• 11月27日・金曜日・晴れ。

    キョウは前回の続きの心算であったが、ジャパン・タイムズで面白い記事を読み、その印象を忘れないうちにと、扱ってみることにした。だがそれは、やがてはこれまでの文脈にキッチリ収まるはずで、そうならなきゃならないで無理にもツジツマを合わせて見せますから、まずはご心配なく。なにしろ我が42年に渡る研究生活(?)はそんな事の明け暮れであったもので、それだけは大いに自信が有る。

    くだんの記事は11月21日・土曜日、「ドンナ食べ物が健康的かは、君しだい」(Which foods are healthy depends on you)と題して掲載された。結論を先取りして言えば、ある人に健康的な食料が他の人には肥満をきたすなどあって、だから「万人向けの減量方式は基本的に間違いである」ということだ。こうした所見を引き出したのは、ヴァイツマン科学研究所(イスラエル)の研究者・エラン・シーガル氏である。

    事の起こりは、ある女性がトマトを食べる度に血糖値が上がるという事実からであった。ナント、一般に低脂肪の健康的な食物とされるトマトによって。この結果に触発され、800人のイスラエル人を対象に組織的な実験が始まる。そこで得られた結論は実に驚くべきものであった。つまり、同一の食事を摂りながら、それに対する反応はまさに千差万別。実験参加者は一週間丸まるをかけて、五分間ごとに血糖値を測定され、さらに排泄物の腸内微生物の分析、摂取物の入念な記録が取られた。私には、これは身を捩るような恥ずかしさと苦行であるが、皆さんはドウか。

    被験者の中には、糖尿病患者はいなかったものの、その予備軍と思しき者や肥満の人びとは含まれ、とくに彼らの間で見られる同じ食事に対する代謝対応の異なる様相にはいたく驚かされた。たとえば、アイスクリームより寿司で血糖値をあげる人、前記のトマトの事例等々である。これらは結局のところ、栄養摂取の問題は個々人によってその反応は全く異なると言うことである。こうした知見は、栄養学における「大きな欠落」(a big hole)を浮き上がらせた。

    血糖値の問題はいまさら言うまでもない。曰く。糖尿、肥満、眼圧、心臓病、他の合併症等の発症にいたると言う。それ故、野菜、果物、玄米を摂り、白糖や精白小麦粉は避けるなどが推奨されてもきた。しかし、今やこうした教えは必ずしも万能でないことが明らかになりつつあるようだ。シ-ガル氏の共著者エリナフ氏は言う。「この研究は、我々の生存に関わる最も基本的な考え方の一つについて、ナント不正確であったかを、我々に明らかにしてくれた」。これを踏まえて、何が言えるか。彼は言う。栄養面から、ただ低脂肪の食事を摂るべきだというのではなく、「もっと個々人にあった手法――個人を中心に置いたアプローチ」こそが人々の健康改善に役立つはずだ、と。そのためには、彼の体質や腸内微生物の確定、それらが摂取した食物にたいしてどう反応するか、などが個々に認識される必要があろう。これは「個人化された栄養治療」(tailor personalized nutirition therapy)と言われる様だが、こうした治療法は栄養学に限らず、抗がん剤や病院食もこれまで以上に個人化された方向をとっているようである。つまり、事は様々な分野で一層個別化されているようであり、そうなると一般化的な理論・法則の認識やその確立をめざす自然科学、経済理論のような学問の意味と役割はどうなるのかと言う問題に行き着くのである(本日はここまで。腰痛に苦しんだ割にはよく頑張った)。

  • 11月19日・木曜日。晴れのち曇り。

    今日もまた、「ホントの終わり」の続きをやろう。一週間、あれこれ考えていたら、前回の末尾で言ったことは、実は、この今や長くなった主題(わが学問論のつもり)の出発点、イハバ振り出しに戻ったことに気づいたからである。もう、これまでに何を言ったかすっかり忘れてしまって、繰り返しになるかもしれないが、研究の主題選択は、本来的に研究者の自立性に基づいてなされるものである。つまり、研究者はそれ以前に、自立した独立の人格であり、これを前提されている、と言うことである。ヴェーバーの学問論を多少とも齧った者として、これだけはハッキリさせておかなければならない。

