• 2月12日・金曜日。うす曇。

    前便のわが主旨は、こんな風に纏められるか。「老人」とは歳(時間)と共に、身内に備わる様々な能力を失いつつある人とみなした。そこには、直ちに社会的な、多様な意味が絡みつく。組織人であれば、その組織の要求を満たし得ない人とされ、そこからの「解放」、つまり退職や引退を余儀なくされる。定年制とは、それを規約として定めた制度である。この仕組みは、規約を持たない自営業、自由業の人とて免れられない強制力を持つだろう。顧客の喪失という形で。

    現在、60歳定年が一般的なようにみえる。しかし、それも職種により多様である。プロ野球人であれば40歳くらいが限度であろうが(過日、山本昌氏・中日ドラゴンズ・が50歳まで現役であったと知り、心底、驚かされた)、他方で90歳近くまで現役の教授を勤めた時代もあったようだ。私の学生時代には、政争に明け暮れた自民党では、7、80歳の最長老議員たちが2,3日の徹夜をものともせず、返ってツヤツヤした顔をテレビに曝していた事が思い出される。まさに驚異的な体力という他はない。

    だから、この60歳定年制は一つの目安に過ぎない。こんな当たり前のことをワザワザ言うのは、60歳で切られた人たちの能力の行く末についてである。先ず問うべき事は、現在、この歳に達した人々は、真実、その能力、才能(体力、精神力、技術力等々)を失った人々であろうか。そう本気で思っている経営トップはほとんどあるまいと思う。定年制の唯一合理的な説明は、後進の育成とそれによる組織の活性化を図る事ではないのか。やはり、組織的な代謝を欠けば、マンネリズムに陥り、時代の変動に対応し得ないからである。また、上がつかえて若者が活躍できない社会は、不幸であるにちがいない。

    このように問題を整理し、摘記してみれば、今我々が抱える老人問題は、入り組み、難問に見えようとも、案外簡単であるのかもしれない。過日、こんな記述を目にした。定年退職者は、「天国」から「地獄」への遍歴を免れない。その心は、会社の業務や責任、日々の通勤から、その日を限りに、一転、全く解放され、自由な生活を送れるようになるからだ。しかし、その自由は、大方にとって、先ずは「蕎麦打ち」、陶器に向けられるが、そんな事は直ちに飽きて(それはソウだ。才能と素養も無い素人がそんな事に手を出して、その奥深さと面白みを実感できるわけも無い)、あとは何も無い無聊、退屈が襲ってくると言うことである(中邨章『地方議会人の挑戦』より)。

    そこで中邨氏はこんな提案をされる。議会人はそういう人たちに積極的に働きかけ、議会の活性化のために、審議のモニター、議案に対する質問権を与え、地方議会への関心を喚起し、市政を住民のものにしていく仕組み作りである。市政は地域住民にとって最も身近で切実な政治でありながら、市民からあまり省みられないような事態が一般的であるのは、地域にとって(いや、日本国にとっても)一大不幸である。この提案のようにして、定年退職者たちに生きがいの場が与えられ、同時に市政の蘇生がなされるならば、そんなメデタイことはあるまい。だがそのためには、現行の議会制度をより自由にし、住民との距離感をなくそうとする議会人たちの努力が第一であろう、とは氏の指摘である(そうした先進的な取り組みしている市会もいくつかあるようだが)(中途だが用事のため、今日はここまで)。

  • 2月5日・金曜日。晴れ。昨日、立春。日差しやや強まり、寒さ和らぐ。

    本日は、老人問題なるものを、私を材料に考えてみよう。現在、65歳以上の高齢者の占める人口比率はほぼ25、6パーセント、2030年頃には3割に達すると言われ、これ等を受け、今後は益々年金、医療その他の老人用の経費とその負担増は避けられない等、なにかと喧しい。老人とは、それほどにまで社会の荷物であるとなれば、今年73歳になる私としても、何か社会に対して相すまぬような、肩身の狭い思いがしないでもない。

