• わがパソコンの腕前は、一向にはかどらない。それも道理。一週おきに休んでいては、進歩の仕様がないではないか?しかも、週に一度の二時間足らず、ときたモンだ。これではまるで、どっかの大学の英語の授業のようなものだ。週に一度、大先生が選んだテキストの2、3頁ほどの分量を、指名された4、5名の学生が後生大事に、数行ずつ訳させられる。こうして学期は終わる。クラスに4、50名いるとして、学期の間に各人が読んだ量は、ナント、10行たらず・・? かくて立派な大学生並みの語学力がつくというわけだ。モチロン、教授がわにも、それなりの理屈はあって、チャンと理論武装はされている。学生たる者、自ら学ぶべし。仮にも、人からの教えを乞うべからず。ジャア、彼らは何のために教授先生としているのだ?決まっている。いなければ、メシがくえん。言っておくが、これは断じて、わが前職の大学のことではない。

    今日もまた脱線。こんなことを書くつもりはまるでなかった。前回の続きのはずであった。何もかも満ち足りたこの時代にあって、だれでも皆、安直に、苦労もなく、すべてのことが手に入れば、人はいつ、ドンナ風に己の心を鍛えればよいか?であった。ノッピキナラナイ、逃れられない他者との我儘に付き合わされる悲劇に出会って、人は泣く泣く成長するのだろう。シンドイといえば、シンドイ話だ。

    だがしかし、である。こんな仕組みが成り立つとすれば、たとえば上司の我儘もある規範の中に納まり、受け手もそれを良しとする、そんな範囲があるのではないのか?何事も瞬時に、易々とできるように見える時代では、ダーレモ心が練れていないわけだから、上司もまた、則を超えた要求、我儘を押し付け、部下を必要以上に苦しめることになりかねない。これでは人は成長どころの話ではない。かえって,折角の人材を壊してしまう。いや、これらはすべて、これまでのわが行状にたいする心かなる反省である。

  • 5月21日・水曜。このところ、水曜のたびに雨が降る。時に、雨は恵み、慈雨ともなるが、これを受けるこちらの気分次第で、印象はまるで反対だ。何事もそんな具合に、心の動き、気の向くままに、同じ事柄が晴れたり、曇ったり、あるいは青になったり、赤になったりされては、天気は何とも思うまいが、それに付き合わされる周りはタマッタものではあるまい。とくに、相手が上司であったり、得意先やら、はたまた、アアソウカイ、ソレデハサヨナラ、ゴキゲンヨウ、ってな具合に行かない相手であれば、なをのこと始末が悪い。だがものは考えよう。そんな相手を持てばこそ、人は成長するもの。昔の人は言っている。若い時の苦労は金を払っても、負え、と。
    この言には、一理ある。今の若いモンは、と殊更にエラソウナ事を言うわけではない。その心算もない。いつの時代も、若者は年寄りたちからあれこれ言われるのが通り相場だ。それを言う年寄りたちも、変わりはなかった。むしろ、ここで私が言いたいことは、こうだ。現代は、何事も安直に手に入り、我慢がない。その必要もない。他人の持っているものは、なんでも欲しがり、それが無ければ、何かとてつもないものを失ったかのような喪失感に苛まれ、さらには自分の劣等性を突き付けられたような悲壮感を持つ。それでいて、部屋には入りきらないほどのものであふれている。これを何と表現すべきだろう?・・確か、誰かが言っていた。「豊富の中の貧困」。そして、そんな心情は、老若を問わぬ。己れ自身の心の鍛錬。別けても老人のそれこそが、問題だ。私はこの年になって、つくずく思う。私は熟していない。若いといえば、聞こえはいいが、要するにそれは未熟ということ
    だ(次回に続く)。

