• 2月26日・金曜日。晴れ。

    本日のNHK昼のニュースによると、今年度の人口は昨年度に比して11万人減少したとの由である(1億2700万人・減少率0.7パーセント)。これはわが国にとって、国勢調査以来初めてのことであり、遂に我々は人口減少時代に踏み入ったようである。人口動態、その趨勢は慣性の法則の利きが強く、いったん動き出したその傾向はそう簡単には止まらない、とは安蔵氏の言である。とすれば、我々は覚悟して今後の事態に備えなければなるまい。

    人口数の維持のためには、女子が生涯で産む子供の数(合計特殊出生率)が2.1でなければならないとは、昔習った話だが、現在のそれは1.42(2014)であり、これは2005年の1.26よりも改善されているものの、少子化傾向は依然進行中である。この背景には、それこそ多様な要因が絡み、いずれにしてもこの傾向に歯止めをかけることは、歴代の政府の必死の努力にも関わらず、見込みは無い。死亡率以上に出産率が高いために人口が増えることを自然増というが、現在、わが国にはその見込みはほとんどなく、だから人口の回復を図ろうとすれば、国の移民政策の転換を考えなければならないだろう(そうした社会的要因で生ずる人口増を社会増という)。だが、これはこれで別の厄介な問題を抱えざるをえず、一朝にして決せられる政策ではない。殊に、安倍自民党は民族主義的なアイデンティティ-を重視する傾向が強いだけに、益々、困難である。

    こうして現政権が打ち出した対策、政策?が「一億総活躍社会」の創生であろう。その具体的な内容は、家にこもり、社会の片隅に追いやられている女性と老人層の労働・生産現場への狩り出しではないか。それが現実に動き出せば、税制・年金・社会保障関連等の改変を含めた未曾有の社会改造に繋がりかねない大事になろう。加えて、現在、わが列島を取り巻く地政学的な激変が、今後一層、軍事問題を政治のトップイッシュウに押し上げるはずだ。それは結局、国民の意識改革を目指した教育体制の見直しや精神教育の導入、それらを可能にする憲法改変が、政治日程に浮上するものと思われる。

    今日は、こういう問題を扱うつもりでは全くなかった。その準備もなかった。だから前回の話に、それなりの始末を着ければ、オワリ、とするはずであった。そこで、とって着けたようだが、以上を前回の老人問題に引き寄せて、無理にでも結論らしき事を言おうとすれば、こうなるのである。現政権が目論む政策は、果たして「高齢者が一団となって社会の不可欠な部分となりうるような条件を創造しうるであろうか?」。この引用文はここでの議論とは全く関係のない『生と死 極限の医療倫理学』(尾崎和彦著、創言社・2002、325頁)からのものである。にも拘らずこれを引くのは、政権の意図が老い先の限られた人たちの生を捧げるに相応しい条件でありうるのか、と問うてみたいからである。尚、本書については、近いうちに本欄で紹介したい。

  • 2月23日・火曜日、雨のちうす曇り。風ゆるみ、木の芽膨らむ。

    これは友人の安蔵伸治氏(明治大学教授・人口学者)から聞いた話だが、Y市の調査であったか、再就職の必要の無い定年退職者のうちには、公園のベンチで陽のあるうちから缶ビールを空け、日ならずしてアル中になる人が多いとのことであった。だから、わが退職後は、ソンナ研究をしてみたら面白いかもしれない、と進められたのだが、そのような研究上の手法や経験の無い私には、土台無理な話で、それなり打ち捨てにしてしまった。だから、それがどの程度の数値なのか不明だが、これは前便の中邨氏の話とも平仄が合っているようである。

    それにしても、安蔵氏の提案は興味深い。首都圏の退職者たちの一日の生活を、一年ほどかけて調査できれば、それこそ「天国と地獄」の様相がクッキリと見て取ることが出来るかもしれない。同時に、その対策が用意できれば、社会改革としても「一石二鳥」どころではない三鳥、四鳥にもなりそうな効用があるように思う。生き甲斐は若さを維持し、それだけでも介護医療を軽減し、彼らのもつ技術や経験知が若者を教育し・・・等々。

    こんなことは誰でも思いつく事で、ここでわざわざ言うほどのものでもない。ただ、言ってみたいことは、老人問題がこれほど急速かつ深刻な問題として浮上してきたのは、恐らく第二次世界大戦以降のことで、ここには栄養と医療、環境改善などによって長寿社会が実現されたためである。それゆえ、これ自体は誠にお目出度い話であるはずが、今やなにか在るべからざる事態、現象として、国も社会も右往左往している様に、私も一人の老人として不満を感ずるからである。

