2015年10月29日

10月29日・木曜日・曇り。神無月も終わり、やがて霜月。

これまで人生上の意味と言ってきたが、そもそもこれは、一体どう解したらよいのだろう。「意味」とは、広辞苑によれば、1、言葉、文章によって表される内容、意義であり、2、言語・作品・行為などの表現を通して表される表現のねらい、3、他の事物との関連において持つ価値や重要性、とある。このほか、意味論という哲学的な意味の論題があるが、そんなことは私にはとても扱えないから、それはやめる。

ともあれ、ここでは広辞苑の語釈に従って、人生の意味なるものを考えようとすれば、さし当りこんな風に言えようか。「彼の人生は、役所勤めの50年の間、定時から定時まで決められた仕事を間違いなくこなし、家族を養い、そこそこの蓄えを残して終わった。人に迷惑をかけることも無かったが、さりとて社会に対し是と言える貢献をしたわけでもない」。こうして彼の人生の内容や他との関わりが示されようが、その評価となると中々難しい。それは評者の人生観にかかわるからだ。モームなら、何らの評価もせずに、これもまた一枚の「ペルシャ絨毯」だといって済ますだろう。そしてそこに、彼の興味をそそる人間的な何かが見出されれば、作品化されただろう。

ただ一般に言われる意味ある人生とは、社会や時代にたいする貢献が基準であるに違いない。だが、この領域は無限である。政治・経済・学術・技術・娯楽ほか生活上のあらゆる分野に及ぼうが、いずれにせよ成された成果が量的・質的に広大であるほど、意味深いものとして評価されよう。その頂点にノーベル賞はじめとする、世界的、国家的な諸賞から各種団体の賞にいたるまで続くのでる。勿論、そうした営み、或いは制度それ自体は非難されるべき謂れはなにもない。むしろ評価し、賞賛されてしかるべきだ。必死に努力し、人類や社会の福祉に偉大な、あるいはそれなりの貢献をなした人々が全うに評価されるのは当然のことでもある。

ただ、問題はここから生ずる。そうした事とは一切無縁な生、これを送る人たちの人生である。上記のような価値基準が強固になりすぎ、それを称揚する社会や組織体では(経済的価値とも結びついて)、そうした生は、何か意味の薄い、あまり面白くないものとして脇に追いやられかねないのではないか。それ以上に、両者の間に人間としての価値の序列がついたらどうか。最近の心理学の成果によれば、自身の人生の意味喪失、同じことだが自己価値の欠落が路上殺人や了解不能な殺人事件の発生と無縁でないとも報告されている。己の生が無価値だと言う事は、他者の生に対する尊重も無くなるからであろう。あるいは、他者の殺害を通して自らの強さ、存在価値を実感されるという事らしい。

しかし、私はまたわき道にそれてしまった。言いたかったことは、別の事である。上記の生の意味とは、対社会との関わりでのことであった。社会貢献との関係で考えることは、この場合とても分かりやすいからでもあった。だがこうした生とは全く別様の生き方もある。それが当人の意図の結果か否かに関わらず。しかしこの場合の生も、日々を過ごすことであり、時間と一体であることは間違いない。50年という時間を無為にやり過ごせる人はいない。芥川は言っている。「人生は短い。ただ何もしないでは、長すぎる」(『侏儒の言葉』より)。つまり、人はこの与えられた、或いは負わされた、かなり長い時間をやり過ごす為に、何事かに取り掛かる他はない。そのようにして無聊を逃れ、慰めて、もっとも厄介な問い、「人は何のために生きるのか」を忘れ去るのである(モンテニュー「気晴らし」)。

このような次元で考えられた生の意味とは何か(今日はここまで)。


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