• 8月4日・木曜日。熱暑。本日、地下鉄(銀座線)内にて、不良外人と日本人のバカ女に対し、「ウルサイ」と一喝。危うく命を落とすところなり?人生、一寸先は闇、つくづく思う。これもまた、こんな題材にいつまでも関わっているためか。

    カルヴァン的な予定説の詳細はともかく、死後の魂の行方、すなわち地獄か天国か、はすでに決定済みの事である、とはジッと考えると、何とも不気味である。特に、この問題こそ人生の一大事と信ずる人々にとっては、一日も心休まることはあるまい。娑婆の生活はたかが百年、アッチは無限の長さである。その間、際限のない、手を変え品を変えた、地獄の業苦に苛まれるのである。しかも、それを免れ、なんとか天国に潜り込もうとする手立てであろう善行、善意その他あらゆる生き様は意味が無いとされる。確かに、それらによって、かつて下された決定に変更が生ずるとなれば、神の無謬性は否定されるに違いない。

    その結果はどうなる。極端に言えば、善悪の基準の崩壊である。ここでは、善人も悪人もないことになる。社会秩序やその生活を守るための刑罰はありえても、それは一つの手段、方便であり、根源的な「罪」の問題に触れる事であろうとは思えない。告白するが、私はいまだに「罪」の問題がよく分からないのである。太宰は『人間失格』でこれに触れ、ドストの『罪と罰』に言及しているが、私には両書のこの辺りは今もって不明であるから、結局分かっていないのだろう。

    ともかく、宿命論に立つ限り、現在の刑法は成り立たない。ここでは、健全な判断力を持つ自立した個人と彼の自由意思が大前提とさる。これに基づいて成される彼の行為の結果には、良くも悪くも、結果責任が発生する。これは、かれ一個の自由な判断と行為によって引き起こされたからである。だから、精神障害者をはじめ判断力を失ったと認定された者の犯行は犯罪ではなくなる。だがこうした理屈は、一つの擬制ではなかろうか。惹起された出来事は、如何に明確に見えようとも、一から十まで彼一個の自由な判断とその行為の結果である、と完璧に証明など出来ようはずがないからだ。

    ワスレテイタ。先の宿命論と善悪の問題に戻ろう。まずここでは、現代刑法の論理を全て認めることにしよう(もっともそれは、私が勝手に解釈したものだが)。そして、これをオディプスの事例に当てはめてみよう。果たして彼は有罪か。否、無罪である。彼の所業の全ては、糾弾されるべき犯罪である。これらを許せば、社会は存立しない。彼自身その事を十分以上に弁えていた。それゆえにこそ、彼は両眼を抉り、娘を杖に放浪の旅に出たのである。にもかかわらず、彼は無罪である。彼の悪行は、すでに知ったように、彼の意思の結果では無かったからである。ソフォクレス自身が、後に書く『コロノスのオディプス』でこのことを明らかにした。オディプスは、己が身の穢れを認めながら、だがしかし父殺し、母との婚姻と言う近親相姦の「罪」は免れているとの自覚をもって、安心の内に死にえたのである。

    宿命論には、こうした道徳原理に触れる重大な問題性が潜む。じつは、カルヴァンの予定説に対してもそうした批判があったのである。これを認めてしまえば、人の努力、徳行は無に帰する。何をしようと、あの世に対しては無意味だからだ。だが、カルヴィニズムがその様な道徳の堕落をきたさず、むしろ信徒たちの精神と生活の規律を錬成し、彼らは経済活動において史上最も生産的な活力、発展力、要するにダイナミズムを発揮し、ついに近代資本主義の成立に寄与しえた、との説を展開したのがヴェーバーであった。しかし、これについては既にどこかで言ったような気がするので、ここでは触れない(あと一点、言うことがあるが、それは次回)。

  • 8月1日・月曜日、にわか雨。愈々、葉月、蝉頻りなり。

    人の生がママならぬは、昔も今も変わらない。善意と能力と努力のすべてを賭けて打ち込もうと、事態の改善どころか、悪化の一途をたどって、ついに奈落に落ち込む話は、個人や組織、あるいは国家も含めて、世上、珍しいことではない。むしろ、人々のそうした必死の努力にもかかわらず、結局は破滅して行かざるをえない経過の中に、類まれなる勇気や献身、忠誠や信義に殉じようとする人間の強さ、潔さ、或いは美学を見、一場の『悲劇』が誕生するのであろう(しかしソウハ言っても、わが身にだけは、そんな事態が起こらん事を、タダ祈るばかりだ)。

