少年(現在は少女も含まれようが)に、三日も会わなければ、もう別人かと思うほどの成長をとげている、というほどの意味である。一年前の手紙で、翼は自分の人生目標として宇宙飛行士を掲げた。だが、当時の学力では、その道のりは、容易ならざる事を自覚していた。にも拘らず、事を決意したる者にとっては、事情がどうあれ、その成否は半々であると思い定め、あえて峻嶮な登頂への一歩を踏み出したのであった。レベルの高低に係わらず、砂を噛むような受験勉強の味気なさ、不安と孤独の辛さは、それを経験した者なら誰でも知っている。しかも、その目標がはるかに霞む高峰であるとすれば、そうした重圧は、ときに耐え難いものとなろう。それは自ら負ったものとはいえ、全てを投げ打ち、現状に妥協しようとも、決して責められることはない。だが、前便の翼の声は違った。そうした刻苦の日々はたのしく、充実している、と。これを読んだ大人たちが、感嘆し、大いに勇気付けられた事をここに記しておこう。

    あれから一年。翼の成長は、我が予想をはるかに超えて、見事である。それは、単に学力の進歩を言うのではない。厳しい受験勉強を通じて、ものの見方、考え方が、確固とした土台の上に打ち据えられたように思えるからだ。その当該箇所を、手紙から引用してみよう。「勉強のとらえ方が変わりました。結論から言うと勉強はキチンと丁寧にやっていくと面白いです。最近、予備校などで化学と物理を中心に勉強しています。当然、学校レベルの問題よりも難しいものが京都大学で出てきますし、高級な話もばんばん出てきます。例えば化学なら、僕は以前は化学を暗記モノと思っていました。しかし、予備校で(化学の講座の中で一番ハイレベルな講座をとっています)受けた授業で考えがガラリと変わりました。まず1つに、化学は暗記科目ではない、ということです。当然、必要最低限の暗記事項はありますが、それ以上に言葉の定義をおさえ論理で徹底する事が重要になってきます。また、東大・京大をはじめとする難関大の問題は暗記だけでは解けません。しかし、この一筋縄ではいかないような思考を要求されるような問題こそ本質をとらえ、かつ面白みのあるものだなと思います。ただの暗記だと思っていたことが、論理の積み重ねによって体系的に整理されていくのは眼からウロコ体験で快感です」。「化学・物理を通して思ったのはハンパにやるとつまらなくなるが、論理を徹底すると面白いということです。しかし、論理を徹底するには、まず基礎知識と事柄の一般的な理解、数学的な処理能力などが必要となってきます。幸い、これらを理解し、実行できる程度の素養は1年で身に付けられたので、今こうした考えに至っています。以上のように考えると、受験勉強も、キチンとやれば悪いものではないなと今は思っています。」

    翼よ、ここでの言葉は、一受験生のものではない。これはすでにして、研究を生業とする者たちの心情、心組みを示したものだ。研究とは、どの分野であれ、まずはその基礎知識の習得、だからそこでの努力の多くは暗記に費やされるが、それを通してその学問分野の論理もまた体得される。これをもって、研究への第一歩が踏み出される。これを私は「学び(学習)」、と言いたい。というのも、学びは、まねび、つまり既に在ることを真似ることに発し、こうして基礎知識を身に付けるからである。ただ、ここでは暗記が主となるから、それは機械的な反復であり、多くは苦痛とならざるをえない。勉強が辛いのは、それだ。

    しかし、考えてもみよ。辛いばかりの事を、人は一生の仕事、職業として自ら積極的に選ぶものだろうか。また、そんな事を生涯続けて行けるものだろうか。奴隷制、身分制社会ならイザ知らず、職業選択の自由な社会ではありえない。たしかに、やみくもな暗記は苦痛であるが、他方で未知な分野を知ることで、これまで気付きもしなかったことにふれ、視野の広がりを自覚することは、翼も言ったように、眼からウロコ、それ自体大きなよろこびである。その喜びを基礎に研究が始まる。やがてこれまで見えていた世界が、全く別の姿、意味を持って迫ってくる。しかもそれは、人類の中で、この俺によって、今初めて明らかにされたのだ。こうした喜び、興奮に触れえた者こそ幸いだ。彼はモハヤこの世界を離れることは出来ない。寝食を忘れ、苦労をものともせず研究にのめりこまざるを得ない。アリストテレスが『形而上学』で「知る」事それ自体が持つ純粋な喜び、充足性を称えたのも、このような意味であったと思う。