    勿論、彼には指導者がいる。彼の未熟を補い、当該分野でのそれまでに達した人類の知的成果を教え、そうしてそこでの課題や今後の見込み等々を厳しく仕込む。こんなことは研究分野だけのことではないが、そうした基礎的な鍛錬を積んだ研究者は、その後は眼前に広がる無辺際の荒野を一人歩むことになる。只ただ、自分の意欲と能力、そして有るか無きかの幸運だけを頼りに。自然科学分野での共同研究や大型プロジェクトはいざ知らず、人文系、社会科学系の研究の多くはそうである。村上春樹氏は「書きたいものを、書きたいときに、自由に書く。これこそ作家の楽しみである」(『職業としての小説家』)といったように記憶するが、その心は研究者のそれと全く同じである。

    研究の動機は多様である。カネや名誉、義務から強制等々。森村誠一『悪魔の飽食』を読んでみられよ。細菌爆弾等の開発のために、石井四郎は満州においてそれは惨たらしい「悪魔」のような生体・人体実験の数々を行い、「飽食」を知らなかった。その成果は、アメリカの同種の研究に及んでいなかったようであるが、人体実験というその特異性のゆえに、GHQに接収され、この取引により彼は戦犯をまぬかれた。彼の学問的な水準がどの程度のものかは、私には不明だが、これもまた研究であるに違いない。かかる恐ろしい研究はこれに限らず、ナチスにもアメリカにもあって、それが戦争と言ってしまえばそれまでだが、これらを含めて研究と言えば、それを推進する研究者の動機は知的興味を越えた別の実践的、義務的、強制的な何物かへの奉仕であろう。しかし、そうした研究に豊饒性と未来があろうか(今日はこれまで)

  • 11月12日・木曜日。うす曇り。近頃は 街路で済ます 紅葉狩。

    前回、私の言いたかったことはこうだ。無意味な社会に生きるからこそ、人は自らそこに意味を与え、目標や志を立て、その事に励まされて積極的に生き抜く可能性を開くことが出来る。そこには何らの上下の差もない。何故か。絶対的な無意味を前にして、人は上下の基準、善悪の判断をどうつけるというのか。これこそドストエフスキーが言った、「神無くば、全ては正しい」の含意ではないだろうか。

    ならば、殺人、強盗、詐欺、カッパライ何でもイインダ、許される、などと間違ってはいけない。そんな事を考える人は、間違いなく監獄送りになるから気をつけたほうが宜しい。恐らくこれはかの『罪と罰』に触れる問題であろう。太宰も『人間失格』でこれを扱った。残念ながら、私にはいま両者の関係を論ずる用意はないが(と体裁のいいことを言うが、そんな用意が出来るときはまず無い)、罰とは社会、というより国家が決めた規範、法律、規則の違反者に対して執行される物理的、精神的な制裁である。そして、この法規範はしばしば社会正義、善悪の判断基準となるものである。しかしそれは社会制度を維持するための規定であり、それ故一つの便宜、手段にすぎないように見える。であれば、それは社会組織が消滅すれば、その瞬間に霧散する他はない。だからホッブスは自然状態(つまり国家のない状態)にある人間は、自らの生存の為に全てを為しうる権能を持つと言えたのである(『リバイアサン』)。こうみると、人間には「善悪」の判断をつける能力はないのではないか、と言ったトルストイの言葉も頷けるものがある(『戦争と平和』)。

    誤解を恐れず、ここで分かりやすい事例を挙げよう。売春である。現在でこそ、これは最も忌むべき所業とされているが、人類の歴史と共に在り続けている職業の一つである。どの時代、社会でもこれを正面きって称揚することはなかったが、さりとて根絶された社会を、私は知らない。それどころかある時代、社会では、単なる社会・経済的な政策手段として支持されたばかりか、文化的にもそれが認知されたケースもあったようだ(『売春の社会史』筑摩書房)。ここでは、売春の成立や存続の理由を問おうとするのではないから、この深追いは出来ないが、売春も法がイケナイといわない限り、悪にはならないと言う事を指摘しておきたいのである。もう30年以上も前になるが、ドイツに留学していた折、あちらの新聞で、パリの娼婦たちが職業の自由と権利を守れとばかりに、デモ行進したと知らされ、当時の日本では考えられなかっただけに、ある衝撃を受けたことが思い出される。つまり、売春も絶対悪として規定されてはいないのである。いや、出来ないのであろう。

