• 3月11日・月曜日。晴れ。温暖化を恐れる当方だが、この1週間の寒さは、チョイと堪えた。実に勝手なものだと、認める。暖冬は怪しからんと言いながら、少々寒気が募れば、音を上げるナンザ、覚悟が足りない。 
    本日の論題は、3/1(金)の続きである。
    3月18日・月曜日。晴れ。強風しきりである。
    2/20頃から読み始めた『平家物語』第一分冊、3/16(土)にようやく読了。原文、訳文、語釈、解説をたどりながら再度原文に戻って、ようやく理解したような気になり、次の段落に進むという蝸牛の歩みである。こうした難行は、難解なドイツ語文献を前にして散々味わったことだが、久しぶりのことゆえ、少々堪えた。それにしても、節度を逸した清盛の権力行使、自身や一族の栄達、周囲からの嫉妬、恨みの蓄積の状況が、劇的な構成と語りによって迫る一歩一歩は迫力がある。それはまた、何故かプーチン、習近平他権力者たちの顔に重なる。だが、ほんの一時の栄華に溺れ、「盛者必滅の理」を忘れてはならない。

    ドバイは、現在、地球上で最も輝く都市の一つであろう。世界一の高さを誇るカリフ・タワー(828m)の下に広がる都市景観は、見るものを圧倒してやまない。しかもその都市建設に要した期間は、高々五十年間でしかなかったというのである。この短期間に投入されたエネルギー、資金量はどれほどのものであったろうか。
    アラブ首長国連邦を構成する首長国の一員であるドバイは、ペルシャ湾に面し、国土は砂漠に覆われ、住民のほとんどは首都に押し込められるような暮らしを強いられた。20世紀初頭の当市は、漁業や金の密貿易に手を染めながら、主として真珠の商いを中心とする貿易港として近隣地域の商人を引き寄せ、それなりの賑わいを見せていたが、今日を予想させるような都市への展望は、その片鱗すらなかった。しかも、1950年代には日本の養殖真珠に押されて衰退さえしていくのである。
    だが、‘66年に石油を掘り当てたことから、今日の発展への道を一気に開く。数々の近代的な港を築港してハブ港の地位を獲得し、縦横にはしるクリーク(運河)の拡張や整備に努め、貿易センターの建設はじめとする商業施設や観光事業の充実を果たして、突如、壮大な都市空間を砂上に浮上させたのであった。その偉容は、まさに「近代の奇跡」そのものであった。
    こうした土木工学、技術力を背景に、ドバイは砂漠都市にとっては「ワンダーランド」と言う他はない広大な「淡水世界」を現出したのである。ニューヨークタイムズ(9/21‘23)は言っている。「観光客らは世界最深のプールでスキューバーダイブ、あるいは巨大なモールでスキーを楽しみ、しかもそのモール内ではペンギンたちが今作られた雪の中で遊んでいるのである。ある噴水―世界最大と銘うたれている―からは数千ガロンの淡水が空中に噴霧されるが、それは周囲のスピーカーから奏でる音楽に合わせたディスプレイともなっているのである」。ここを訪れる人々の嘆声、幸福感が直に伝わるようではないか。
    しかし、である。ドバイにはそれほど多量で新鮮な淡水が在るわけではなく、水と言えば海水に頼る他はない。つまり、急速に膨張する都市を支え、上記の奇跡を可能にするには、海水の淡水化を可能にする技術の開発と巨大化を達成する必要があった。だが、その淡水化には様々化学物質が使用され、その廃液(brine・訳語では塩水とある)は海に還り、塩分濃度を高めてペルシャ湾の環境を損なう。それは同時に、「沿岸の海水温度を高め、生物多様性、魚類、沿岸のコミュニティを損なう」ような代物であった(以下次回)。