    大量現象としての長寿は前世紀後半頃、人類が始めて出会った事象であろう。『楢山節考』を深沢七郎が書いたのは昭和31年のことであるが、彼は山間に伝わる民間伝承から素材を獲たというから、貧困にまつわる棄老は昔からあった。しかしそれは、現在の老人問題とは根本的に違う。枯渇した食料事情の中で止む無く、口減らしとして遺棄される老人と、行き届いた環境の中で長寿を迎えた老人との差である。後者は紛れもなく現代の問題である。私の知る文学作品では、丹羽文雄『嫌がらせの年齢』(1948)、有吉佐和子『恍惚の人』(1972)、谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』(1962)が思いつくが、谷崎が息子の嫁に懸想する色呆けた老人の痴態を造形したのに対して、前二書は老人介護問題をまともに扱った。そして、丹羽のそれは現代を予告する凄まじさである。

    「人生五十年」と言われたのは、いつ頃のことであったか。70年代には、既に「古希」の七十歳は稀ではなくなってしまった。統計によれば、わが国の百歳以上の人口は現在7万人に達し、1万を越えたのは1998年のことだと言う。たった18年間で7倍の増加である。大変な数、異常なスピードだ。ここには莫大な額の医療負担、介護問題があるに違いなく、その事があまりに大きく社会・政治経済の問題になりすぎて、その背後にいるさらに大きな数の健全で、活動力に富んだ、だからソノママ昔通りの老人と言ってはならない成人男女?の軍団の存在が閑却されているのではないか。要するに、わが社会は、老人の負の問題ばかりに囚われて、その背後にあるトテツモナイ巨大な可能性に対して全く目が届いていないのではないか。まだ社会、いな世界は、膨大な人々の50歳代以後の人生の豊かさを吸収し、生かしきるそんな社会にはなっていない。そのための仕組み、制度、法律その他関連する施策・施設造りは今後のことであろう。だが、それらが可能になる為には、社会プランやそれを支える思想、理念の構築が、今まさに求められているのではないか。

  • 2月12日・金曜日。うす曇。

    前便のわが主旨は、こんな風に纏められるか。「老人」とは歳(時間)と共に、身内に備わる様々な能力を失いつつある人とみなした。そこには、直ちに社会的な、多様な意味が絡みつく。組織人であれば、その組織の要求を満たし得ない人とされ、そこからの「解放」、つまり退職や引退を余儀なくされる。定年制とは、それを規約として定めた制度である。この仕組みは、規約を持たない自営業、自由業の人とて免れられない強制力を持つだろう。顧客の喪失という形で。

    現在、60歳定年が一般的なようにみえる。しかし、それも職種により多様である。プロ野球人であれば40歳くらいが限度であろうが(過日、山本昌氏・中日ドラゴンズ・が50歳まで現役であったと知り、心底、驚かされた)、他方で90歳近くまで現役の教授を勤めた時代もあったようだ。私の学生時代には、政争に明け暮れた自民党では、7、80歳の最長老議員たちが2,3日の徹夜をものともせず、返ってツヤツヤした顔をテレビに曝していた事が思い出される。まさに驚異的な体力という他はない。

    だから、この60歳定年制は一つの目安に過ぎない。こんな当たり前のことをワザワザ言うのは、60歳で切られた人たちの能力の行く末についてである。先ず問うべき事は、現在、この歳に達した人々は、真実、その能力、才能(体力、精神力、技術力等々)を失った人々であろうか。そう本気で思っている経営トップはほとんどあるまいと思う。定年制の唯一合理的な説明は、後進の育成とそれによる組織の活性化を図る事ではないのか。やはり、組織的な代謝を欠けば、マンネリズムに陥り、時代の変動に対応し得ないからである。また、上がつかえて若者が活躍できない社会は、不幸であるにちがいない。

    このように問題を整理し、摘記してみれば、今我々が抱える老人問題は、入り組み、難問に見えようとも、案外簡単であるのかもしれない。過日、こんな記述を目にした。定年退職者は、「天国」から「地獄」への遍歴を免れない。その心は、会社の業務や責任、日々の通勤から、その日を限りに、一転、全く解放され、自由な生活を送れるようになるからだ。しかし、その自由は、大方にとって、先ずは「蕎麦打ち」、陶器に向けられるが、そんな事は直ちに飽きて(それはソウだ。才能と素養も無い素人がそんな事に手を出して、その奥深さと面白みを実感できるわけも無い)、あとは何も無い無聊、退屈が襲ってくると言うことである(中邨章『地方議会人の挑戦』より)。