    先ず、老人とはいかなる存在であろうか。最初にくるのは、年齢、歳である。それが全て、と言ってもよい位だ。わが手元には、「健康保険高齢受給者証」なる保険証がある。このように社会、ここでは国家は、ある年齢以上の人間を、その属性、特性、資質その他全てを切り捨て一律に、「貴方は高齢者ですよ」と徴表(メルクマール)を貼り付け、それに見合った扱いをしてくれる。それは人によっては迷惑千万な押し付けになるかもしれないが、私には悪いものではない。疲れたときに座席を譲られ、大手を振って「優先席」に座れるのは、自分が大事にされているような気分にもなれる。過日の新聞で、座席を譲った老人からエラク怒鳴られた、と嘆く一高校生の投書と読者の様々な反応を読んだが、私も多くの読者同様、可哀相な目にあわせたとの印象である。「老人道を踏み外した奴メ」と言っておこう。

    「年齢」には、実に多様で決定的な意味が込められ、ジッと考えると、それは驚くばかりである(かつては「性差」もそれに近い意味があったように思うが、現在はそれほどではないだろう)。年齢の進行と共に担う役割、責任、義務の増大と自由の拡大など、上げればキリはない。勿論、その「年齢」の背後に、知力、体力、精神力その他能力の発育、成長が想定されているからこそのことである。そして、それらの能力は先ずは教育制度の中で切れ目無く、多様で精密な試験を通じて測られ、ランク付けされ、社会に出てからは、各人は夫々の組織において最後の計測がなされるであろう。

    「老人」とは、そのような社会の枠組みから、ある日突然、解放される、と言えば聞こえはイイが、追放された人々、と言ってみたくなるような面があるように見える。つまり、ある年齢以上に達した人は、普通、統計的に見て、その組織(それはまた、社会)の求める能力を失った、それ故そこに留まる資格を欠いた人とみなして、そこから制度的に(という事は強制的に)お引取り願うことになる。

    こんな風に、イジワルク、多少戯画的に描いてみたが、しかし自分をこれに即して測ってみれば、それほど的外れだとも思えない。若い頃に比べれば、無理は利かず、体力、精神力、忍耐力の減退はやはり認めざるをえない。キレ易い老人を随分見てきた経験から、「俺は、アアは成るまい」と決意した私だが、先人の轍をチャンと歩んでいるではないか。

    このように見ると、老人とは、確かにある無能力者に近づいていく者であると言えるが、しかしそれも千差万別である事は、全ての人の知るところである。ある人の言葉を思い出す。「赤ん坊はみな同じ顔であるが、老人はみな違う。しかし、死に近づいた人の顔はまた同じになる」。五十歳を超えると、生活の履歴が全て顔に出る、とも聞かされた。それも良く分かる。だが、それまで培われた能力が、年齢と共に、より磨きをかけられ、輝きを増し、体力は失われても、知性、洞察力の深みに驚嘆させられた事も多い。

    私が子供の頃にみた七、八十歳の老人に比べた今の人たちの達者な事と言ったら、雲泥の差である。住環境、食事、医療等々の恩恵を受けての事であるが、確かに老人人口の比率の上昇、それによる病人、介護等の負担の増大は無視し得ないにしても、それ以上に元気で、青年にも劣らぬ清新さと経験知に裏付けされた洞察力をもった「老人」達の多い事も事実である。こうした人々を多様な場に用い、若者たちと共に働き、活躍できる社会造りが必要だと思う。折りしも、安倍総理は「一億総活躍社会」の建設を歌っているところでもある。これが、単に老人達にハッパをかけ、介護や病院治療費の削減を目指す、ソンナ意図に発したものでない事を、心より願うばかりだ。

  • 1月28日・木曜日。晴れ。

    記憶だけの話で申し訳ないが(と言って、これまでもズットそうだったのだから、今更体裁をつけるまでも無いのだが)、渡辺京二『逝きし世の面影』の中で、江戸期では子供たちは実に暖かく、愛情深く育てられ、その成長ぶりを大人たち皆が楽しんでいる様子が細やかに描かれていた。ことに、五、六歳までの子供たちは武士も町民も変わりなく、甘やかし放題の可愛がりようであったそうだ。しかし、ある歳になると(たしか七歳の祝いであったか)、子供たちは身分や家業に応じた厳しい躾を受ける事になる。一日を境に、彼らは昨日までの生活とはまるで違った世界に入るわけだが、それをいとも容易に受け入れいれ、大人から見ても厄介な儀式、仕来りを、大人びた顔付きと振舞いを持って、難なくこなしていったらしい。これら一切を目の当たりにした西洋人たちの驚愕は、私にもよく分かる。

