2016年8月30日,9月2日

8月30日・火曜日。蒸し暑し。関東地方、朦朧台風の襲来免れるも、東北地方に上陸の予想。彼の地の惨害を思う。(9月2日・金曜日。台風余波、蒸し暑し。前回の予感的中し、言葉も無し)。

もしかしたら、大雑把ながら、国別の総合メダル獲得順位を記憶された方が多いかもしれない。新聞では、推移するメダル獲得数が毎日掲載されていたからである。それだけ読者の関心が強いからであるが、他方、そうした報道が、我々の興味をその点に駆り立てる向きもあったかもしれない。たしかに、日本選手たちへの無心な応援とそれに応えようとする必死のプレイ、そのようなシーンに我々は魅了され、一喜一憂するのであるが、しかしそれは日本人選手だからであり、メダルに手が掛かっているのだ、「もう少しだ、ガンバレ」と思う、そのような面がないわけではなかろう。つまり、我々はスポーツ観戦を、その美しさと躍動、スリルとドラマを純粋に楽しんでいる訳ではない、と言ってみたくなるのである。「そんなことはない。スポーツは何を見ても、感動できる」、と断固主張される御仁には、思い描いてごらんなさい。日本人選手が出場しないか、まるで歯が立たない相手との試合にどれだけの熱意を込めて観戦できるか。たしかに、そのような人のいることは理解できるが、それは、多分、一般的ではなかろう。もっとも、これは私を基準としての話しであるのだが。とすれば、私にはその程度の鑑賞力しかない、という何とも身もふたもない話になってしまった。

私の事はともあれ、以上の話に多少とも真実味があるとすれば、それは何を意味しようか。メダルの獲得とスポーツ観戦とは、本来、無関係なはずであった。メダルはあくまで結果である。そして、それを獲得出来た選手にとっては、メダルは彼の才能とそれに至る必死の努力を象徴し、それを称えるものでしかなかったはずである。アマチュアのメダルや賞状とは、本来、そういうものであろう。私も将棋の4段位の免状を持っているが、それを手にした時(今、数えてみれば、32年前の1984年の事で、そのためには将棋連盟に、確か4万円也を収めなければならず、周りからは随分笑われたものだ)、何かカネには代えられない無上の喜びを感じたのを覚えている。その余韻はいまだに続いており、しかも時折、将棋にまつわる怪しげな話でこれまでに当初の出費以上を手にしているのだから、カリにも不満めいたことを言えたギリではないのであるが。

しかし、である。事がオリンピック級のメダルとなれば、話はまるで違って来よう。それは直ちに、スポーツ界をこえた社会的名声や地位と同時に、富と結びつく。その圏内にある選手にとっては、メダル獲得が第一義となるであろう。ここには、彼のアスリートとしての名誉と存在がかかる。のみならず、周囲の期待(その範囲がどれほどのものかを考えれば、呆然とする。銀メダルに留まった吉田沙保里は国家的責任を感じて涙した)に応えなければならないという責任と重圧。このとき、彼らにとってスポーツは楽しみではなく、メダル獲得が至上命題となった、是非とも果たすべき仕事、義務となる。こうして、競技の結果として得られるはずのメダルは、その獲得こそが目的となる。主と従の関係が逆転するのである。マルクスならさしずめこれを「物神崇拝」と呼んだであろう。しかもこのような転倒は、個人のレベルに留まらない。メダルは国家にとっても大きな、それどころか巨大な意味を帯びてこよう。多くのメダリストを擁する国は、それだけ身体能力の高い、優秀な国民からなり、健全にして健康、不屈の精神力に富む「世界に冠たる祖国」(かつてのドイツ国歌の一節)を体現するであろう。

スポーツ振興は国民の心身を育成するばかりか、ラグビーのような団体スポーツでは「ONE for ALL、ALL for ONE」の言葉が示すように、自己犠牲を厭わず、また全体は一人を見捨てず、というチームワークの精神を涵養する。国民教育と国家統治にとってこれほどの機関、装置はまたとあるまい。

