• 5月26日・金曜日。曇り。本日は4/24(月)の文章の続きである。
    6月2日・金曜日。曇り。前回の文章の末尾を若干加筆し、何とかまとまりをつけた。なお、来月初め(7/8・土)、社会環境学会での研究報告者となり、その準備のため手紙は休載とさせていただく。今回は依頼されたからではなく、自ら志願しただけにそれなりの用意をしなければならない。論題:吸引する大都市—地方再生の道はあるのか—
    なお、本会は会員以外の方でも自由にご参加できます。詳細については、当会ホームページをご覧下さい。

    承前。前便で見たように、極度の心的障害を被った兵士の場合、遺伝子を介して彼の子孫にまで影響することがあるすれば、その及ぶべき範囲、深度は測りがたいものになるだろう。そうなれば問題は、兵士が犯罪者であったかどうかは、もはやそれほどの問題では無くなるのかもしれない。確かに、万をこえる凶悪犯罪者が戦場でさらに殺人行為に麻痺し、その手口にも習熟してそのまま社会復帰するのかと想像すると、これはこれで何とも言いようのない不安は募る。
    しかしここには、これらとは別種の問題がある。すなわち、人格的な崩壊の危険である。今も続く激戦地のバクムート市で戦った兵士は「地獄を生きた」と言い、そこで経験した「あらゆるホラー(一言の日本語では表現できない。恐怖、憎悪、憂うつが折り重なったおぞましさ、そんな感情だと、ここでは言っておきたい)が、今私に付きまとい始めている」。体に深い痛手を負ったわけでもないにしても、彼の精神を犯し、忘れようにも忘れられない地獄絵の鮮明な映像が、呻き苦しむ声と共に、夜となく、昼となく彼に纏わりつき、苛むのであろう。しかも、孤独の内にさ迷っているのである。家族ですらここには入りこめない。しばしば彼に語りかける妻は、尋ねる。「あなた、私の言っていること、聞いているの」。
    その声が聞こえる分けもない。今、彼にはこんな絵図が巡り始めたからだ。「彼の友人たち、仲間の全員が、戦車の中で生きながら焼き殺されているのだ」。こうした例はまれではない。別の証言もある。「多くの仲間が殺された。武装された車輛の中で、焼かれた。自分はこの目でそれを見た。手りゅう弾が自分に当たったけれど、爆発しなかったんだ。」
    戦闘における生と死を分ける理由は、単なる偶然でしかない。しかしそれを直接目の当たりにした当人にしてみれば、死のむごたらしさにくわえて、戦友が身代わりになってくれたという負い目、生き延びてしまったという罪悪感が、終生、付きまとい、陰に陽に苦しめるとは、多くの文書で報告されている。しかもここには、今に至るまで、決定的な治療法が存在しないようなのである。となれば、こうした負担、苦痛を負った多くの帰還兵の内には、その重みに耐えきれず、そこからなんとか逃れようとして、アルコール、薬物依存、さらには異様な破壊や殺人行為にふける者たちが誕生するというのも、筆者なりに理解できない話ではない。それにしても、再び言う。彼らのその後の人生が、まさに「生き地獄」になるとは、言葉もない(この項、終わり)。

  • 4月28日・金曜日。晴れ。

    5月8日・月曜日。雨のち曇り。ゴールデンウィーク明けの久しぶりの出勤により、パソコンの手元が、少々、怪しい。とは、単なる言い訳で、ただ単に休みボケのゆえかも知れない。なお、前回末尾に以下次回としたが、今読み返すと、述べるべきことはすでに述べられたように思える。よって以下は、ごく簡単に済ませたい。

    5月19日・月曜日。雨。本日は予定を変更し、下記の文章に替えさせていただいた。

    過日の新聞報道により(4/29)お気づきの方もあろうが、実はこの度の春の生存者叙勲において、筆者も叙勲の栄に浴し、5月12日(金)、国立劇場にて永岡桂子文科大臣ご臨席の下、伝達式および勲章、勲記を授与された。その後皇居に参内し、陛下への拝謁も許された。と、こう書くと、いかにも立派であるが、実は総勢三百人ほどの一人として参列し、ただ目立たぬよう、間違っても奇矯なる振舞いに及んではならぬと、己を必死に抑え、ひたすら平穏に時の過ぎるのを願ったに過ぎない。