    こんな子育てに明け暮れる大人たちの生活は、ドウか。人々のたれも彼もが、分に応じて家の内そとに花木をあしらい、丹精し、これを愛でて飽かない。ある春の一日、江戸に住する西洋人の二三人が馬上の人となり、そんな江戸の町を散策しながらいつしか巣鴨を越え、板橋辺りまでも駆け抜けるその間、切れ目無く多様な花木が咲き、菜園の広がる景観に、さながら桃源郷に踏み入った思いであったという。これも我が怪しげな記憶に過ぎないが、わが国の植物採集に執着したシーボルトが椿をオランダに持ち帰り、ヨーロッパに根付かせたと聞くが、こんなことが出来たのも、こうした文化があったればこそであろう。ちなみに、当時の日本の花木の栽培は、中国を抜き世界でも第一等であったらしい(中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書)。そして、私がこんな椿談に及んだのは、わがドイツ留学のおり、知日家のドイツ人に向けて、あなた方にとって、日本人の桜と同様な意味を持つ花をあげるとすれば、何か、と問うたところ、ややあって「カメーリア」と答えた話を思い出したからだ。彼は椿が日本から齎されたことを知っていただろうか。

    こうした花鳥や風月に身を寄せ、湯に行き、酒を飲み、ときに男は遊郭に、女は芝居に熱を上げ、あるいは伊勢参りや富士講を楽しみにする生活とは、一言で言えば、「ユトリ」に尽きよう。こんな世界の生活ぶりは江戸落語や京伝、春水らの幾つかを見れば、たしかに得心させられるだろう。

    私がここで言いたい事は、子供を取り巻く大人たちの生活ぶりについてである。彼らが明日を煩うことなく、楽しみと慰めに囲まれてあれば、セカセカ、イライラしながら、背中に貼り付けられた油紙を燃やされる思いで日々を過ごさねばならない人たちに比べて、どれほど幸せであるか計り知れない。その時、我々を取り巻く様々な文明の利器がどれほどなかろうとである。それらは、確かに、生活上の重要な一要件である事は認めても、断じて必須の、他の全てに先行する重要事ではないのである。

    かつて、我々の先人たちはこれほどにまで優しく、豊かに暮らしていた。この話を次と比べて、人はどう考えるべきであろう。我々は江戸の人々よりも、進歩している、幸せであると、胸を張って言えるであろうか。昨日、三歳の男の子が食事中、同居の男の目と合って、彼は「ガンをつけられた」事に腹を立て、殴る蹴るの暴行の末、遂に殺害してしまった。この男はそれまでも、日常的に暴力を振るい、子供の泣き叫ぶ声は常軌を逸した程であったという。大人が小児にそこまで荒れ狂える事の尋常ならざる事態に恐れを覚える。彼は暴力団員であったから、例外だとはならない。最近の子供に対する親たちの打擲はこれに通ずる狂気、冷酷、執拗さがあり、しかもそれらを躾と取り繕って済ませる無恥と共に、ここには現在の我々日本人の心底で、何か心情の破壊が生じたという思いを突きつけられるが、如何であろうか。

    かの男は言っている。「やった事は、やった。」そして、自分の人生に対する未練もない、と。だから彼の心には、こんな惨忍な殺害をしてさえ、その子供への憐憫と悔悟の一片も思い浮かんでこないらしい。これもまた、人間の底に潜む心情の一つに違いなかろうが、しかし自らを粗末にする者は他者の命をも塵芥として扱う事に、何の躊躇もないと思い知らされるのである。

    何をドウすべきかは、私にも分からない。

  • 1月21日・木曜日。晴れなるも、風強し。

    これまで私は将棋の教育力や多様な潜在力がどんなものであるかを示しながら、その魅力を述べてきたつもりである。しかし、これを記しながらハタと気づいたことがある。先の事例は、負け戦にある場面が中心であった。戦い利あらぬ将の困苦、苦渋、にも拘らずその重圧に屈せず、戦局を開いて勝利への展望を探ろうとする、精神力、忍耐力の涵養をみようとした。