    今回も私は、例のごとくに、妄言の世界に踏み迷ってしまった。と、ハタと気づくが、ともあれ通常言はれている是非善悪は、恐らく社会制度の維持、発展との絡みで云々されているだけのことでしかない。しかし、人は社会・国家の為に生きるにあらず、と私は言おう。というのも、こう考えることが、滅私奉公、忠君愛国ナンゾという怪しげな、そして今ではそれが転じて「社畜」なるお上にも、会社や組織にも都合のよい人間像の鋳造に行き着く危険があるからだ。また、これは個人の人格と個性を磨り潰す思考を持つ。政治学は、国家なる言葉にはコモンウェルス、つまり「市民の共同の福利」の達成を目指すことから「国家」に転じた系譜と、ステーツという国民を支配するための権力装置を意味する「国家」の系譜の二つの流れがあると教えるが、わが国の場合、後者の流れが今もって強い。こうなったには、プロイセン憲法をベースにして構成された明治憲法の精神、あるいは思考が、現在なお息づいているからではないだろうか。

    だが、ここで同じ事を、今一度言う。人は社会の為に非ず、自分自身のために生きるのである。国家は、そうした個々人の生き方を尊重し、それを支援し、そのために法を創り、行政を動かし、司法はそうした国家の営みを監視する。そのような意味で、コモンウェルスでなければならない。このような国家制度の枠組みの中にあって、個々人は独立人格として自らの生に向き合い、己の意欲、理想のもとその目標を打ちたて生を生き抜く。こうした人々の連帯、協力のある社会はどうであろうか。そこでならば、「このように生きよ」、との神や学問の指針を失った現代のニヒリズムも乗り越えて行けないであろうか(この項、ホントの終わり)。

  • 11月5日・木曜日・秋晴れ。

    これをごく簡単に言えば、「いわゆる評価の無い生は無意味か」ということである。そもそも、この世に生れ落ちた生は、今や時代からも、社会からも己が目的、使命を負わされていない。それは、時代や社会が目指すべき目的を持たないからである。社会事象はそれぞれの因果律に従って転変、変転して留まるところを知らない。ヴェーバーは言っている。「この社会は疲れることはあっても、飽きることはない」。急速に発達した科学技術がこの流れを加速する。そうした社会の中で、人々はさしあたり生きんがために、衣食住の確保に夢中になり、それこそ懸命に働かざるをえない。だが、その行方はしらない。社会の行方と同様に。かくて多くの人たちは、人生の意味を問う暇もなく、あるいはそれに煩わされることもなく、人生の黄昏へと引き渡されるのであろう。

    この生はまた、絶対的な孤独の内にある。共同体が解体され、そこから捥がれるようにして都会に引きずり出されてた人々は、見知らぬ人たちの海の中に投げ込まれるのである(都市生活者の比率は優に6、7割を越えるだろう)。デュルケームが「社会的アノミー」と呼んだのはこれである。かつては家族が人々を繋ぐ最後の役割を担ったが、今やそれも怪しい。人口数の減少する一方で、世帯数の増加がそれを証明しているからだ。つまりそれは、独り暮らしの単身家族(?)が増大した事を示しているのである。これに貧富の落差が加われば、我々が現在生きている社会の姿を垣間見られるだろう。

    このように、ただ単に因果の連鎖の社会の中で、人々は無目的に右往左往する生き様を(勿論、目の前にぶら下げられた目標や課題に取り組まざるを得ないことは、言うまでもないが)ニヒリズムと呼ばずして何と言おう。しかし、人とはそんな具合にして生きられるものなのだろうか。自分の生は、ただ無意味に日々を投げ出すようにして送るだけなのだ。こう達観して過ごせるものなのだろうか。このように人生を徹底的に無意味化して、生き抜く人はいかにも勁い人だと思う。