    それでもこの式に参列するための準備は、中々厄介であった。十年ぶりにモーニングを引きずり出し、散髪に行くやら、三越に出向いて正装用の靴やYシャツを購入し、揚げ句はカフスボタンまで借り受けた。こんな手はずと段取りは、とてもでないがわが能力で処理できる領分でないことはお察しの通りであり、はや面倒臭さに押しつぶされ、この段階で出席の意欲や闘志は丸々消尽してしまった。要するに、もうどうでも良くなってしまったのである。齢(よわい)、傘寿を迎え、これまで数々の式典を催し、そんなこともこの度の叙勲につながったのかも知れないわが経歴ではあるが、それらは何の役にも立たなかったのである。

    それでも、周囲からは、一生に一度の事だし、誰でも行ける所でもない、是非にも参列せよと励まされ、ようやくのこと万事整えた。かくて前日には意気も揚々、勇躍ホテルに乗り込んだ。までは良かったが、何か寒くてほとんど眠れず(あの日は、夕刻の大雨により、夜分はかなり冷え込んだ。皇居での園遊会が散々であったとは、後で知った話である)、翌日の式典は朦朧の内に過ごし、そのお蔭をもって無駄な力が抜けたのか、あがりもせずリラックス(?)して無事済んだ。とは言え、そんなこんなの疲労は今日まで祟り、わが「手紙」の10日間に及んぶ休載を余儀なくされた、とのくだくだした言い訳を、以上述べさせていただいた。

    ちなみに、筆者の勲位は瑞宝中授賞、昔で言えば、勲三等に相当するようである。と言って、それがどの程度有難いものかは、当方にもよく分からないが、一面識もない春日部市長や県知事から祝電が届き、さらには、いかなる次第か、何人かの国会議員からも、印刷された手紙が舞い込んだ。そして、思いもかけない方々からお祝い、お心のこもった手紙を頂戴したが、これは近頃にない喜びであった。どうも有り難うございました。この場をお借りし、御礼申し上げます。

  • 4月21日・金曜日。晴れ。いよいよ初夏の趣き。蒸し暑し。

    4月24日・月曜日。曇り。やや肌寒い。

     

    先に(2/22)、過酷な戦場での体験が兵士の精神を破壊し、後に深刻な事件を引き起こすこともあったベトナム帰還米兵の悲劇を引きながら、ロシアの現政権では、刑期を終えていない犯罪者を徴兵し、しかも兵役後は完全に社会復帰を許すという政策を導入したが、そこに潜む危うさについて一言しておいた(もっともこれは、現時点ではすでに廃止されたようだが、それでも帰還兵は万単位に及ぶらしい)。この不安は、現在のウクライナ戦争では、もはや不安ではなく、現実であるとも読める記事を、ニューヨークタイムズ(3/25-26)で目にした。「戦争の心的障害」、「戦争の心的障害を負う兵士」が、そのタイトルである。

     

    この戦争の特徴は、長大な戦線の固着と、格段に進化した兵器による弾幕砲火の援護の下、塹壕戦が展開され、それは一方で第一次大戦時の白兵戦を思わせる戦闘でありながら、同時にミサイル、ドローン攻撃がこれまでにないピンポイントの破壊力と残忍性を増幅させる、こうした点にあるようである。またウクライナ軍の場合、一年前までは戦闘経験のない男女混成軍であるという事情もある。

    このような戦場に、長く身をさらす兵士たちが舐める肉体的な苦痛はもちろん、その精神が被る損傷もまた想像を絶したものとなるだろう。記事は言う。これまでの「それぞれの戦争は心的外傷について、何がしか新しいことを我われに教えてきた」。

    第一次大戦では、病院は泣き叫び、硬直し、教科書では「道徳的廃人」と記されるような兵士たちで溢れたと素っ気ない。第二次大戦では、認識の深まりのゆえか、「最も強健な兵士ですら、過酷な戦闘ののちには心的崩壊を被る」と言われるように、やや「同情的な」所見に変わっていく。ベトナム戦争帰還兵については、戦争体験が刻印され、仕事や家庭生活が困難になるケースが報告された。そして、現在の研究はさらに進む。心的障害は、まだ生れていない子供の遺伝情報にまで作用することもあるという意味で、兵士の生涯をこえた影響力を持ちうるというのである。

