• 9月6日・月曜日。雨。本日は前回の続きを扱うつもりが、菅総理の突然の辞任劇に触れて、少々、趣旨が変わった。わが得意の脱線に、お付き合い頂きたい(残念)。

     

    去る3日の金曜、午後。永田町は震撼し、街には号外が走った。次期総裁選の立候補断念が、現職総理自身によって、突如、表明されたからである。またもや「政治は一寸先は闇」(福田赳夫)との名言が、的中した一瞬であった。総理によれば、要するに、新型コロナ対策に専念するためであり、それゆえ次期総裁選に割くエネルギーは無いからである。

    この弁明を言葉通りに受け止める国民は、総理の支持者を含めて皆無であろう。直前には、党中枢の幹事長はじめ党役員人事の刷新を言明し、さらには電撃的な国会解散とセットにされた、総裁選挙を任期以降に繰り延べしてまで、自身の再選を目指していたからである。その執念は、さすがに並ではない。だが、こうした奇策、「禁じ手」(相撲・囲碁・将棋等の、使えば反則負けになる手。)は、総理の利益のみを考えた「個利・個略」だと、党内からの猛反発を喫し、あえなく封じられたのである。出馬断念は、これら手段の万策尽きた果てのことであり、ここには「コロナ対策への専念」の一字もなく、その事は国民すべての知るところであるに違いない(以上は、各種の報道等を基にした筆者の要約である。よって、その責任は筆者にある)。

    筆者がここで問おうとすることは、政治家の言葉の問題である。彼らの言が、ここでもハッキリしているように、事実との乖離があまりにひどい。その言葉には、何らの真実味もなければ、空疎そのものであることが、国民に素通しになっている。しかも、それを語る政治家自身がその事を知っており、だがそれについて一片の恥も覚えないらしいことに、これで良いのかとの言い知れぬ思いが募る。

    こうした言葉の破壊と虚偽説明は、近来では、殊に前政権以来のことであるが、その結果、国民はもはや彼らの言葉に全く信を置かず、政治家、政党はそれも承知の上で、手段を選ばず、ただ選挙で議員数を確保さえすれば、後は何をしようと思いのまま(先の広島県での河合氏の選挙はまさにそれであった)、との政治手法がまかり通っている有様に、いまだ歯止めが見られない。これは、民主主義政治の危機である。かつて、池澤夏樹氏は、こうした風潮を怒らず、許す国民も、徳義的に劣化していると嘆いたが、あるいはそうであるかもしれない。政治とはこんなものだと、我われは諦めてしまったのであろうか(以下次回)。

  • 9月3日・金曜日。雨。気温の急変と地下鉄の過剰冷房が、かなり堪える。弱冷房車なる車両に逃げ込むが、益もなし。これまで筆者は「春日部の青年」を自認していたが、どうやらこの旗を下ろし、「大沼1ー55の青年」と改めるべきかと思案中である。

     

    承前。ここに唐突ながら、一つの、興味深い文章を紹介したい。時は、わが国が太平洋上で米国と死闘を演じる最中、サイパン島失陥(昭和19年7月)を告げる東條首相の談話である。やや生硬だがご辛抱あれ。

    「正に、帝国は、曠古の重大局面に立つに至ったのである。しかして、今こそ、敵を撃滅して、勝を決するの絶好の機会である。この秋(とき)に方り皇国護持のため、我々の進むべき途は唯一つである。心中一片の妄想なく、眼中一介の死生なく、幾多の戦友並びに同胞の鮮血によって得たる戦訓を活かし、全力を挙げて、速やかに敵を激催(げきさい)し、勝利を獲得するばかりである」(池澤夏樹『また会う日まで』・朝日新聞朝刊連載小説8/1より)。

    ミッドウェー海戦(昭和17年6月)での我が連合艦隊の敗北を転機に、太平洋上の制海・制空権を失い、戦線は順次押し戻され、日本帝国はついに「絶対的国防圏」の中核と位置づけるサイパン島を、激戦の上、失陥する。これにより米軍は、日本本土の要域を空爆する重要拠点を手にし得ただけに、これは戦争の帰趨を決する決定的な意味を持った。事実、東條内閣は、その直後に退陣を余儀なくされるのである。