    もとより翼の現在の勉強は、研究職のためではなく、宇宙飛行士を目指したものである。だが、そこに至るには、手紙にもあるように、今後、目指す大学に合格し、関連分野の知識に習熟するは勿論、苛酷な環境に耐えうる体、精神をも鍛えあげなければならない。しかし、私はそれに何の危惧も抱かない。君にはそれらを乗り越えられる知力、体力が備えられているからだ。それでも、人の営みに完全はない。だから、そのような必死の努力も、あるいはかなえられないことになるかもしれない。だが、翼よ、時に襲うそうした不安、心細さ、さらには勉学の苦労の全てを含めて、楽しんだらよい。いや、すでに君はそれらを楽しんでいる様にもみえる。いずれにせよ、ただ今現在の体験は、今後の人生に大きな宝となろう。臆せず、信ずる道を歩め。最後に私が送る言葉は、こうだ。「神よ、ひたむきなるこの若者に祝福をあれ」。

  • 6月5日・金曜日・梅雨入り間近か。

    前回、ゲーテの言葉に引き寄せられて、あんな事を書いてみた。今回はその続きをもう少し。私には長年の付き合いになるドイツ人が一人いた。と、過去形になったのは、一昨年辺りに帰国して、もはや連絡が取れなくなったからである。こちらの筆不精もあり、そのまま日延べしている内の事であった。せめて、あの時ケイタイで一本連絡をしておけば、と今になって悔やんでみるが、今更どうにもならない。こんな繰り言は山とある。これも、私の性分の一つである。

    彼の滞日暦は、ほぼ30数年に及ぼう。その間彼は、幸いなことであったのか、特に日本語を学ぶ必要のない生活を送ることが出来た。日本人の細君はフライブルク大学を出た才媛であり、ドイツ語教師(R大学助教授)であった彼は、その同僚たちともドイツ語での意思疎通に不都合はなかったからである。そんな彼が、私の海外研究直前のドイツ語会話の先生として紹介された。以来、彼は私の友人となった。

    この彼が、時には日本語を学びたいと、心底、思ったのだろう。「ミツオ、カタカナ、ヒラガナ、OK。ローマ字、問題ない。何故、漢字が必要なんだ。これで、文章は書けるじゃないか。」いかにも表音文字の国の人らしい訴えである。その痛切な思いは良く分かる。「ウン、お前の言い分はよく分かるが、日本語には同音異語と言って、同じ読み方で、意味の全く違う言葉がいくらでもある。だから漢字で書かないと、理解できないンダな」。今でこそ、日本語に堪能な欧米人は珍しくないようだが、当時は大変な努力の対象であったことは、間違いない。我が留学中のある時、フライブルク大学の若い研究者が、私のところに飛んできて、顔を紅潮させ、大威張りで訴えた。「Prof.KANEKO、聞いてください。我が友人が、昨日、日本から手紙を寄越し、彼は漢字を百文字書けるようになりました。ドーです、凄いでしょう。」件の友人は、私も良く知る名古屋大学大学院の交換留学生の一人であった。「それは立派だ。デモね、日本語の新聞を読めるようになるには、三千から四千字の漢字を覚えなくてはなりません」。彼は眼を剥き、輝きの紅潮は驚愕のそれに変わり、三千字とツブヤキながら去っていった。

    アルファベット26から30文字ほどで全ての言葉を造れる欧米人には、そうした次第がドーにもイメージしにくいらしい。私が一万近い漢字を知ってる、と大法螺を吹いたら、大仰な身振りともに、こんなシャレた解釈を示された。古い文字が消えて、日々新たに、次々文字が造られてそうなるんだろう。

    さて、25年ほど前の事になるか、岩手大学で開かれたドイツ語学会にかの友人夫妻と参加した時のことである。われわれは路線バスを乗り継ぎ、初秋の山越えを楽しみしながら、帰途に着いた。途中のバス停に、たまたま絵か写真の載る「味覚の秋」と題するポスターがあった。これは、「コレハ、如何ナル意味ナルヤ」と尋ねる夫君に、細君は流麗なるドイツ語で説明された。「夏には食欲が落ちて、ミンナ、あまり食べられなくなるでしょう。秋になって、涼しくなると、ものがオイシク食べられるようになる。ソオユウ事よ」。

    どうであろう。これは私の「味覚の秋」とはチョイト違うのだが。帰京して語学担当の同僚に聞いて見たら、やはり同じような感想で、その解釈は「天高く、馬肥ゆるの秋」ダナとのこと。いや、解釈の当否はドウでも宜しい。私の面白いのは、日本人同士の会話では、日常的な言葉の意味について、一々確認しながら話を進めることはなく、だから頭の中ではまるで違うことをイメージしながら、それでも互いによく分かっているような気持ちになれる。それでいて必ずしも破綻が起きないと言うことである。それが、違う言語に移される事で、初めて自らその意味を考え、点検し、類比し、少しづつ自分の言語能力を鍛え上げていけるのであろう。