• 12月11日・月曜日。曇り。
    12月15日・金曜日。曇り。前回の文章に手を入れた。

    早や日没かと思えば、冬至間際であれば、それも道理である。だが、ほんの一月前に夏日を見た当方には、いまだ意識は晩夏か初秋を引きずり、2,3日前にも18度なんて日もあって、とても師走などと言った趣きにはなれない。酉の市過ぎは、もう寒風の夜空と決まっていたのだ。
    そして、政治が無様を晒している。こんな川柳を詠んだ。

    パー券か みかじめ料か 悪ドッチ  みつお

    過日の朝日新聞に、パーティー券を買った企業の話があった(読み飛ばして、メモを取らず日付は失念したが、たしかに読んだ)。「政治家に何かして貰おうというのではなく、ただ仕事の邪魔をされないように買った」。これはもう限りなくみかじめ料に近くはないか。
    そんなことをつらつら考えているうちに、かなり以前、こんな川柳を当欄に載せたことを思い出し、検索してみれば、もう一年以上も前の話になる(’22年8/22)。

    一発が 清和、自民を ぶっ壊し  みつお

    今思えば、予言的な一句となり、よくぞ詠んだとわが身を誇りたいような気になる。安倍氏の逝去が報道の重石を解き放ったのか、統一教会絡みの追及が進む。追い立てられるようにして、政府は止む無く教団解散の方向性を示し、不十分ながら信徒救済の法律も通した。その間、清和会はじめ少なからぬ自民議員は教団からの離脱や絶縁表明を余儀なくされる。細田衆議院議長にいたっては、議長辞職にまで追い込まれた揚げ句、亡くなる直前まで厳しい責め苦を逃れられなかった。
    こうした一連の狂騒曲は、今、突如、最終楽章のクライマックスに達した。ただ今現在、岸田政権の中枢を担っている清和会の閣僚、政府要人6名が一挙に解任の瀬戸際に追い込まれ、辻本清美議員によれば、諸氏は一様に「青い顔」をして院内を歩いておられるそうだ。「清和会は終わった」、とはある古参議員の言である。それどころではない。岸田政権それ自身の存続まで問われ、もし総辞職にでもなれば、現在の自民党内の権力基盤は間違いなく瓦解し、新たな再生への道が探られることだろう。たしかに、自民党の下野はないにせよ、それでしばらくはまともになると期待できる。何ともつましい願望、希望だと自嘲するが、これがこの国の政治風土だとすれば、そう覚悟する他はないだろう。
    それにしても、清和会はじめ自民党の先生方の現在の胸の内は、どんなであろうかとお伺いしたい。恐らくこんな絵図が浮かんでいるのではないだろうか。安倍さんさえ存命ならば、収支報告書の不記載なんぞの些細なことで、こんな馬鹿々々しい騒ぎにはならなかった。報道も無ければ、検察も動きはしなかった。いや、動けなかった。勿論、統一教会問題なぞ、あろうはずもなかった。
    何しろ安倍先生は、身内とされる(とは、自分の意のままにどうにでも動かせる、と言う意味だが)元法務事務次官、黒川弘務氏の検事長定年を無理やり延長し、それに対する世間の強硬な批判も単なる騒音程度にしか気にせず、楽々閣議決定した上で、さらには検事総長への道を開いた方である。その意図は、事が起これば、検察トップとしてその動きを直ちに封印させようとするにあったそうな。だがこの目論見は、黒川氏の賭けマージャンの露見と共に(恐らく役所筋からのリークに違いない)、あえなく頓挫したのは、何とも間の抜けた話である。先生といえどもそこまでは見通せなかったのは、神ならぬ身とは言え、残念の極みであったことだろう。
    他方、黒川氏は法務省トップ官僚ではなかったか。その氏にして、この程度の遵法精神でしかなく、それでも十分務まるということに驚かされる。この事態は、過日、脱税まがいの所業で財務副大臣が辞職に追い込まれた事件を思い起こさせるが、このところの政府高官の頻発する、しかも職務と違反事項がぴたりと一致するというこの種の変事を、どう受け止めたらいいのだろう。多くの国民はインボイス他ギシギシとした法令に苦しめられ、少々の違反も容赦されないと言うのにである。
    このように、上に寛大、下に過酷な世にあって、黒川氏のような能吏が検事総長ともなれば、上司のいかなる違反行為にもあれこれ立派な理由が編み出され、その全てが適法として処理され、世の小賢しい批判は封圧されることになるのだろうか。その時、この世は無法社会に堕ちはしないか、とそら恐ろしくもなる。
    これを見てもお分かりの通り、安倍氏とはそうしたことを、さしたる困難もなく断行しうる意思と能力を十分お持ちの政治家であるばかりか、他を圧する存在であられた。とすれば、同氏の逝去は、氏に連なる方々、とりわけ自民党議員にとっては、惜しんでも惜しみ切れまい。であれば、国葬によってお送りする他はない恩人であった。ここに改めて、氏のご逝去に対し衷心より哀悼の誠を捧げたい。