以上の話は、これまで多くの人々によって説かれてきた事で目新しいことは何もない。ただ、今回のオリンピックで考えさせられたのは、スポーツへのこうした国家的な関わりが一層顕著に、より組織的になって来たのではないかという思いである。毎日新聞(2016年8月22日・朝刊・3面)には「五輪「国策」で躍進」が掲載され、「リオ 日本最多メダル」と「予算最高324億円/「ゴールドプラン」」の見出しが躍る。サヨウ!今回わが国が史上最多メダルに輝いたのは、選手たちの必死の努力の背後に、膨大な予算に裏打ちされた、国家的なてこ入れがあったからでもある。まずは、国内外からの優秀な指導者たちの招請と指導体制の刷新、栄養学からスポーツ医学、情報戦略のほか関係するあらゆる知的体系の導入、動員、極めつけは国立スポーツセンター、ナショナルトレーニングセンターの設立等々があったのである。しかもこのような動きは最近に始まった事ではなく、その出発点は既に、1996年アトランタ五輪の惨敗を端緒としたというから、早や20年前の事であった。

こうした状況を、どう考えたら良いのだろう。国家がここまで必死にスポーツ、殊にオリンピックに介入しようとするには、考えなければならない大きな理由がある、と見る必要はないのだろうか。そんなことは、フーコ的な斜に構えた、単なる杞憂でしかないのだろうか。それとは別に、上では故意に保留にしてきた論点もある。すなわち、スポーツ振興やオリンピックの招致が齎す経済的効果である。オリンピックの招致運動前後から開催までのほぼ十年に及ぶ、マスタープランに即した計画立案、広報、宿泊、輸送、その他様々な基盤整備のための膨大な建設事業が切れ目なく続く。それによる巨大な経済的活性化は、デフレ下に苦しむ現政府にとって非常な魅力であるにちがいない。それは、わが国のような経済的に成熟した先進国にあっては、もはや国内に巨大な有効需要を創出する余地がなくなっているだけに、逃すことのできないチャンスでもある。だが、再び問う。本当にそれだけなのであろうか。

ただ、ここではつぎの一点は、是非、言っておかなければならない。国家的なスポーツ振興は、何もわが国だけの話ではない、という当たり前のことである。旧共産圏のそれは言わずもがな、その後継であるロシアの国家ぐるみのドーピング問題は、そうした国家によるスポーツ利用の根深さを如実に示すものであろう。さらに、今回のオリンピックのメダル獲得の上位国は、ブリックスに入るロシア、中国を除けば経済力のある先進国で占められ、それを見ても、オリンピックはすでに国家的総合力を競う場になっていると言いたい。そして、それはオリンピックだけの話ではない。ノーベル賞受賞国の順位でもあるのだ。

もはや、スポーツ、学問研究以外の様々の分野でも、個人の才能と努力だけで事が成し遂げられる時代は去ったのであろう。途方もない資金力をベースに、全てが組織化され、巨大化されると供に、あらゆる分野の動員と統合がなされ、またそうした余力のない、あるいはこれらの事態に対応出来ない組織や国家はドロップアウトさせられる時代になったのか。それどころか、国家レベルですら間に合わない、超国家的な組織の出現を見るのであろうか。その結果、極微化された個人の存在はどうなるのであろう。日常生活における人々の生きがいや充足は、そうした巨大組織の目的、都合によって無残にもオシツブされるだけなのだろうか。

最後に、コンナ世界の潮流の中で、THE JAPAN TIMES(SATURDAY ,AUGUST 13,2016)の記事は何かホットさせるものがある。コソボの女性柔道選手、フィリピンの女性ウェイトリフター、インドのホッケー選手らは、資金はオロカ、練習用の施設もコーチもないまま、ただ自己流かネットの映像を参考にして、鍛錬し、技術を磨いてメダルを手にしたと言うのである。これこそ真のメダリストではないだろうか。


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