  • 3月4日・月曜日。晴れ。
    本日は、「承前」のつもりが、いつの間に下記のような主題となった。また、話が断絶してしまった。

    過日の政倫審での岸田首相はじめ各政治家の弁明は、要するに自分には問われるべき責任は何もないと言ったにすぎない。ならば、この不祥事は誰によって引き起こされたのか。ただ、派閥事務方の会計責任者のみの失態だとでも言いたいのだろうか。いずれにせよ、彼らはこれをもって、国民には十分説明責任は果たした、と本気で思っているらしいのだが、そうした感覚が、筆者にはどうにも解せない。
    百歩譲って、彼らの話がその通りであったとしよう。数億という裏金問題を生みながら、それを察知できないまま何年間も放置してきた、誠に迂闊な派閥最高責任者が、閣僚として、国家の何兆にも及ぶ大事業を過たずに完遂できるのだろうか。その裏には、いかなる不正、過誤が潜んでいるのか、知れたものではない。
    それ以上に暗澹とするのは、糺すべき不正を放置したばかりか、それを利用してきた政治家たちが、国民の注視する目の前で、その全てを平然と部下に擦り付けて愧じないその姿である。正視に耐えない無残な場面であった。ここには廉恥心のかけらもない。こうした人間が国民の代表として、付託された権力をほしいままに牛耳り、政治資金規正法なる法律も政治家には害の及ばぬよう、知恵の限りを絞って骨抜きにし、それすら守らず、守れず、巧妙に逃げ切る仕組みを造ったのである。そのお蔭をもって、検察も彼らを無罪放免としたのであった。だから彼らは言い放った。「検察の厳正な捜査もと、自分にはいかなる不正もなかったことが明らかとなった」。
    「悪夢のような民主党政権」とは、故安倍元総理の口癖であったが、この20年来の日本社会の経済、社会の停滞と悲惨は、自公政権の結果ではなかったか。こんな政治が、今後まだ何年続くのだろう。筆者の憂鬱は、政治家たちには様々な特権が幾重にも与えれながら、各地域には日々の食事に事欠き、子ども食堂に押し寄せる児童が多いという、そうした報道に接することである。このような子どもたちの多くは、学校での給食が最大の栄養源だというのである。しかも、彼らの命綱でもある子ども食堂の経営が、しばしば困難を来しているとも聞く。この落差を、我われはどう受け止めるべきなのだろう。

  • 2月26日・月曜日。晴れ。日差しはあるが、寒風強く、体感温度は低い。
    一週間前から、『平家物語』(一)(杉本圭三郎・講談社学術文庫・2017・全四冊)を読み始め、ようやく二百頁ほど進む。原文、現代語訳、語釈、解説がふされ、原文の何倍にも膨れ上がり、各冊七百頁ほどになる。いつか読もうと、大分前に購入したものだが、今挑戦しなければ手遅れになると手を付けたはいいが、文字が小さく老眼鏡が役に立たない。やむなく裸眼で読んでいるが、かなり辛い。解説がなければとても読めない。だがその労苦をしのぐ面白さがある。願わくは、命ながらえ、我が眼球の保たれんことを。平家の人々と共に神仏に祈る。
    3月1日・金曜日。晴れ。昨日の朝日夕刊に、オホーツクの流氷、知床半島羅臼に接岸す、とあった。その光景は例年通りながら、流氷の面積はこの30年で3割縮小し、氷質も劣化しているようだ。それによる周辺海域も少なからぬ影響を免れない。これもまた温暖化の故と言う。