  • 12月4日・月曜日。晴れ。下記の文章は、先月11/6(月)に粗方書かれていたが、ケリの着くところまで行けず次回発信としたが、前回記したように、その間色々あって、今日まで日延べとなった。それにしても、こんな些細なことでも思うに任せぬというのに、我われの日々の生活が、それでも破綻せずに、何とか維持されている不思議(筆者には、それはほとんど奇跡のように思える)を改めて感ぜざるをえない。ネット社会によってもたらされた便利と脆弱性が、益々、その感を強める。
    その間、久しぶりに時事川柳が浮かんだ。時事としては、もはや鮮度は落ちるが、そんな一事が現在の自民党裏金問題の先駆けだったかも知れないと、こじつけて掲載しておく。

    知らなんだ 閑人なのか 納税者 みつお

    律儀に納税する奴は、結局、閑人なんだと言われたようで、しかもその御仁、税を徴収する財務省の副大臣様と言うに至っては、怒りを超えた何か言い知れない哀れと共に、この国の行く末を、心底憂う。

    本日(11/6・月)、25℃と聞いた。ほぼ夏日である。霜月と書き、晩秋を迎えた今日の話だ。半そでのTシャツで歩く人たちがいる。交通機関や店舗にはクーラーが欠かせない。しかも、こうした状況をさほど変だとも思わず、慣れつつある我われの感覚も、おかしくなっているのだろう。
    と言うのも、テレビに映し出される、列島中の異常気象に人びとは一様に驚き、あきれるが、それ止まりのことである。このことを深刻にとらえ、政治を動かし、政府に対し問題を突きつけようとする気配もない。政府はそれを良いことに、打ち出す政策は経済発展ばかりであって、地球温暖化に対しては、Co2排出削減の数値やそれを達成するための技術、原発の再稼働、再延長(これ自体、安価な電力の安定供給が主体で、要は経済問題である)に限られ、温暖化に対抗した国のあり様、社会の仕組み造りについての議論や、それを実現するための総合的な対策はあるのだろうかと訝るばかりである。
    だが、こんなことで、本当に大丈夫なのだろうか。筆者の目下の懸念はこうだ。現在目の当たりにする異常気象が、自然界や我われの生活、ことに社会経済に対しどれほどの範囲で、またどのような影響を及ぼし、それがいかなる帰結をもたらすのか、そうした全容を我われは、恐らく、いまだ捉え切るどころか、その緒にもついていないのではないか。だからこそ、我われは呑気でいられるのであろう。そう言えば、過日の「折々の言葉」に、人間は本当に深刻な問題は考えることが出来ない、とあった気がするが、たしかにそうなのかも知れない。
    しかし、こんなことがいつまでも許されるはずがない。自然は、現在、様々な仕方で温暖化の歯止めなき進行と、それがもたらす多様な危険や脅威を、時にはシンバルや打楽器を打ち鳴らし、あるいはかすかだが、しかし決して聞き漏らすことは出来ない通奏低音を響かせ、我われに警告し続けているのではないか。まだ間に合う、大丈夫、などと言っていられる時間はないのだ、と。
    ニューヨークタイムズの「旱魃、パナマ運河干上がらせる」、「旱魃パナマ運河干上がらせ、交易阻害す」(11/3)は、その一例に過ぎない。水位の低下により、運河が捌ける船舶数は激減し、閘門内に航行可能な水量を満たす時間は延び、果てはホーン岬(チリ)経由での輸送を余儀なくされる。それによる費用の増加はもとより、航行延長によるエネルギー消費が温暖化、そして環境への負担をさらに加えるという訳だ。と言う次第で、温暖化による一つの障害が、その後いかなる広がりと連鎖を持って、他にどう影響するかを、我われはいまだ見通せていないのではないか(以下次回)。