    しかし、多くはそうは行かないのではないか。たしかジッドは『知の糧』か『新しき糧』で言っている。生が無意味であればこそ、自らその生に意味を付与し、目標を与え、それを生きる、と。ヴェーバーはそうした人をこそ「文化人」と呼んだと思うが、いずれもニーチェを突き抜けて行き着いた答えではないか。これは確かに、知的な精神の応答であって、凡人のよくなしうるところではないようにみえる。だから、人はその孤独と日々の重圧に打ちひしがれているようなときに、スッと寄り添って悩みを共有してくれているかに見える、怪しげな宗教団体に取りこまれてしまうのかも知れない。しかし、それでも私は言いたい。人は誰でもその人なりのやり方で、自身の生を意味づけ、それに得心することが出来るであろう。むしろ、自ら立てた目標、志が己を励まし、駆り立て、その人生を活き活きと生き抜く事を、可能にするのだと思う。大事なことは、そのように生きる人々をそのものとして受容できる社会の広さではないか。人を区分けし、上下をつけ、挙句は排除するような社会では、恐らく誰にとっても生きやすい社会にはなるまい。それは、人間関係をガチガチに囲い込むのではなく、個々人の個性を受け入れ、柔らかく繋がりあう社会である。こんなささくれ立った社会であればこそ、必要な社会のあり方だと思うが、それもまた見果てぬユートピアなのであろうか(おわり)。

  • 10月29日・木曜日・曇り。神無月も終わり、やがて霜月。

    これまで人生上の意味と言ってきたが、そもそもこれは、一体どう解したらよいのだろう。「意味」とは、広辞苑によれば、1、言葉、文章によって表される内容、意義であり、2、言語・作品・行為などの表現を通して表される表現のねらい、3、他の事物との関連において持つ価値や重要性、とある。このほか、意味論という哲学的な意味の論題があるが、そんなことは私にはとても扱えないから、それはやめる。

    ともあれ、ここでは広辞苑の語釈に従って、人生の意味なるものを考えようとすれば、さし当りこんな風に言えようか。「彼の人生は、役所勤めの50年の間、定時から定時まで決められた仕事を間違いなくこなし、家族を養い、そこそこの蓄えを残して終わった。人に迷惑をかけることも無かったが、さりとて社会に対し是と言える貢献をしたわけでもない」。こうして彼の人生の内容や他との関わりが示されようが、その評価となると中々難しい。それは評者の人生観にかかわるからだ。モームなら、何らの評価もせずに、これもまた一枚の「ペルシャ絨毯」だといって済ますだろう。そしてそこに、彼の興味をそそる人間的な何かが見出されれば、作品化されただろう。

    ただ一般に言われる意味ある人生とは、社会や時代にたいする貢献が基準であるに違いない。だが、この領域は無限である。政治・経済・学術・技術・娯楽ほか生活上のあらゆる分野に及ぼうが、いずれにせよ成された成果が量的・質的に広大であるほど、意味深いものとして評価されよう。その頂点にノーベル賞はじめとする、世界的、国家的な諸賞から各種団体の賞にいたるまで続くのでる。勿論、そうした営み、或いは制度それ自体は非難されるべき謂れはなにもない。むしろ評価し、賞賛されてしかるべきだ。必死に努力し、人類や社会の福祉に偉大な、あるいはそれなりの貢献をなした人々が全うに評価されるのは当然のことでもある。

    ただ、問題はここから生ずる。そうした事とは一切無縁な生、これを送る人たちの人生である。上記のような価値基準が強固になりすぎ、それを称揚する社会や組織体では(経済的価値とも結びついて)、そうした生は、何か意味の薄い、あまり面白くないものとして脇に追いやられかねないのではないか。それ以上に、両者の間に人間としての価値の序列がついたらどうか。最近の心理学の成果によれば、自身の人生の意味喪失、同じことだが自己価値の欠落が路上殺人や了解不能な殺人事件の発生と無縁でないとも報告されている。己の生が無価値だと言う事は、他者の生に対する尊重も無くなるからであろう。あるいは、他者の殺害を通して自らの強さ、存在価値を実感されるという事らしい。

    しかし、私はまたわき道にそれてしまった。言いたかったことは、別の事である。上記の生の意味とは、対社会との関わりでのことであった。社会貢献との関係で考えることは、この場合とても分かりやすいからでもあった。だがこうした生とは全く別様の生き方もある。それが当人の意図の結果か否かに関わらず。しかしこの場合の生も、日々を過ごすことであり、時間と一体であることは間違いない。50年という時間を無為にやり過ごせる人はいない。芥川は言っている。「人生は短い。ただ何もしないでは、長すぎる」(『侏儒の言葉』より)。つまり、人はこの与えられた、或いは負わされた、かなり長い時間をやり過ごす為に、何事かに取り掛かる他はない。そのようにして無聊を逃れ、慰めて、もっとも厄介な問い、「人は何のために生きるのか」を忘れ去るのである(モンテニュー「気晴らし」)。

    このような次元で考えられた生の意味とは何か(今日はここまで)。