    そんな人生の如何ともしがたい悲惨や不運、不条理を、往時のギリシャ人は人々や神々から懸けられた怨念、呪詛に由来すると考えた。それは人の努力、能力をはるかに超えた圧倒的な、時に神々ですら逃れようのない宿命的とも言うべき力をもった。例えば、オディプスの父ライオスは、彼を世話したペロプス王の子・クリュシッポッスを死に至らしめたことからペロプスの呪いを受け、その成就の責任をオディプスが一身に引き受けざるを得なくなった(7月15日参照)。あるいは、ゼウスが人妻アルクメネと通じて生まれたヘラクレスは、ヘラ(ゼウスの妻)の徹底的な嫉妬と憎しみの故に、数々の試練に会い、最後は、ケンタウロスの呪いによって無残な死を遂げざるを得なかったのである。

    ギリシャ神話やそれを基にした悲劇には、そんな物語が尽きない(と言って、そんなに知っている訳ではナイが)。いずれにせよ、これらを通じて浮き上がる当時の人々の考え方が、私には面白い。ここには、人間の可笑しみ、悲しみ、要するに人間の本性を抉り取る思考の素材や原基がハッキリとした形で提示され、それ故に後世に対する影響力を持ちえたのであろう。古典とはそういうものではないか。

    この項の一連の話は、元は内田義彦先生が漏らされたギリシャ人の宿命論的な考え方に触発されたからであった。それは、人の生とは自分の努力を超えたところで決められているような、そんな最近の我が感懐に触れるものでもあったからである。誤解を避けるために言っておくが、私は心霊主義者ではない。これまで、ささやかながら、経済思想史やら科学方法論の文献に触れながら、生起の一切は原因と結果の連鎖の中で生じ、それらの現象全ては、それを成り立たせる諸要因の性質やその規則性によって規定される。だから、それらの規則性を超え、否定するような神意や運、天意、あるいは呪詛、魔術、祈祷の一切は無効・無縁であると学んできたのである。そうした事は、これまでも折に触れ述べてきた。

    しかし、である。いま、齢73年のこれまでの我が生を俯瞰すると、そんな因果論的な説明では何とも収まり切れない、割り切れない思いが、ジワジワとくすぶって来た。ここには、何か私の生に介在する意思を感ずるのである。これについては、まだここで告白する気にはなれない。永遠にないかも知れない。原稿料も取らない、コンナところで言ってたまるか、との思いもある。

    最後に一つ、言い添えておこう。己が意思を超えたところで人生が決定されるという思考は、ギリシャの時代の古い迷信の類で終わらない。ギリシャでは多神教であるが、ユダヤになれば一神教、道教では道(タオ)、仏教ではカルマ(業)として信じられる。それに立ち入る能力はないから止めるが、ヴェーバーによれば、近代資本主義の発生に極めて重要な役割を担ったのは、カルヴァンによって彫琢された「予定説」(死後における魂の救いは永遠の昔に、神によって決定されたことだとの説)であるとされ、これは究極の宿命論である(本日はこれまで。次回でこの項終わりの予定)。

  • 7月25日・月曜日。曇天なるも、蒸し暑し。

    前回の話を一言にしてまとめれば、テーベの住民を苦しめる疫病の原因を探り、これを除去する事、それをオディプスは王の務めとして誠実に、妥協の余地なく実行し、ついに完遂した。だが、その事自身が悲劇であった。ここに、人は何とも言いようのない人生上の皮肉、不条理をみるのである。ソフォクレスはそれを、一場の劇空間の中に圧縮し、見事に提示したのである。この劇が後代に及ぼした影響は計り知れないものがあったろう。