    承前。前回の文章に手を入れつつ、読み直してみたが、大いに不満である。言いたいことが書けていない。文章から浮かぶ映像がぼやけている。脳の働きが、最近、さらに鈍ってきたらしい。ならば、抹消すべきだが、一度表に出したものは、そうはいかない。これをわが現実として受け入れ、先を進めよう。といって、こんなものを読まされる読者には申し訳ないと、先に謝っておこう。
    前回の筆者の言い分は、もはや危機的ですらある温暖化に対して、自治体はまず地域の緑化を進めるべきである。と言うのも、それが取りあえず最も効果的であり、費用対効果も高いと信ずるからである。樹陰、水蒸気の発散、酸素の供給は言うに及ばず、大地の保護から多様な生物の育成など、樹木のもたらす恩恵は計り知れない。だがそのためには、街の作り方を根本的に変えなければならない。経済成長との衝突も覚悟せねばならないはずだ。それは結局、成長を止めて温暖化を阻止するか否か、という国民の温暖化に対する対峙の仕方、覚悟の問題に帰着するだろう。これは明日の国造りの問題であり、こうして国と自治体は、一続きに繋がっているのである。
    温暖化の進行について、我われはこれまで多様で深刻な兆候をいやと言うほど見せつけられていながら、政治や行政が本気になって対応すると言う話を聞いたことがない。これらに対する危機意識がまったく欠落しているからなのだろう。Co2排出を抑えた経済発展によって、この問題は自動的に解決される。そのために、自動車のEV化、原発稼働や自然エネルギーの推進等が叫ばれているのだろう。だが、こんなことで、ただ今現在直面している温暖化問題に対応できると考えるほど、事は容易ではないと言うのが、当方の主張なのである。
    だが以上は、日本だけの問題では無い。世界の潮流でもある(ただし、一部のヨーロッパ人の危機意識はより尖鋭である)。先進諸国の政治家たちは、一様に「持続可能な経済発展」(だが成長主義は、結局は環境破壊とセットではないのかという主張が、最近、何人かの経済学者や環境論者から説かれている)やら成長神話から決別できていないからである。と言うより、彼らにこれを望むのは、現在の政治制度の下では、不可能なのかもしれない。「環境維持や将来世代のために、成長戦略を止める」と言ったとたんに、彼は落選する他はないからだ。3~4年の任期を重ねて勝ち抜いていくために、常に眼前の利益を追求せざるを得ないが、環境問題は長期的な視座を必要とする。これは、しばしば今日明日の利益の犠牲を強いるだろう。このことは、米国の銃規制の挫折の歴史に重なるように思う。銃社会の危険性は十分わかっていながら、規制は自らの失業、貧困を思えば、反対せざるを得ないという分けである(過日の報道で、トランプは公言していた。再選されれば、バイデンが取ってきた銃規制は、全て撤廃する、と。その政治的な意味は言うまでもない)。
    我われ人類は、つまるところ、それが可能であれば、いつでも目の前にある快適さを求めてやまない存在なのかもしれず(ここには勿論、筆者もその一人である)、そうした果てしない強欲の追及にきりきり舞いさせられなければ止まないものなのだろうか。その結果が、地球の陸、海、空の全面を覆う荒涼とした破壊をもたらしているにしてもである(過日(2/25)のニューヨークタイムズには、またもや温暖化により、欧米ではこれまで見られなかったデング熱の発症が拡大しているとの報があった)。
    以下の記事は、こうした我われの救いがたい欲望の凄まじさと、それが周囲の環境に及ぼす破壊力を具体的に示した実に衝撃的な事例である。題して「ドゥバイの高価な淡水世界」、「豪勢な観光アトラクション、ペルシャ湾の自然資源痛撃」(ニューヨークタイムズ、’23,11/23)である(以下次回)。

  • 2月16日・金曜日。晴れ。
    2月21日・水曜日。雨。昨日の暑さ一転し、本日、冬日と言う。いまだ2月、当然である。昨日が狂っていたのだ。

    都庁による神宮外苑の街路樹伐採問題以来、ビッグモーター社の同事件が取りざたされ、街路樹への関心が高まったようである。『朝日』は早速、「街路樹のこと」(上・下)として取り上げ(’23,11/2、11/4)、その有用性として「温暖化対策・生物多様性の保全・防災」や住民の健康維持の他にも、多様な機能を特記している。ここには確かに「落ち葉・ふん害・交通に影響」など費用や迷惑な面も多々あろうが、それを補う大きな「効果」を認めているのである。にも拘らず、全国的に樹木は「20年で50万本」ほど消失したと言う。それは街路樹の持つ「価値」に対する自治体や住民の無理解にあるようだ。
    だが、例えば府中市、国立市、武蔵境駅周辺の樹々に縁どられた街の佇まいには、ただの通りすがりの者にとってもある安らぎを与えられるが、そこに生活する住民の多くにとっては掛け替えのないものではないだろうか。行政が、街路樹など不要だと言う声に対して、これを力ずくで抑えることは出来まいが、と言って「ハイ、分かりました」とばかりに「潤いがある町が、無味乾燥な空間」になっても困る。そうしたやり取りを、粘り強く、また無理なくこなしていくのが、行政の腕の見せどころではないかと思う。かつてここでも取り上げた金沢市の「まちづくり」はその一例である(山出 保『まちづくり都市金沢』・岩波新書・2018)。
    筆者がここでこれを取り上げるのは、現在、我われは温暖化問題を目の前に突きつけられているからである。これにたいする対策は、国と自治体では異なるのは当然だが、特に自治体は国からの指令を待つのではなく、地域を最もよく知る主体として、自らなしうる対策を積極的に推進することだ。まずは広がりすぎた地域を身の丈に合った区域に縮小し、治水や緑化政策を進め、道路等のコンクリート、アスファルト舗装を土に戻すことだろう。そのためには、広域行政からの転換であり、政治家の勲章でしかない箱もの政策からの決別である。こうした取り組みは、外信によれば、温暖化対策として、すでに世界の先進的な中小都市でなされているようである。人口縮小に喘ぐ地方自治体にとっては、自らの地域の縮小は不可欠であろう。それは、すでに拡大した上下水道施設の維持だけでも命取りになっていることからも明らかである。再び言う。温暖化に向けて自治体には為すべきことは多くあるはずであり、その第一歩として、樹木伐採は野蛮行為だと、強く批判したい(以下次回)。