  • 12月1日・金曜日。晴れ。本日師走の朔日と知り、呆然とする。

    先月12日(日)、金子ゼミナール卒業生たちが相集い、わが叙勲の祝賀を兼ねたパーティーが大学リバティータワー最上階で開かれた。70余名が参加し、遠方より駆けつけた卒業生も多く、中々の盛会であった。まずは、開催の労をとった幹事諸君らには、改めて深甚の謝意を表したい。勤務後の疲労を押し、貴重な時間を割いてのことであった。それだけに、感謝は尽きない。迷惑をかけた。どうも有り難う。
    本会は、私の大学退職の際に持たれて以来、10年ぶりのことである。今や、教え子と言うより、畏友でもある井上敬資より、この機会にパーティーでもどうかと持ち掛けられたとき(誓って言うが、当方から強制した覚えはないので念のため。但し、そんな顔つきだったかもしれない)、幹事たちの苦労を思い、一応、二の足を踏んだつもりである。
    それでも、「ウン、ヤロウ」と返したには、二つの思いが浮かんだからである。一つは、今や年金組になった連中も多い。どんなジイさん、バアさんになったものか、会ってみたい。それ以上に、コッチがいつ果てるか、分かったものではない。これはもう、生前葬儀みたいなモンだ。二つ目は、10年ぶりのことだ。お互い連絡も取れずに、会いたくても会えない連中も多かろう。これを機会に会わせてやろう、という慈悲である。
    わが狙いは的中し、席上「先生の言うように、久しぶりに会えました。これからは連絡を取りあって…」との声がいくつも寄せられ、その後、我が携帯には「本当に和やかな、良い会でした」と言ったメールも届いて、久しぶりに得意の一時を持ったところであった。ただ、「あんなに、嬉しそうなお爺ちゃんの顔を見るのは初めて」と、中学一年なった孫娘が、誰かに言っていたと知らされたときには、さすがにマイッタ。

    前月中旬以降、上記のような事情もあり、さらにはある大学から論文審査の依頼を受け、審査報告書の締め切りに押された上(何とか間に合わせた)、歯の治療に悩まされ、懊悩と多忙な日々を過ごした。そのため、『手紙』の発信が途絶えたことを、一筆添えさせていただく。

