2021年8月18,20日

8月18日・水曜日。晴れ、所により強雨。

7月の歩行総数、267,840歩、1日平均歩数・8,640歩、最高・14,922歩、最低・1,714歩であった。6か月維持してきた平均9,000歩に達しなかったのは、誠に残念。途中、これは危ないと察し、何日かギアを入れ替え13,000歩を目指すも、翌日の反動が大きく、疲労のため返って歩数を伸ばせなかった。今月の見込みはさらに悪そうである。

8月20日・金曜日。晴れ。大分以前に『白の闇』(サラマーゴ・雨沢泰訳・河出文庫2020)を読んだ。人々が感染症によるのか、次々視覚を奪われ、さながら「ミルク色の海」に彷徨う様が書かれる。そうして極限の人間状況が示されるのだが、何とも不気味な読後感を持った。だが、コロナ禍の現在にそれを重ねると、我々は何か、形の無い得体の知れぬ魔の手に捉われ、いつ解き放たれるか分からない、そんな思いを禁じ得ない。いつまでこれに引き回されるのであろう。

 

承前。ある読者には、政治家に対するわが論評が、しばしばきつ過ぎると見る向きがあるかも知れない。しかし、それは当然である。彼らは、予算権、執行権を持ち、そこでは納税、兵役義務さえ課すのである。つまり、国民は、労働の結晶である財産を徴収されるばかりか、進んで命を投げ出す事さえ強要される。それに抵抗する者は拘束され、懲罰を喫する。しかもそれらは、強大な官僚機構と有無を言わさぬ絶対的な警察権力に支えられており、単なる脅しや、空理空論の権限ではない。実質的な強力である。仮に、それらの執行力が不十分であれば、必要な法改正までなしうる強大な権限まで手にしている。これを称して、筆者は権力と言う。国民は彼らにそうした権力を与え、自らの生活の一部を自主的に犠牲にしながら、彼らの主張する政策課題の遂行を支持し、受け入れ、時には耐えるのである。

彼ら政治家とは、いかなる人間か。自らに与えられる権限の巨大さを知り、それだけに己の背負う課題や責務の大きさを自覚していなければならない。彼らの向き合うのは、国民の生命、財産の保全、国家全体の平安であり、防衛である。それが徒や疎かにできないことは、当然である。彼らはそれほどの難題を眼前にしているのである。それを十分承知の上で、彼らは自ら進んでそれを引き受けようとするのである。それが立候補の意味であろう。繰り返す。国民が彼らに懇願しているのではないのである。

であれば、彼ら政治家が、国民に公約した政策の完遂に、全力を注ぐのは当然ではないか。それを殊更、「シッカリ」進めるなぞ言うべき事ではない。それが出来なければ、まず謝罪し、理由を説明し、取るべき責任を負わなければならない。政治は単なる約束ではない。約束した事柄をなし遂げると言う、結果責任をこそ負わなければならない。

この基準に照らせば、現在の政治家の面々はどうであろう。自分たちはこれだけ一生懸命に取り組み、あれこれ成果を上げたと言い募り、課題に正面から向き合わず、言い訳、ハグラカシ、あるいは同じことを、恥も外聞もなく繰り返し、ついに逃げ切るばかりではないのか。あまつさえ、総理に至っては、報道関係者の質問を無視し、批判されればメモ読みか、「言質を取られないよう、不明瞭な、責任回避の言葉遣い」に終始し、「怒気」さえ露にするとはどういう事であろうか(朝日新聞8/18。多事奏論)。

総理の発信力の問題は、多方面から寄せられている。「私が最も不満に感じるのは、政治家が国民を納得させる言葉を発信していない点です。他者が見えていないから説得すべき言葉もない。政治決断をする以上、反対者に向けた説得の言葉が不可欠です。今の政治には、それがあまりになさすぎる。五輪への対応もコロナ対策も、すべて同じです」(朝日新聞8/17・京都大学大学院教授・佐藤卓己)(以下次回)。


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