    キーウ国立医科大学の心理学教授―ロシアのクルミア侵略以来(2014)、ウクライナ兵の心理状況をつぶさに観察してきた研究者―は言っている。戦闘に明け暮れた兵士たちに障害が出るのは、戦場から離脱して後のことであり、その症状は悪夢、フラシュバック、不眠、自殺願望等であり、兵士としての再起は望みがたい。

    そうした障害の発症時期は特定出来そうもないらしい。また、戦争に限らず、強烈な心的障害を受けると、何年か後に思いがけない形で、症状が出るそうだ。疫病研究者の報告によれば、「飢饉後に生まれた子供は、数十年後、両親の受けた経験の痕跡を引き、…肥満、統合失調症、糖尿病の発症率が高く、短命である」。これが事実であれば、現在のウクライナ戦争他、悲惨な状況に立たされた人々の惨状がその後の世代にもそれを強いることになる。人類はいまだ、心的障害の及ぼす多様で深刻な影響について、なにも分かっていないということなのであろう(以下次回)。

  • 4月7日・金曜日。曇り

    4月10日・月曜日。晴れ。

    4月14日・金曜日。晴れ。

    4月17日・月曜日。晴れ。前回の文章にやや手を入れた。

     

    昨日の天声人語(4/9)は、実に傑作であった。と言うよりも、思わず虚を突かれたような一撃であった。この何年もの間、国も社会も少子高齢化と今後の日本社会の成り行きを心配し、様々な対策、制度造り、予算化を進め、なんとかその流れを阻止しようと躍起になって取り組んできた。それに対して、では伺いますが「多子若齢化」の社会なら、子供は貴重ではなくなるのでしょうか、との質問が新中学一年生から発せられた。家庭庁政策相と子供記者とのやり取の中での一幕である。

    恐れ入りました。これまでの政府の発想、対策は、子供をまるで道具か資源かのように扱い、それが少なくなると、今後の労働力や介護、年金基金など困ることが多いから大切にしよう。逆に言えば、子供が多ければ、そんな心配は不要だからどうでもよい、と言っているように聞こえる。この質問は、子供、つまり人間に対する、現在の我われ大人の考え方がいかに浅ましいかを、一言の下に明らかにした。このように指摘されるまで、この問題の本質に思い至らなかったことを、我われは恥じなければならない。

    人間を道具化するとはどういうことか。道具とは、その目的に役立つ限り貴重であり、そうでなくなれば捨てられる。役立つとは、便利であり、利益を生むかどうかで測られる。人間も同じである。役立つために勉強し、必死になって己を磨く。人に負けてはいけない、諦めてはならない。敗者は無価値となって社会の片隅に打ち捨てられてしまうからだ。かくて、何とも息苦しく、ギスギスした競争社会が出現した。しかもそれは、日本だけではなく、世界的な現象のように思える。

    ここにみられる人間観は、人間能力のある一面だけを取り出し、それを極端にまで伸ばそうとする歪(いびつ)なものに見える。ここには、その人がそこにいるだけで周囲は慰められ、他の人には無いその人だけの価値を尊ぶという見方はない。

    確かに、これまでの歴史において、ひとは誰もがかけがえのない存在として大事にされるという社会が在ったのか、と問われれば自信はない。古来からの世界的な宗教やその教えが、今なお我われの生き方を支え、導く指針であり続けていること自体、人間の本性は昔からまったく変わっていない証にも思える。つまり、人間は常に、少しでも役立つ道具であることを求められて、今に至った。

    しかしそうは言っても、現在の人間観は、科学技術の発展と相まって、これまでに輪をかけて、極端にまで突き進み、何のための進歩であり、利益であり、人生なのか訳が分からなくなった時代にあるように見える。我われはこの先どこに進むのであろう。

    ところで、人間を道具化しない見方とは、どのようなことだろうか。筆者にもしかとは答えられない問いだが、朝日新聞(4/7・夕)に掲載された、藤本千尋「ゆらゆらゆれるかかが大すき」の一文に多く教えられた。