  • 11月6日・月曜日。曇り。
    11月10日・金曜日。雨。やや寒さを覚える。と言って、立冬の時期と言われる寒さではない。

    昨日(11/9)のニューヨークタイムズで、現在のガザの悲惨は想定内であり、これによってパレスチナの平穏は消滅し、戦闘は恒久的になった、とのハマス指導者の言葉を読み、ゾッとする。うすうす分かってはいたが、文字にして読むと、やはり衝撃的であった。彼らは平和なぞまったく望んでいない。それはそうだ。平和を願えば、あんな暴挙は、ハナからしなかった。
    その狙いは、イスラエル国民に突然の暴虐を加えて、彼らの憎しみや復讐心を最大限に煽って、ガザへの無差別な攻撃と、多くの子供を含めた市民への過剰な殺戮を呼び込む。その惨劇と、イスラエルの獰猛さを世界に見せつけ、それをテコに、周辺のレバノン、シリア他親パレスチナ諸国を抱き込み、当地を後に引けないような全面戦争に追い込んだ末、結局、イ国を消滅させることにある。イスラエルも同じ意思を持つとすれば、同地の平和は永久に来ない。今回のガザ侵略でハマスは消滅するかもしれない。しかし、それはハマスの絶滅にはならない。憎しみを糧にした第2、第3のハマスが誕生し、テロの世界的な拡散を呼ぶだろう。
    他方で、ウクライナ戦争がある。その結果次第では、ロシアの狂暴化は避けられず、欧州の安全が危うくなる。中国の海洋進出と周辺国との軋轢、中南米諸国からの、道中の信じがたい惨状をものともせずに押し寄せる、北米への移民圧力は放置できないほどらしい。
    世界中に紛争が起こり、その火種も尽きない。筆者には、これはなにか第二次時世界大戦前夜の様相に見える。それどころか、その後の火力、兵器の進化がもたらした、当時とは比較にならない残忍な破壊力を思えば、事態ははるかに深刻である。そして、こうした状況を丸ごと呑み込むような地球温暖化問題が迫っている。人類はこの挑戦に太刀打ちできるのだろうか。暗澹とする(この項、終わり)。

  • 10月30日・月曜日。晴れ。本日は10/16日付けの文章の続きである。

    前2回の論題は、要約すれば、こうなるか。殺虫剤の普及により、一時、環境衛生境の整わない地域、特にアフリカのような熱帯地方においても、蚊の発生、生息域が縮小し、マラリア、デング熱他の伝染病の蔓延が抑制されつつあった。かくて、人類の勝利が垣間見られたのである。しかし、近年、その潮目は変わり、人類と蚊との戦いは逆転の兆しを見せはじめている。これには、地球温暖化も影響しているという。それ以前には生存しえない寒冷な地域への蚊の進出、生息が可能になってきたからだ。その結果、これまでは一例の発症もなかったマラリアの感染が、合衆国で報告されているように、人類は、地域を超えた、世界的なレベルでの疫病蔓延に向き合わなければならい状況に陥ったのである。
    こうなった最大の原因は、記事によれば、どうやら進化過程にある蚊が、殺虫剤に対する耐性をより早く獲得できるかららしい。人類は蚊の進化のスピードに応じて、殺虫剤の効果を高める対策を取ることはとても出来ない。よって、このレースでは、人類の勝ち目はほとんどないということになる。
    その理由は、実にハッキリしている。殺虫剤の開発には膨大な費用と時間を要する。しかも、その毒性をただ強めれば良い、という分けにはいかない。生物界の環境を破壊するばかりか、人間自身が斃れてしまう。まずは安全性が確保され、同時に蚊に対して有効でなければならない。それらのバランスの取れた薬剤が完成したころには、すでに蚊は別のステージに変わってしまう。これが記事の大まかな要約である。
    かつて、蚊トンボのごとき、という言葉があった。何ら恐れるに足らない、つまらぬ相手だと、ののしる意味で使われていたような気がする。しかし、その最も弱小で、簡単にひねり潰せる相手にすら、我われは今や、最大の恐怖を覚えざるをえなくなった時代にあるらしい。これは、何とも皮肉ではないか。広大な知的世界を誇り、原子力や太陽系を超えて飛び出られるほどの技術力を持ちながら、地上の微小な世界に翻弄される始末である。とすれば筆者は言いたい。我われの知識や技術には、どこまで進んでも不完全と欠陥があるということであり、知識や技術が進めば、やがて一切合切の面倒、困難は解決されのだ、などと思い上がらないことだ。そのことを深く自覚し、何に対しても謙虚でなければ、いずれ我われは自分たちが仕出かした所業に押しつぶされ、結局は身を亡ぼすのではなかろうか。そして、温暖化は、紛れもなくその兆候の一つであるに違いない(この項、終わり)。