  • 2月2日・金曜日。曇り。明日、節分。この時期、この程度の寒さでは、今夏の熱暑が思いやられる

    承前。最後に、この種の問題が起こるたびに、不思議な話だ、と思わされる点について一言したい。不祥事に見舞われた政治家は、常にと言ってよいほどに、自分は知らなかった、秘書や会計責任者が勝手にやったと言い切り、その事を愧じない。確かに、自分の仕える政治家の虎の威を借り、勝手なことをし、様々な利益を欲しいままにする秘書や支援者はいるだろう。その場合には、政治家はそんな人間を使った己が不明を恥じると共に、断固司法に訴え、処罰すべきである。だが、そんな話は聞いたことがない。むしろ、温情的に処理するが、厳しく出て、政治家自身の不正が、逆に表に出るのを防ぐためではないのかと、勘繰りたくなる。
    だが、圧倒的に多いのは、政治家自身が秘書に強要して引き起こす、特にカネ絡みの不祥事ではないか。しかし、彼らは鉄面皮にも、lawmaker(立法者)としての権限をここぞとばかりに振り回し、不正が立件できないような法的仕組みをでっち上げては、逃げ込み用の穴倉まで準備する。国民にはついぞ払ったことのない用意周到ぶりには恐れ入る(しかも、この度ハッキリしたことだが、そのように自分たちに都合のいいように作った政治資金規正法だが、それすら彼らは守らなかったことを、国民はどう理解したら良いのだろう)。そして言う。「自分は知らなかった、検察から告訴もされていない。だから、不正はない。むしろ秘書が…」。
    この場合の政治家の心情は、こうであろう。法に触れさえしなければ、何をしても構わない。こうして脱法すれすれの行為に走るが、ここには当該の法が目指した立法の精神に対する敬意、尊敬はまるで欠落している。だがこれは、ヤクザ、詐欺師らが法に触れないように、慎重に仕事をするのとどう違うのであろうか。しかも彼らは、公人なのである。
    それ以上に許しがたい思いに駆られるのは、彼らが恥ずかしげもなく、秘書や会計責任者が勝手にやったことで、自分は知らなかった、と平然と言ってのけられるその精神、心持ちである。そうして、一切合切の責任と罪を、自分の部下に押し付けてしまう。これを恥知らずと言わずして、何と言うべきか。知らなかったことは、すでに彼の落ち度に他ならず、自らの無能を晒していることも分からないのだ。それ以上に、昨日までの自身の半身とも言うべき、掛け替えのない人間を、いとも容易に切って捨てられる彼らの冷酷、非情、身勝手さに唖然とさせられもする。
    こうした政治家は、彼らが切り捨てた人たちにも彼自身の名誉があり、また彼らの家族がいることを、どこまで配慮し、その事を深刻に考えているのだろうか。そこにはそれなりの論理と手当てがあって、そうした犠牲者が被る被害はそれ相応に償われるのだろうか。時に、自殺にまで追い込まれるとすれば、それはもう筆者が若いころ散々読んだ松本清張の世界そのものであろう。清張は、権力や組織が自らの存続のために、その悪事、不都合の一切を弱い個人になすり付けて逃げ込むさまを、執拗に告発して、倦むところがなかった。彼からすれば、人は誰でも幸せに生きる権利があり、それはどこまでも守られなければならない。いかなる権力、組織と言えども、自身の存続のために人間を都合よく利用し、犠牲にし、奉仕させることなどあってはならないからである(この項、終わり)。