2021年8月25,27日,9月1日

8月25日・水曜日。晴れ時に曇り。

8月27日・金曜日。晴れ。炎暑が続く。

9月1日・水曜日。雨。炎暑から一転、肌冷えの日となった。なお、8/30・(月)および本日の二日をかけて、前回の文章に手を入れ、文意をよりハッキリさせた。それだけ長文となり、だが趣旨は前回と同一であるから、別に再読される必要はない。

 

これまでの政府、都庁のコロナ対策は、まさに以下の川柳、これである。

全力で神風だけを待っている  金 昌則(朝日川柳・8/18)

だが、頼みの神風が吹かなかったその結果、国民は「自宅療養」という体の良い「入院拒否」、「入院謝絶」に追い込まれた。詰まるところ、これは命の選別である。そうはさせない、と総理は言明していた。この自宅療養は、真に危険な患者のために病床を確保するためと言いながら、実際は中・軽症とみられる患者も、自宅療養中に急変し、死亡するケースも出てきた。ここに、救える命が見殺しにされる現状を、国民は目の当たりにし、同時に明日は我が身と、震撼させられているのである。

そも「自宅療養」とは、本来、症状の安定した患者が病院から退院して、自宅で静養する意味ではないのか。こう中島岳志氏は言う。であれば、政府の使う用語は、まるでアベコベだ。悪くすれば、入院どころか、医師の診断も無いまま、病者は自宅に放置されかねないからである。このように、最近の政治、特に安倍・菅政権は「一貫して言葉を破壊し」、意味不明なものに変えてしまった(朝日新聞・朝刊・「迫られる「自宅療養」」8/24)。恐らく。この事が、政治の発する言葉を、国民がまともに信じなくなった大きな要因の一つではないだろうか。

五輪開催について、コロナ感染とは無縁である、と総理も、都知事も言い放って来たことも、その一例であろう。この言葉を額面どおり受け取り、そうだと得心する国民はどれほどいるだろう。五輪のテレビ放映を見る暇もなく、コロナ診療に従事したという作家の夏川草介氏にとって「この期間の一番の驚きは、政府や東京都のトップが、この緊急事態宣言下での五輪開催と、新型コロナウイルスの感染拡大との関連を否定した」(朝日新聞・朝刊・8/23)ことであった。

五輪と感染がセットであることは、すでに尾身氏が国会で警告し、各種調査では国民各層がこれを懸念していた。しかも取るべき方針、対策まで指摘されてもいたのである。今、多くの懸念・不安は的中するが、対策は後手に回って、「自宅療養」に行きついた。

この事態に直面してなお、両首脳は自分たちの言っていたことが正しいとお思いなのだろうか。それ以上に、お二人はご自分の言った事を、心底、信じて、そう言われたのだろうか。もしそうなら、御両所の判断能力を疑い、夏川氏と共に驚愕し、大変な人たちをトップにしたものだと嘆く他はない。そうではなく、危険は重々承知の上で、もはや五輪中止は不可能ゆえの言い訳であったとすれば、国民を欺瞞し、その命を犠牲にした五輪優先策であった。だが、平気で国民を欺く政治家に、どれほど人々の生活の保全や安心を思いやる気持ちがあるものだろうか。

これまでの総理の感染対策(?)には、ある傾向があるようだ。経済の維持と感染阻止、五輪開催と感染阻止と言うように常に二兎を追い、政策は小出しである。この事が、情報の混乱と政策の実効性を削いできた。決定的なのは、人流抑止と聞けば、それにのめり込み、ワクチンが出るとすべてをこれに賭ける。現在は抗体カクテル療法にご執心である。何かが良いと言われると、その有効性、限界の見極めも無いまま、それに縋りついて、これで感染は収まると何度断言されたことか。過日は、カクテル療法により感染からの「出口は見えた」とまで言い切った。常々、お気に入りの「総合的に判断して」とのお言葉ながら、場当たり的で、長期的・総合的な対策はついに見ない。総理の発想と流儀は、かつて評判となった千葉県M市の「すぐやる課」のそれに似ていなくもない。むしろ、市議時代の延長線上に、現在の総理はお立ちのように見えるのである。

だが、市レベルで取られる対策、手法が、そのまま国家の運用に通用するとはとても考えられない。扱う対象の範囲や規模を思うだけでも、それは明らかだ。国家的な政策立案、およびその実行には、当然、市レベルとは桁違いの、幅広い配慮と各種の膨大な準備が必要であろうことは、言うまでもない。

では、この度のワクチン接種はどうであったか。総理の指示はいかにも唐突であり、結局、肝心のワクチンの不足や予備にもこと欠く失態さえ招いた。これについては、朝日新聞の「声」欄に寄せられた、辛辣な投書がある。足立素夫氏は言う。接種は「自治体に丸投げしたかと思えば、「自衛隊にやらせると」と言い出したり、職域接種を勧めたり。ようやく接種が進み出した段階になって、今度はワクチンが足りなくなり、2回目の接種のために自治体が確保しているものを「確保しすぎだ」と言ってみたり…」の体たらくであった(朝日新聞・朝刊7/31より)。

現下のコロナ疫病は世界が混乱し、今だ明確な出口が見えないほどの凶事である。しかも事態の推移と変化は、予想を超えたスピードであるから、対応の失敗、読み間違えはわが国だけのことではない。しかし、そうした当局の過誤、政策変更については、まず謝罪と共に変更理由を、国民に丁寧に説明するのが民主主義国家の取るべき姿勢であろう。

だが、こうした点で、わが国の対応は欧米に比して著しく拙劣である。いまだに「官僚制」の無謬性を振りかざし、率直な謝罪は常に回避しようとする。「遺憾」という、誰が誰に対して、何が遺憾なのかまるで不明な弁明に終始する。政治家の説明能力はさらに低い。総理はこれまでも、記者からの質問をあらかじめ規制し、用意したメモに頼った答弁で済ますばかりか、答えに窮すると怒りすら見せる。そして、言う。「私なりにお答えしている」(朝日新聞・朝刊8/21・土)。冗談ではない。筆者は言いたい。「あなたは、強大な権力を国民から負託された最高権力者である。ならば、国民の疑問に対し、私なりにではなく、国民に分かるように説明する義務がある」。勝手な思い込みで権力を振り回されたら、その惨害を負わされるのは、我われ国民なのである。こんな事だから、総理は「本物の記者会見を経験していない」アマチュアだと、一外国特派員に痛罵される羽目にもなるのである(本欄、7/28参照)。だが、政治家の命は答弁能力であり、説得力であろう。彼がどれ程の生命力ある言葉を持つかによって、その力が測られるのだと思う(以下次回)。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です