    そこで中邨氏はこんな提案をされる。議会人はそういう人たちに積極的に働きかけ、議会の活性化のために、審議のモニター、議案に対する質問権を与え、地方議会への関心を喚起し、市政を住民のものにしていく仕組み作りである。市政は地域住民にとって最も身近で切実な政治でありながら、市民からあまり省みられないような事態が一般的であるのは、地域にとって(いや、日本国にとっても)一大不幸である。この提案のようにして、定年退職者たちに生きがいの場が与えられ、同時に市政の蘇生がなされるならば、そんなメデタイことはあるまい。だがそのためには、現行の議会制度をより自由にし、住民との距離感をなくそうとする議会人たちの努力が第一であろう、とは氏の指摘である(そうした先進的な取り組みしている市会もいくつかあるようだが)(中途だが用事のため、今日はここまで)。

  • 2月5日・金曜日。晴れ。昨日、立春。日差しやや強まり、寒さ和らぐ。

    本日は、老人問題なるものを、私を材料に考えてみよう。現在、65歳以上の高齢者の占める人口比率はほぼ25、6パーセント、2030年頃には3割に達すると言われ、これ等を受け、今後は益々年金、医療その他の老人用の経費とその負担増は避けられない等、なにかと喧しい。老人とは、それほどにまで社会の荷物であるとなれば、今年73歳になる私としても、何か社会に対して相すまぬような、肩身の狭い思いがしないでもない。

    先ず、老人とはいかなる存在であろうか。最初にくるのは、年齢、歳である。それが全て、と言ってもよい位だ。わが手元には、「健康保険高齢受給者証」なる保険証がある。このように社会、ここでは国家は、ある年齢以上の人間を、その属性、特性、資質その他全てを切り捨て一律に、「貴方は高齢者ですよ」と徴表(メルクマール)を貼り付け、それに見合った扱いをしてくれる。それは人によっては迷惑千万な押し付けになるかもしれないが、私には悪いものではない。疲れたときに座席を譲られ、大手を振って「優先席」に座れるのは、自分が大事にされているような気分にもなれる。過日の新聞で、座席を譲った老人からエラク怒鳴られた、と嘆く一高校生の投書と読者の様々な反応を読んだが、私も多くの読者同様、可哀相な目にあわせたとの印象である。「老人道を踏み外した奴メ」と言っておこう。

    「年齢」には、実に多様で決定的な意味が込められ、ジッと考えると、それは驚くばかりである(かつては「性差」もそれに近い意味があったように思うが、現在はそれほどではないだろう)。年齢の進行と共に担う役割、責任、義務の増大と自由の拡大など、上げればキリはない。勿論、その「年齢」の背後に、知力、体力、精神力その他能力の発育、成長が想定されているからこそのことである。そして、それらの能力は先ずは教育制度の中で切れ目無く、多様で精密な試験を通じて測られ、ランク付けされ、社会に出てからは、各人は夫々の組織において最後の計測がなされるであろう。

    「老人」とは、そのような社会の枠組みから、ある日突然、解放される、と言えば聞こえはイイが、追放された人々、と言ってみたくなるような面があるように見える。つまり、ある年齢以上に達した人は、普通、統計的に見て、その組織(それはまた、社会)の求める能力を失った、それ故そこに留まる資格を欠いた人とみなして、そこから制度的に(という事は強制的に)お引取り願うことになる。

    こんな風に、イジワルク、多少戯画的に描いてみたが、しかし自分をこれに即して測ってみれば、それほど的外れだとも思えない。若い頃に比べれば、無理は利かず、体力、精神力、忍耐力の減退はやはり認めざるをえない。キレ易い老人を随分見てきた経験から、「俺は、アアは成るまい」と決意した私だが、先人の轍をチャンと歩んでいるではないか。

    このように見ると、老人とは、確かにある無能力者に近づいていく者であると言えるが、しかしそれも千差万別である事は、全ての人の知るところである。ある人の言葉を思い出す。「赤ん坊はみな同じ顔であるが、老人はみな違う。しかし、死に近づいた人の顔はまた同じになる」。五十歳を超えると、生活の履歴が全て顔に出る、とも聞かされた。それも良く分かる。だが、それまで培われた能力が、年齢と共に、より磨きをかけられ、輝きを増し、体力は失われても、知性、洞察力の深みに驚嘆させられた事も多い。

    私が子供の頃にみた七、八十歳の老人に比べた今の人たちの達者な事と言ったら、雲泥の差である。住環境、食事、医療等々の恩恵を受けての事であるが、確かに老人人口の比率の上昇、それによる病人、介護等の負担の増大は無視し得ないにしても、それ以上に元気で、青年にも劣らぬ清新さと経験知に裏付けされた洞察力をもった「老人」達の多い事も事実である。こうした人々を多様な場に用い、若者たちと共に働き、活躍できる社会造りが必要だと思う。折りしも、安倍総理は「一億総活躍社会」の建設を歌っているところでもある。これが、単に老人達にハッパをかけ、介護や病院治療費の削減を目指す、ソンナ意図に発したものでない事を、心より願うばかりだ。