    上記の談話は、そうしたのっぴきならない瀬戸際の最中に発せられたものだと、ご理解頂きたい。この期に及んで、首相は何のことはない、国民は自分の命を擲ち、心を一つにして米軍に立ち向かえ。されば、「敵を撃滅」し「勝を決する絶好の機会」を得ると叱咤するのである。

    これが、陸軍大将、陸軍大臣にして参謀総長まで歴任し、近代戦の何たるかを知悉するはずの、紛れもなき軍トップの言葉である。それを国民はどう聞いたのであろう。何か勇壮めいていて、これ程空疎、無内容な言葉もなかろう。それこそ精神主義に取り付かれた「心中一片の妄想」、妄言に過ぎない。まるで、戦争とは国民の決死の覚悟の総量にかかると言わんばかりではないか。

    しかもこの時点で、軍部上層には、わが国敗北の可能性は見えていた。それを想定しつつ、なお闇雲に戦争継続をはかり、大陸、太平洋上で膨大な数の人命を損耗させ、国民を地獄に引きずり込んだのである。権力者の絶対的な権力行使が如何に酷いものかを、我われはとくと考えなければならない理由である。

     

    長くなったが、以上は前文である。菅総理のコロナ対策とこれに関わる発言が、わが狙いであったのだが、それにしては先触れが長すぎた。資料は朝日新聞・7/30(金)「緊急事態拡大、首相の会見要旨」他である(以下次回)。

  • 8月25日・水曜日。晴れ時に曇り。

    8月27日・金曜日。晴れ。炎暑が続く。

    9月1日・水曜日。雨。炎暑から一転、肌冷えの日となった。なお、8/30・(月)および本日の二日をかけて、前回の文章に手を入れ、文意をよりハッキリさせた。それだけ長文となり、だが趣旨は前回と同一であるから、別に再読される必要はない。

     

    これまでの政府、都庁のコロナ対策は、まさに以下の川柳、これである。

    全力で神風だけを待っている  金 昌則(朝日川柳・8/18)

    だが、頼みの神風が吹かなかったその結果、国民は「自宅療養」という体の良い「入院拒否」、「入院謝絶」に追い込まれた。詰まるところ、これは命の選別である。そうはさせない、と総理は言明していた。この自宅療養は、真に危険な患者のために病床を確保するためと言いながら、実際は中・軽症とみられる患者も、自宅療養中に急変し、死亡するケースも出てきた。ここに、救える命が見殺しにされる現状を、国民は目の当たりにし、同時に明日は我が身と、震撼させられているのである。

    そも「自宅療養」とは、本来、症状の安定した患者が病院から退院して、自宅で静養する意味ではないのか。こう中島岳志氏は言う。であれば、政府の使う用語は、まるでアベコベだ。悪くすれば、入院どころか、医師の診断も無いまま、病者は自宅に放置されかねないからである。このように、最近の政治、特に安倍・菅政権は「一貫して言葉を破壊し」、意味不明なものに変えてしまった(朝日新聞・朝刊・「迫られる「自宅療養」」8/24)。恐らく。この事が、政治の発する言葉を、国民がまともに信じなくなった大きな要因の一つではないだろうか。

    五輪開催について、コロナ感染とは無縁である、と総理も、都知事も言い放って来たことも、その一例であろう。この言葉を額面どおり受け取り、そうだと得心する国民はどれほどいるだろう。五輪のテレビ放映を見る暇もなく、コロナ診療に従事したという作家の夏川草介氏にとって「この期間の一番の驚きは、政府や東京都のトップが、この緊急事態宣言下での五輪開催と、新型コロナウイルスの感染拡大との関連を否定した」(朝日新聞・朝刊・8/23)ことであった。

    五輪と感染がセットであることは、すでに尾身氏が国会で警告し、各種調査では国民各層がこれを懸念していた。しかも取るべき方針、対策まで指摘されてもいたのである。今、多くの懸念・不安は的中するが、対策は後手に回って、「自宅療養」に行きついた。