    たしかにこれらは人生を送る上で、避けては通れぬ試練の数々である。これをドウ克服し、あるいは負けるにしてもその敗れ方に応じて、人間としての価値や魅力、輝きも増そうと言うものであろう。しかし人の価値とは、そうした逆境における対応においてのみ、測られるものではない。サヨウ、幸いにも順風に恵まれ、事が成就し、頂点に達しようとしたときの、その立ち居振る舞いにおいてこそ人格がアカラサマになることもあるのではあるまいか。

    観戦記を読んでいると、しばしば「勝ちに震える」という言葉に出会う。苦しい峠を越え、幸運にも恵まれ、ヤット前途に光明がさして来た。ここまでくれば、大丈夫。モウ、逃さない。後は慌てず、丁寧に、大事に仕上げていけば、勝ちは自然に手に入る。こうした安堵と気の緩みが「九仞の功」を一瞬にして失う羽目となる。安全勝ちを目指すあまり、指し手が萎縮するからだ。対する相手は負けを覚悟し、眦を決してナリフリ構わず厳しく迫り、その気魄に押されるからでもあろう。勝ちを勝ち切ることの難しさが、将棋には確かに多い。相手が難敵であり、舞台が大きいほどに、その勝利の得難さと結果の大きさ、つまりは名誉と賞賛と富とが眼前にチラツキ、是が非でも勝ちたい、勝ちになってる、との思いに囚われ日頃の冷静さを失うのでもあろう。是もまた、人の根に蔵する弱さである。

  • 1月15日・金曜日。晴れ。早や一月も半ばとは…。

    さて、ヘボながら、私が将棋を指していてツクヅク思い知らされるのは、「マッタ」が許されない、つまり、取り返しができない事である。先を読むとは、無限の闇に向けて一条の光を照らす、そんな行為になぞらえられようか。それは名人もヘボも変わりはあるまい。ただヘボの場合、その一条の光は限りなくか細く、光にもならぬという違いがあるにすぎなかろう。しかし、その違いは絶対的、無限大のものであるのだが。

    ともあれ、そんな読みを頼りに、熟慮を重ね、それでもアレコレの不安をかこち、最後は「エイ、ヤッ!」とばかりに、清水の舞台から飛び降りる。それが決断である。だが、これが良かったか、悪かったかは相手次第の運頼み。しかし、それによって局面は動いて、場面は変わる。一手前までは確かに良かった局面が、一転、哀れ劣勢を呈することもしばしばだ。だが、もはや後戻りは出来ない。

    これはまさに人生そのものではなかろうか。たしかに、人生をやり直す事は不可能ではない。しかしそれは、間違えた人生を取り消すことではない。失敗を教訓に同じ轍を踏まぬよう決意し、人生を立て直す、そういう意味でしかない。

    将棋はそうした事情、機微を一手毎の決断のたびに教え、鍛え上げてくれる。改まった局面に対峙して、それが良かろうが、悪かろうが、これまでの経緯はどうあれ、只今現在、眼の前にある盤面に対して最善の道を探る他はないのである。それがいかに絶望的な場面であろうと、諦めてはならない。ヤケになってはならない。そこを踏ん張り、苦しみに耐え、闘志を維持し、戦い貫かなければならないのである。だが、そんな苦行を頼まれた分けでもないのに、人はなぜ自らノメリ込んで行くのだろうか。それこそ、将棋の持つ魔性の力と言っておこう。

    ところで、ここでの戦いは決して短いものではない。名人戦が二日に及ぶ消耗戦であるは周知のことだが、こんな長時間にわたって精密な思索と緊張を持続させるとは、いかなる訓練を要するのであろうか。むかし、灘 蓮照という棋士が大山康晴名人との戦いに臨んで鉄下駄を履き、足腰を鍛えた、との話が思い出される。現在の棋士たちもそれぞれに応じた克己と訓練の時間をお持ちのことと思う。将棋が格闘技と称せられる所以である。

    要するに、将棋は知力や精神力と共に体力を要する、全体的、総合的な能力、人格形成にも資するゲームである。普通「遊戯、競技、娯楽」等と訳されるこの言葉は、しかしここではもはや単なる「気晴らし・遊び」をこえた奥深い意味を帯び、灘 蓮照が日蓮宗の僧侶であった事が示すように、人生の秘儀、宗教的な意義に繋がる言葉として、私は受けとめたいのである。