2016年2月5日

2月5日・金曜日。晴れ。昨日、立春。日差しやや強まり、寒さ和らぐ。

本日は、老人問題なるものを、私を材料に考えてみよう。現在、65歳以上の高齢者の占める人口比率はほぼ25、6パーセント、2030年頃には3割に達すると言われ、これ等を受け、今後は益々年金、医療その他の老人用の経費とその負担増は避けられない等、なにかと喧しい。老人とは、それほどにまで社会の荷物であるとなれば、今年73歳になる私としても、何か社会に対して相すまぬような、肩身の狭い思いがしないでもない。

先ず、老人とはいかなる存在であろうか。最初にくるのは、年齢、歳である。それが全て、と言ってもよい位だ。わが手元には、「健康保険高齢受給者証」なる保険証がある。このように社会、ここでは国家は、ある年齢以上の人間を、その属性、特性、資質その他全てを切り捨て一律に、「貴方は高齢者ですよ」と徴表(メルクマール)を貼り付け、それに見合った扱いをしてくれる。それは人によっては迷惑千万な押し付けになるかもしれないが、私には悪いものではない。疲れたときに座席を譲られ、大手を振って「優先席」に座れるのは、自分が大事にされているような気分にもなれる。過日の新聞で、座席を譲った老人からエラク怒鳴られた、と嘆く一高校生の投書と読者の様々な反応を読んだが、私も多くの読者同様、可哀相な目にあわせたとの印象である。「老人道を踏み外した奴メ」と言っておこう。

「年齢」には、実に多様で決定的な意味が込められ、ジッと考えると、それは驚くばかりである(かつては「性差」もそれに近い意味があったように思うが、現在はそれほどではないだろう)。年齢の進行と共に担う役割、責任、義務の増大と自由の拡大など、上げればキリはない。勿論、その「年齢」の背後に、知力、体力、精神力その他能力の発育、成長が想定されているからこそのことである。そして、それらの能力は先ずは教育制度の中で切れ目無く、多様で精密な試験を通じて測られ、ランク付けされ、社会に出てからは、各人は夫々の組織において最後の計測がなされるであろう。

「老人」とは、そのような社会の枠組みから、ある日突然、解放される、と言えば聞こえはイイが、追放された人々、と言ってみたくなるような面があるように見える。つまり、ある年齢以上に達した人は、普通、統計的に見て、その組織(それはまた、社会)の求める能力を失った、それ故そこに留まる資格を欠いた人とみなして、そこから制度的に(という事は強制的に)お引取り願うことになる。

こんな風に、イジワルク、多少戯画的に描いてみたが、しかし自分をこれに即して測ってみれば、それほど的外れだとも思えない。若い頃に比べれば、無理は利かず、体力、精神力、忍耐力の減退はやはり認めざるをえない。キレ易い老人を随分見てきた経験から、「俺は、アアは成るまい」と決意した私だが、先人の轍をチャンと歩んでいるではないか。

このように見ると、老人とは、確かにある無能力者に近づいていく者であると言えるが、しかしそれも千差万別である事は、全ての人の知るところである。ある人の言葉を思い出す。「赤ん坊はみな同じ顔であるが、老人はみな違う。しかし、死に近づいた人の顔はまた同じになる」。五十歳を超えると、生活の履歴が全て顔に出る、とも聞かされた。それも良く分かる。だが、それまで培われた能力が、年齢と共に、より磨きをかけられ、輝きを増し、体力は失われても、知性、洞察力の深みに驚嘆させられた事も多い。

私が子供の頃にみた七、八十歳の老人に比べた今の人たちの達者な事と言ったら、雲泥の差である。住環境、食事、医療等々の恩恵を受けての事であるが、確かに老人人口の比率の上昇、それによる病人、介護等の負担の増大は無視し得ないにしても、それ以上に元気で、青年にも劣らぬ清新さと経験知に裏付けされた洞察力をもった「老人」達の多い事も事実である。こうした人々を多様な場に用い、若者たちと共に働き、活躍できる社会造りが必要だと思う。折りしも、安倍総理は「一億総活躍社会」の建設を歌っているところでもある。これが、単に老人達にハッパをかけ、介護や病院治療費の削減を目指す、ソンナ意図に発したものでない事を、心より願うばかりだ。


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