    この事態に直面してなお、両首脳は自分たちの言っていたことが正しいとお思いなのだろうか。それ以上に、お二人はご自分の言った事を、心底、信じて、そう言われたのだろうか。もしそうなら、御両所の判断能力を疑い、夏川氏と共に驚愕し、大変な人たちをトップにしたものだと嘆く他はない。そうではなく、危険は重々承知の上で、もはや五輪中止は不可能ゆえの言い訳であったとすれば、国民を欺瞞し、その命を犠牲にした五輪優先策であった。だが、平気で国民を欺く政治家に、どれほど人々の生活の保全や安心を思いやる気持ちがあるものだろうか。

    これまでの総理の感染対策(?)には、ある傾向があるようだ。経済の維持と感染阻止、五輪開催と感染阻止と言うように常に二兎を追い、政策は小出しである。この事が、情報の混乱と政策の実効性を削いできた。決定的なのは、人流抑止と聞けば、それにのめり込み、ワクチンが出るとすべてをこれに賭ける。現在は抗体カクテル療法にご執心である。何かが良いと言われると、その有効性、限界の見極めも無いまま、それに縋りついて、これで感染は収まると何度断言されたことか。過日は、カクテル療法により感染からの「出口は見えた」とまで言い切った。常々、お気に入りの「総合的に判断して」とのお言葉ながら、場当たり的で、長期的・総合的な対策はついに見ない。総理の発想と流儀は、かつて評判となった千葉県M市の「すぐやる課」のそれに似ていなくもない。むしろ、市議時代の延長線上に、現在の総理はお立ちのように見えるのである。

    だが、市レベルで取られる対策、手法が、そのまま国家の運用に通用するとはとても考えられない。扱う対象の範囲や規模を思うだけでも、それは明らかだ。国家的な政策立案、およびその実行には、当然、市レベルとは桁違いの、幅広い配慮と各種の膨大な準備が必要であろうことは、言うまでもない。

    では、この度のワクチン接種はどうであったか。総理の指示はいかにも唐突であり、結局、肝心のワクチンの不足や予備にもこと欠く失態さえ招いた。これについては、朝日新聞の「声」欄に寄せられた、辛辣な投書がある。足立素夫氏は言う。接種は「自治体に丸投げしたかと思えば、「自衛隊にやらせると」と言い出したり、職域接種を勧めたり。ようやく接種が進み出した段階になって、今度はワクチンが足りなくなり、2回目の接種のために自治体が確保しているものを「確保しすぎだ」と言ってみたり…」の体たらくであった(朝日新聞・朝刊7/31より)。

    現下のコロナ疫病は世界が混乱し、今だ明確な出口が見えないほどの凶事である。しかも事態の推移と変化は、予想を超えたスピードであるから、対応の失敗、読み間違えはわが国だけのことではない。しかし、そうした当局の過誤、政策変更については、まず謝罪と共に変更理由を、国民に丁寧に説明するのが民主主義国家の取るべき姿勢であろう。

    だが、こうした点で、わが国の対応は欧米に比して著しく拙劣である。いまだに「官僚制」の無謬性を振りかざし、率直な謝罪は常に回避しようとする。「遺憾」という、誰が誰に対して、何が遺憾なのかまるで不明な弁明に終始する。政治家の説明能力はさらに低い。総理はこれまでも、記者からの質問をあらかじめ規制し、用意したメモに頼った答弁で済ますばかりか、答えに窮すると怒りすら見せる。そして、言う。「私なりにお答えしている」(朝日新聞・朝刊8/21・土)。冗談ではない。筆者は言いたい。「あなたは、強大な権力を国民から負託された最高権力者である。ならば、国民の疑問に対し、私なりにではなく、国民に分かるように説明する義務がある」。勝手な思い込みで権力を振り回されたら、その惨害を負わされるのは、我われ国民なのである。こんな事だから、総理は「本物の記者会見を経験していない」アマチュアだと、一外国特派員に痛罵される羽目にもなるのである(本欄、7/28参照)。だが、政治家の命は答弁能力であり、説得力であろう。彼がどれ程の生命力ある言葉を持つかによって、その力が測られるのだと思う(以下次回)。