    さきに私は、善意思なる言葉をさかんに使った。それと言うのも、カントが『道徳形而上学原論』の中で(だと思うが)、ある人に卓越した能力、例えば政治力、経済力、あるいは研究能力等でいかに恵まれていようとも、そこに善意思を欠いていれば、その所業それ自体遺憾ともしがたい、のみならず彼の能力が優れていれば、それだけ結果は惨いものになると指摘していたように記憶しているが、そのことに触発されたからである。他方、本書では、人間を手段としてしか見ない「手段の王国」に対して、人をその在るがまま認め、尊重する「目的の王国」を対置しており、私はそうした王国の建設をこそ目指したいものだと、若き心(私にも確かにそんな時代があったのである)を揺さぶられたものである。しかし、ソフォクレスのこの話は、そんな思いを破壊するに十分のものがある(今日はこれまで。実は前回の文章に手をいれ、二か月分の全文を読み直していたため)。

  • 7月20日・水曜日。晴れ、暑し。(7月22日・金曜日。雨。なお、本日は前回の補足、修正として。 驟雨さり 杜を揺すぶる 蝉しぐれ)

    父ライオスは誕生した我が子を直ちに始末しようと、キタイロンなる山中に遺棄させる(私には、ドコの山かはサッパリ)。しかも、両足のかかとをピンで刺し貫かせて。そのため両足が膨らみ、オディプスと呼ばれる彼の名は、これにちなむという。しかし、乳児は死ななかった。隣国コリントの羊飼いに拾われ、コリント王、ポリュボス夫妻の許に届けられるが、子供のいない彼らは我が子として引き取った。かくて、彼は王位の継承者ともなった。だが、長ずるに及び、自らの出生に疑念を抱いた彼は、全ギリシャ人の尊崇を受けるデルフォイの神殿に詣で、「父を弑逆し、母を娶る定めにあり」との驚愕の神託をうける。この予言は、断じて成就させる分けにはいかぬ。彼はコリントへの帰還を断念し、テーベに向かうが、丁度「三又の道」の所で一人の男と出会う。その折の彼の振る舞いは余りに無礼であった。ついに争いとなり、彼を殺してしまう。その男こそテーベからやって来たライオスであった。

    折しもテーベでは、スフィンクスが跋扈し、怪しげな謎を掛けては人間を食らうという凶事が、住民を困惑と恐怖に落とし込んでいた。オディプスはその謎を解き、スフィンクスを退治し、その功によりテーベ王に迎えられる。同時にライオスの妻であるイオカステを娶った。そうしてかれは、二人の息子と二人の娘の親となった。

    ここに『悲劇』の幕が開く。一般に、ギリシャ悲劇は、筋全体が書かれることはない。主題のクライマックスだけが切り取られ、劇化されるのである。すでに言ったことだが、観客には筋の全貌は周知の事で、今度の上演作がどう改編、脚色されて、新たな世界を提示するのか。これを観に来るのである。

    エディプス王の話は、神話やホメロスの中でもかなり出来上がっていたようだ。ここでのソフォクレスの創意は「王の秘密の素性探索の経路」(高津春繁)にある、と言われる。これについては、一言、補足しておかなければならない。

    まず、これに至る筋道を振り返ってみよう。それぞれの人たちは、すべて己の意思と決断によって、だから自らが自らの主となってその行動を決してきた。しかも、エディプスやライオス、イオカステもテーベにおいては何ら咎められるべき悪事を犯してはいない。まして、エディプスは父殺しの罪を負うまいと、自ら故郷をすてたのである。そうした善意思の集積が、結局、予言を成就させてしまうという、人の生の宿命とその恐怖である。作者は彼の苦しみをこう言わせた。

    「おお、キタイロンよ、なぜおれをかくまった?この素性をおれが世にあばかぬように、どうして受け取った。その時に、すぐさまおれを殺してくれなかった?おお、ポリュボス殿、コリントスよ、名のみ父祖の古い館よ、お前が育てたこのおれは、表はきれいだが、なんとその裏にはうみをもった子であったか!おれは今や悪者で、悪い生まれであることがわかった。おお、三つの道よ、かくれた谷間よ、三つまたの道の藪と細道よ、お前たちは血を分けた父上の血をおれの手から飲んだな。覚えているであろう、おれがお前たちの面前で何をしたかを、それからここに来て、また何を行ったかを。おお、結婚よ、お前はおれを生み、同じ女から子を世に送り、父親、兄弟、息子の、また花嫁、妻、母のおぞましい縁を、そうだ、人のあいだでこの上もない屈辱をつくり出した。だが、けがらわしい行いは、口にするだにけがらわしい」。そして、この醜悪な己が所業の数々を見まいと、両眼を抉ったのである。

