2023年01月06日

1月6日・金曜日。晴れ。

謹賀新年。
実は、昨年の賀状にこんな一句を添えて、年賀の挨拶は終わらせて頂いた。

駄句の種つきて仕舞いの年賀状  みつお

それでも、今年、百通近い賀状を頂戴し、しかも中にはわざわざ、賀状打ち止めは承知のことゆえ、返信不要との添え書きまで寄せていただいた賀状も数通あり、多いに恐縮させられた。この場をお借りし、早々の年賀のご挨拶に改めて御礼を申し上げたい。どうも有難うございました。
賀状について思い出すのは、恩師の事である。九十歳を超えてなお、近況や和歌を添えた賀状を作り、端正な筆致であて名書きされた賀状であった。高名な学者であり、最晩年まで多くの方々に慕われた師であれば、その数はかなりのものであったに違いない。それを思えば、傘寿の声と共に、早々にギブアップしたわが身はなんとも情けない。
賀状を止めて気付かされることがある。かつて、多い時には3百通をこえる時もあった。その返信がすべて終え、やれやれと思った頃には松が取れ、授業再開の時となる。何のことはない。年始年末は賀状作りと、あて名書きに費やされる。それがほぼ50年続いたわけだが、今年、初めて無くなった。実にあっ気ない話である。文案づくりから、印刷屋の手配など、幾つかの作業を期日までに終えねばならぬという切迫感からの解放は有難かったが、こんどは無沙汰をかこった。
無聊とは、それだけである種の寂寥感を覚える。これは大学退職以来付きまとうわが感懐だが、同時に年金生活者の多くが感ずるものであろう。ある人が私にふと漏らした一言が思い出される。「世の中から見捨てられたようだ」。ただ「食うに困らぬ」というだけでは、人は自足できないということなのだろう。贅沢と言えば、贅沢な言い草だ。そして、人生五十年時代にはあり得なかった悩みの一つに違いない。
断っておくが、筆者は決して「ひま人」ではない。有難いことに、中央クリエイト社の役員としてなすべき職務を持ち、またこの所のわが身辺は多忙を極める。さらには4~5㌔の背嚢を担ぎ、一日平均8千歩をこなし、か細いがブログ用の書を読み、英字新聞にも取り付いている。将棋への関心を失ったわけでもない。にも拘わらず、付きまとう寂寥の思いは何か。もしかしたら、モンテーニュが見抜いたように、多忙を理由に「人生上の意味」を考えずにすまそうとしている、その怠惰のゆえであろうか。
それはともかく、賀状を書くことは、単なる苦行ばかりではなかった、と言っておかなければならない。単なる義理ばかりの賀状には、虚礼廃止と言いたくなるが、その後ほとんど会うことも無くなった、かつての教え子、知人、友人の近況を知り、彼らの顔を浮かべながらの返信は楽しかった。刷り込まれた写真を見ながら、こんな家庭をつくったか。子供はこうか。そうした楽しみがあればこそ、何百通の賀状も書けたわけである。今回の賀状にもあった。「毎回、先生のブログを読み、お元気そうな様子に安どしております」。

最後に改めて、本年もまたよろしくお願い申し上げます。


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