  • 8月18日・水曜日。晴れ、所により強雨。

    7月の歩行総数、267,840歩、1日平均歩数・8,640歩、最高・14,922歩、最低・1,714歩であった。6か月維持してきた平均9,000歩に達しなかったのは、誠に残念。途中、これは危ないと察し、何日かギアを入れ替え13,000歩を目指すも、翌日の反動が大きく、疲労のため返って歩数を伸ばせなかった。今月の見込みはさらに悪そうである。

    8月20日・金曜日。晴れ。大分以前に『白の闇』(サラマーゴ・雨沢泰訳・河出文庫2020)を読んだ。人々が感染症によるのか、次々視覚を奪われ、さながら「ミルク色の海」に彷徨う様が書かれる。そうして極限の人間状況が示されるのだが、何とも不気味な読後感を持った。だが、コロナ禍の現在にそれを重ねると、我々は何か、形の無い得体の知れぬ魔の手に捉われ、いつ解き放たれるか分からない、そんな思いを禁じ得ない。いつまでこれに引き回されるのであろう。

     

    承前。ある読者には、政治家に対するわが論評が、しばしばきつ過ぎると見る向きがあるかも知れない。しかし、それは当然である。彼らは、予算権、執行権を持ち、そこでは納税、兵役義務さえ課すのである。つまり、国民は、労働の結晶である財産を徴収されるばかりか、進んで命を投げ出す事さえ強要される。それに抵抗する者は拘束され、懲罰を喫する。しかもそれらは、強大な官僚機構と有無を言わさぬ絶対的な警察権力に支えられており、単なる脅しや、空理空論の権限ではない。実質的な強力である。仮に、それらの執行力が不十分であれば、必要な法改正までなしうる強大な権限まで手にしている。これを称して、筆者は権力と言う。国民は彼らにそうした権力を与え、自らの生活の一部を自主的に犠牲にしながら、彼らの主張する政策課題の遂行を支持し、受け入れ、時には耐えるのである。

    彼ら政治家とは、いかなる人間か。自らに与えられる権限の巨大さを知り、それだけに己の背負う課題や責務の大きさを自覚していなければならない。彼らの向き合うのは、国民の生命、財産の保全、国家全体の平安であり、防衛である。それが徒や疎かにできないことは、当然である。彼らはそれほどの難題を眼前にしているのである。それを十分承知の上で、彼らは自ら進んでそれを引き受けようとするのである。それが立候補の意味であろう。繰り返す。国民が彼らに懇願しているのではないのである。

    であれば、彼ら政治家が、国民に公約した政策の完遂に、全力を注ぐのは当然ではないか。それを殊更、「シッカリ」進めるなぞ言うべき事ではない。それが出来なければ、まず謝罪し、理由を説明し、取るべき責任を負わなければならない。政治は単なる約束ではない。約束した事柄をなし遂げると言う、結果責任をこそ負わなければならない。

    この基準に照らせば、現在の政治家の面々はどうであろう。自分たちはこれだけ一生懸命に取り組み、あれこれ成果を上げたと言い募り、課題に正面から向き合わず、言い訳、ハグラカシ、あるいは同じことを、恥も外聞もなく繰り返し、ついに逃げ切るばかりではないのか。あまつさえ、総理に至っては、報道関係者の質問を無視し、批判されればメモ読みか、「言質を取られないよう、不明瞭な、責任回避の言葉遣い」に終始し、「怒気」さえ露にするとはどういう事であろうか(朝日新聞8/18。多事奏論)。

    総理の発信力の問題は、多方面から寄せられている。「私が最も不満に感じるのは、政治家が国民を納得させる言葉を発信していない点です。他者が見えていないから説得すべき言葉もない。政治決断をする以上、反対者に向けた説得の言葉が不可欠です。今の政治には、それがあまりになさすぎる。五輪への対応もコロナ対策も、すべて同じです」(朝日新聞8/17・京都大学大学院教授・佐藤卓己)(以下次回)。

  • 8月13日・金曜日。雨。九州、中国地方の豪雨被害に目を覆う。しかも、こうした惨害がもはや驚きの対象ではなく、日常の光景になっていることが痛ましい。異常気象は世界的であり、人類はこれを克服できるのか。残された時間は僅か、とはIPCC(気候変動政府間パネル)の直近の報告である。