  • 5月14日・水曜日。二週間ぶりにパソコンにむかう。三回の訓練の成果は灰燼に帰する。嗚呼!ナンタルことか。何となく手におぼえた感触は、ほとんど消え失せ、ホトンド初めからやり直しだ。それにしても、世の人々はエライ。こんな機械?を、いとも簡単に操り、まるで手足のごとし。いろんなキーが無限にあり、その一いちがその役割を持ち、それらのすべてを覚えているらしいのだ。のみならず、これを駆使して、何事かを言わんとす。いや、これはもう立派というほかはない。
    私とて、複雑なことがまるで出来ないわけではない。何しろ、自慢じゃないが、これでも日本将棋連盟から四段位の免許を允許されている身だ。こんなパソコンごときにオタオタしてたまるか。とは言え、である。F1からF12まで並んだキー諸君、insertやらHomeやらそのほかゴタゴタと立て込んでおるが、君たちは一体なんなんだ。書いたと思えば、分けのわからんことを打ち出してくる!俺はソンナ事を言わんとしているのではない。オマイはワイをおちょくっとるんか?という次第である。
    が、マア、意に染まらぬものほど、可愛い、ということもある。猫好きはかの我儘が無性に愛おしいらしく、内田百間は家出の猫に、身も世もあらず懊悩の極みに落ちた。私には、理解を超えたことではあるが、彼の心はこのパソコンの手習いをとうして何となく分かる。本日はこれまで。

  • 本日をもって退職一カ月とはなった。「毎日が日曜日なる結構な日々」とは聞かされていたが、このひと月はなにやかや、早々のうちに過ぎてしまった。といって、これまでのわが生活の中に、長い休日のつづく日々がなかったわけではない。我が前職は教職であり、ほぼ二月の夏休みにくわえて、年末や春にもそこそこの休みが取れる。その限りでは、けっこうなショウバイであったのだ。だからこの程度の休みに、別段の感謝を捧げるにもおよぶまい。もっとも、ここで急いで付け加えておくベきは、その休暇中をただ無為に過ごしている訳ではないと言うことだ。今月ですら、それなりの読書とアヤシゲナ思索の時を過ごし、せめてボケ防止の努力ぐらいはしたつもりだからだ?
    その読書について、一言。ユーゴー作『レ・ミゼラブル』(1862)(豊島与志雄訳岩波文庫)全四冊2400頁の大冊に挑む。優に1ヶ月を要す。すでに筋も中身も知ってはいたが、それは誰でも知っている!だがである。そこで展開される歴史絵巻、社会哲学、宗教、法律と処罰、社会的正義、王政と共和政、暴動と革命等などが、利己的幸福の追及と道徳心、宗教的真理との葛藤を主題とする物語の進展とのなかでどう織りなされているか。これらをどれだけの人たちが味わったであろう?世には、有名なれど読まれぬ本はいくらでもある。かく言う私もしかり。知ってはいても、否、読むべきものすら未だ放り出し、書棚に埋もれる書物のほうが多いくらいだ。いや、ここで言いたいことは、それではない。要約を読んで、分かった心算になることの愚かしさだ。要約、ダイジェスト版の必要は十分認めるものの、それで済ましてしまう危険についてだ。まさに浅薄。本日はこれまで。

  • 本日は4月23日。第二日目のパソコン訓練日である。前回よりは、少しはましになっておれば、それで良しとせねばなるまい。両手を使い、できる限りの指を駆使して、まず第一にパソコンに慣れることだ。と言っても、やってみれば、それほど大変なことでもないな。と言うのも、これまで、たぶん10年ほどになろうか、ケイタイでだいぶ絵文字、文章、しかもかなり長い文章を打ってきたから、まるでの初心者よりもマシなようだ。それでも、変換、抹消、行変え、その他もろもろの技があって、これらをマスタァするのは、かなり厄介なような気がする。
    ナラウヨリナレロ、とは良く言ったものだ。イロイロ理屈をきかされるよりも、まずは実践あるのみ。失敗を乗り越え、苦労を重ね、さらに工夫にまで進めば、それなりの成果がでてくる。達成感もかくてえられる。職人の実践訓?・・をここに記しておこう。「やって見せ、言って聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば人は育たん。」至言ではなかろうか。

    さて、かかる場を与えられ、自由な時間もないわけでもないのだから――なにせ3月末に退職した身であれば、それも当然だが――折々に触れて、少しはましなことなどを綴ることにしよう。語るべきことはアマタある。政治、経済、教育、あるいは社会構造に関る諸問題等々!さらに、興が乗ればネットとやらで、将棋の対戦におよぼう。今日はだいぶ練習をした。本日はこれまで。