  • 1月28日・木曜日。晴れ。

    記憶だけの話で申し訳ないが(と言って、これまでもズットそうだったのだから、今更体裁をつけるまでも無いのだが)、渡辺京二『逝きし世の面影』の中で、江戸期では子供たちは実に暖かく、愛情深く育てられ、その成長ぶりを大人たち皆が楽しんでいる様子が細やかに描かれていた。ことに、五、六歳までの子供たちは武士も町民も変わりなく、甘やかし放題の可愛がりようであったそうだ。しかし、ある歳になると(たしか七歳の祝いであったか)、子供たちは身分や家業に応じた厳しい躾を受ける事になる。一日を境に、彼らは昨日までの生活とはまるで違った世界に入るわけだが、それをいとも容易に受け入れいれ、大人から見ても厄介な儀式、仕来りを、大人びた顔付きと振舞いを持って、難なくこなしていったらしい。これら一切を目の当たりにした西洋人たちの驚愕は、私にもよく分かる。

    こんな子育てに明け暮れる大人たちの生活は、ドウか。人々のたれも彼もが、分に応じて家の内そとに花木をあしらい、丹精し、これを愛でて飽かない。ある春の一日、江戸に住する西洋人の二三人が馬上の人となり、そんな江戸の町を散策しながらいつしか巣鴨を越え、板橋辺りまでも駆け抜けるその間、切れ目無く多様な花木が咲き、菜園の広がる景観に、さながら桃源郷に踏み入った思いであったという。これも我が怪しげな記憶に過ぎないが、わが国の植物採集に執着したシーボルトが椿をオランダに持ち帰り、ヨーロッパに根付かせたと聞くが、こんなことが出来たのも、こうした文化があったればこそであろう。ちなみに、当時の日本の花木の栽培は、中国を抜き世界でも第一等であったらしい(中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書)。そして、私がこんな椿談に及んだのは、わがドイツ留学のおり、知日家のドイツ人に向けて、あなた方にとって、日本人の桜と同様な意味を持つ花をあげるとすれば、何か、と問うたところ、ややあって「カメーリア」と答えた話を思い出したからだ。彼は椿が日本から齎されたことを知っていただろうか。

    こうした花鳥や風月に身を寄せ、湯に行き、酒を飲み、ときに男は遊郭に、女は芝居に熱を上げ、あるいは伊勢参りや富士講を楽しみにする生活とは、一言で言えば、「ユトリ」に尽きよう。こんな世界の生活ぶりは江戸落語や京伝、春水らの幾つかを見れば、たしかに得心させられるだろう。

    私がここで言いたい事は、子供を取り巻く大人たちの生活ぶりについてである。彼らが明日を煩うことなく、楽しみと慰めに囲まれてあれば、セカセカ、イライラしながら、背中に貼り付けられた油紙を燃やされる思いで日々を過ごさねばならない人たちに比べて、どれほど幸せであるか計り知れない。その時、我々を取り巻く様々な文明の利器がどれほどなかろうとである。それらは、確かに、生活上の重要な一要件である事は認めても、断じて必須の、他の全てに先行する重要事ではないのである。

    かつて、我々の先人たちはこれほどにまで優しく、豊かに暮らしていた。この話を次と比べて、人はどう考えるべきであろう。我々は江戸の人々よりも、進歩している、幸せであると、胸を張って言えるであろうか。昨日、三歳の男の子が食事中、同居の男の目と合って、彼は「ガンをつけられた」事に腹を立て、殴る蹴るの暴行の末、遂に殺害してしまった。この男はそれまでも、日常的に暴力を振るい、子供の泣き叫ぶ声は常軌を逸した程であったという。大人が小児にそこまで荒れ狂える事の尋常ならざる事態に恐れを覚える。彼は暴力団員であったから、例外だとはならない。最近の子供に対する親たちの打擲はこれに通ずる狂気、冷酷、執拗さがあり、しかもそれらを躾と取り繕って済ませる無恥と共に、ここには現在の我々日本人の心底で、何か心情の破壊が生じたという思いを突きつけられるが、如何であろうか。

    かの男は言っている。「やった事は、やった。」そして、自分の人生に対する未練もない、と。だから彼の心には、こんな惨忍な殺害をしてさえ、その子供への憐憫と悔悟の一片も思い浮かんでこないらしい。これもまた、人間の底に潜む心情の一つに違いなかろうが、しかし自らを粗末にする者は他者の命をも塵芥として扱う事に、何の躊躇もないと思い知らされるのである。

    何をドウすべきかは、私にも分からない。