    彼女は自閉スペクトラム症(ASD)障害の母親を持つ、小学一年生の児童である。母親が「ちょっとへん」と気づいたのは、保育園児の「年中」の頃であった。一緒に遊ぼうと言えばいつも「ニコニコうなずいて」くれるが、あそびはなかなか始まらず、「わくわくしてまっていると、そのうち、かかはこまったかおでゆれはじめました。右へ左へ、ゆーらゆら。そしてそのまま、手をはなしちゃったふうせんみたいに、ふわーっとどこかへとんでいってしまいました」。

    ASD障碍者の苦手は、大きく言って曖昧なこと、相手の気持ちを理解すること、騒音の中の他、嫌なことが「忘れられないこと」であるようだ。だから遊ぼうと言われると、何をどうすればいいか分からず、揺れ始める。また 多くの失敗や困った記憶があふれだす。そこでかかの記憶を楽しいものだらけにしようと、聞いてみると、「かかがしっぱいしても、おこらずわらってくれたとき。あとかかいがいがしっぱいして、みんなでわらちゃったとき」。そこで彼女は思った。「かかは小さなたのしいを、だいじにだいじにあつめてるんだ。…それはとてもすてきなことだとおもいました。それに、しょうがいがあるからといってとくべつにおもわなくても、いつもしているみたいにふつうにすごすことも、えがおにつながるんだときづきました」。
    どうであろう。人をあるがままに受け入れ、それを喜びとする社会、人を道具としない社会とはこのようなものなのかもしれない。少なくともここには、一つのあり方が示されているように思える。もち論こうした生き方を、グローバルにまで広がった現在の競争社会のただなかで根づかせ、実践することは難しかろう。だが、そのように意識して生きることは出来るョ、と上の文章は告げているのではないか。ここでさらに気付かされる。周囲にこうしたひとが一人でもいれば、現在のように互いが寄る辺なく、砂漠のような競争社会の中で暮らそうとも、一息つき、大きな慰安を得られるのではないか。

    なお、本文は北九州市主催の14回子どもノンフィクション文学賞、小学生部大賞を得た作品であることをここに付しておきたい。

     

     

  • 3月31日・金曜日。晴れ。前回の文章、やや手を入れた。

    明日より新年度。早いものだと改めて思うが、だからと言って、当方、それによって己を奮い立たせ、決意を新たに立ち向かう何物かが在るわけでもない。実に静かなものである。「明鏡止水」の言葉が浮かぶが、ここには大事を前に心を静めようとする、闘志と跳躍を秘めた静寂、と言った意味もありそうで(わが勝手な思い込みだが)、筆者のそれとはまるで違う。こちらはただの自堕落に過ぎない。

    4月3日・月曜日。晴れ。桜が終わり、欅の新緑が美しい。とくに当社に面した早大通りの並木は、中央分離帯に植わる老樹と共に、かなり大きな通りを覆うほど枝を張り出し、そよ風に揺れ、陽の光を柔らかく受けては様々な顔を見せる。これを見るだけでも、大きな慰めを得る。樹は切ってはいけない。街の歴史と人々の思いが結び付けられ、それら全てが溶け合ってその街の佇まいもあろうからだ。それはまた、後世の人々に遺すべき遺産でもありうる。

    こうした思いは、自ずと神宮外苑の大開発の問題に筆者を連れ出す。これは、どう見ても、現在の短期的な利益に引きずられ、さらに東京の発展が今後も維持されることを前提とした都市開発である。だが、日本は今や人口減少や大都市への一極集中による地方の疲弊、さらにはリモートワーク他、多くの入り組んだ問題に直面しており、東京の今後の発展は自明ではない。しかもここで出来上がる景観が、どこにも見られる巨大な商業ビル街をもう一つ出現させようとするに等しい、無残な街区にすぎないとあっては、言うべき言葉もない。

    本計画には、外苑創設の歴史的な経過や意義、それらと結びつき、育まれた都民の愛着がどこまで配慮されていたのであろう。一女子高校生の訴えに始まり、そこから沸き上がった大きな懸念や反対論に驚愕し、大慌てで手直しした経過から見ても、当初からそんな思いは、まるでなかったようにさえ見える。病魔におかされた坂本龍一氏が、自分には手紙を書くことでしか反対運動に参加できないと嘆きながら、都知事にそれらの思いを切々と訴えたとは、昨日の『ジャパンタイムズ』の記事にあった。そして、本日、同氏の逝去の報に触れた。大江健三郎氏に続いて、日本は、また一人、かけがえのないひとを失った。