    8月16日・月曜日。雨のち曇り。前回の文章に手を加え、より明確にした心算である。なおここで、朝日新聞の朝刊一面(8/13・金)に黒々と掲げられた大見出しだけでも記し、前回の文章の補足としたい。それは、「東京 感染「制御不能」」、「「医療機能不全」「自分で見守る段階」」、とある。できれば、同記事を一読願えれば、国民の置かれている現状は、もはや「救える命が救えない事態」に追い込まれていることが、理解されるであろう。そして、皮肉を言えば、「自助・共助・公助」なる総理のお言葉通りの展開をたどり、今や最後にチョイト添えられた「公助」そのものが、消滅寸前にあることもお分かりになるであろう。

     

    承前。コロナ疫病の爆発的な感染が止まらない。しかも変異株は多様になり、強毒化が進行している。ワクチンの防御機制をすり抜ける株もあると言う(ジャパンタイムズ8/11より)。この事実に狼狽えた政府は、この度、従前の政策を取り止め、中等症以下の患者は自宅療養とするとの政策変更を、突然打ち出した。重症患者用のベッドを確保するためだが、それが如何に危険であるかは、多くの医療者の指摘するところである。事実、軽症者が自宅で突然重症化し、死に至るケースも少なくない。これは、もはや命の選別であり、政府がコロナ蔓延を制圧できなかった証である。「政府の失策を国民に押し付けることは、絶対にゆるされない」(朝日新聞8/10・一読者の声)との憤りは、当然であろう。
    こうなることは、変異株が取りざたされた頃から分かっていたはずだ。世界やわが国では大坂などの事例から、事態がどう推移するかは、十分推察できた。しかも総理は、最初の所信声明演説で「爆発的な感染は絶対に防ぐ」と大見えを切っていたではないか。それが、Gotoトラベル初め五輪開催に気を取られ、政治のまず目指すべき「国民の安全・安心」な生活は危殆に瀕した。総理にとって、第一の政策課題は何であったのか。折しも、「コロナ下の首相 菅氏に任せて大丈夫か」(朝日新聞・社説・8/11)との痛切な批判が出された。

    これについては、都のコロナ対策も厳しく指弾されなければならない。五輪は感染に関係無いのか、との記者の質問に、都知事は事もなげに言い放つ。テレビ観戦が人流を抑制している。スタジアムの周りを数えて見よ。何万人もいない、と。東京都民局長にいたっては、感染不安を煽るなとメディアに訴え、さもこの度の感染を殊更軽視した発言があった。だが、これにはすかさず、こんな鉄槌が下される。

    どこ逃げた「不安あおるな」言った人  岡 順二(朝日川柳・8/14)

    しかし、局長氏の願いもむなしく、都内での感染者数は日々更新され、本日(8/13)は5773人に達する。ちなみに、全国感染者数は20400人と、初の2万人台を超えた。政権や都行政の罪は、ただ単に不要不急の外出自粛を呼びかけ、宣言や蔓延防止を発するのみで、真に効率的な対策を取らなかったことである。国会を閉じたままで、必要な法整備を怠り、貴重な財源、・資源を五輪に振り向け、やがて迫る感染爆発に備えた施設の整備、機器備品の充実、看護体制の拡充を蔑ろにして来たことである。その結果が、命の選別を強いるような自宅療養制度を余儀なくしたのであった。

    総理も知事も、五輪と感染拡大とは無関係であり、むしろ自宅でのテレビ観戦が感染の歯止めになっていると言い張る。だが、これは単なる詭弁に過ぎない。事柄の因果の連鎖はそれほど単純なものでは無い。であるならば、何故、これ程の感染爆発が生じたのか、今なおそれは続いているのか。それを明確に説明しなければなるまい。確かに、五輪関係者総数からみたその発症者数は、ごく僅かであり、五輪によって患者数が増加したとは言えないように見える。だが、そこに割かれた莫大な資金や人員その他が、コロナ対策の取り組みを不十分にしたとの非難は免れない。また開催が人心を浮き立たせ、感染を引き出した面もある。つまり、行政のメッセージはここでも矛盾しているのである(以下次回)。