    では、この素性は如何にして暴かれたのか。オディプスの治めるテーベは、今、町を滅ぼしかねない疫病の蔓延のさなかにあった。住民たちは神官をとうして王に嘆願し、快癒を願い出る。だが、王は彼らの苦悩を聞くまでもなく、すでにデルポイの神殿に遣わした使者の答えを待つところであった。漸く届けられた神託によれば、この町を覆う血の穢れをはらうべし。すなわち、前王ライオスを殺めた下手人をあげ、この者を追放、もしくは彼の血をもってライオスの血を贖うことだという。

    オディプスはその探索に全力あげ、こう神かけて誓う。誰であれ、下手人は「その幸なき命を悪人にふさわしく不幸にすりへらすように。またわたしは、われとわが身に呪いをかける。もし彼が、わたしの合意の上で、わが家のかまどを分かつ者となれば、たった今ほかの者にかけた呪いをこの身に蒙るようにと。」

    当初、ライオスは盗賊に殺されたと伝えられていた場所が、かの「三又の道」であり、あるいはキタイロンに遺棄された子供はコリントに届けられたとの知らせを受けるに及んで、先ずは妻のイオカステが事の重大さに気づき、探索の中断を願うが、王は一途に突き進む。ここに、妻であり母は、絶望のあまり縊死してしまう。

    先に私は、善意思についてふれた。そこには恐らく、誠実さも入るであろう。かれは自身の誓いを誠実に果たそうとした。その結果が、己や周囲の者たち全てを巻き込む、救いようのない悲惨、破滅であった。こうして、作者は善行、善意思が、必ずしも人の幸福をもたらす分けでないという、人生上の悲惨、あるいは皮肉をあからさまにしたのである。観客は、一見平穏そうに見える自身の生活が音もなく変貌し、地獄の深淵が大口を開け、今にも自分を飲み込もうと待ち構えているかもしれない、こんな恐怖に慄然としたであろう(以下次回)。

  • 7月15日・金曜日。二日続きの雨と涼夜を得て、連日の出勤による疲労和らぐ。

    マッタク無案内な世界をさ迷って、来週で二月になるらしい。どうせ、宛てのある旅路でもなく、それは構わないのだが、私は何を語りたくてこんな回り道をしているのだろう。初志を忘れそうになってきた。今日あたりケリをつけたい。が、それもヤッテ見なければ分からない。

    ソオだ!『オディプス王』の話であった。その筋書きについては、すでに何処かで書いたので、繰り返さない。ここでは、彼がなぜ父を殺し、母を妻とし、両眼をくり抜き、放浪の身となったかである。これには、その前史がある。彼の父であるライオスが乳児の時に父(すなわち、オディプスの祖父)を亡くし、このライオスが成人するまでの保護者となったリュコス(彼は都市国家テーベの執政である)も主神ゼウスの血筋に連なる双子(勿論、名前があるが、これを言えば名前の連続になり、益々、話がヤヤコシクなる)に殺される。止む無く、ライオスはテーベからペロプス王(彼はペロポネス半島の呼び名の元である)の下に身を寄せるが、幸い王からの信頼を得た彼は、息子クリュシッポスの教育係となった。だが、その彼は美形であった。ライオスは少年を愛し、彼をカドワカシ、結局、死に追いやってしまった。かくて、父親ペロプスからの呪いがかけられる。「己が息子に殺されよ」。

    時いたり、テーベの簒奪者であるかの双子(アンフィオンとゼトス)も亡くなり、その国王となったライオスはイオカステを妻に迎える。だが、彼はあの呪いを忘れていなかった。いや、忘れようもない。伺いを立てた神託も無情であった。王は呪いの成就を恐れて、妻との接触を拒んでいたが、自ら立てた禁忌も哀れ、酒の酔いに我をわすれた。たったの一度の過ちが、オディプスの誕生である。よくある話だ。男子たるもの、ヨクヨク、肝に銘じられよ。否、これは腹の底まで染みついた、何度も心に言い聞かせた銘記ではあっても、多くは事の終わった後に再び思い出される銘記に過ぎないのだが(今日はここまで)。