2016年8月1日

8月1日・月曜日、にわか雨。愈々、葉月、蝉頻りなり。

人の生がママならぬは、昔も今も変わらない。善意と能力と努力のすべてを賭けて打ち込もうと、事態の改善どころか、悪化の一途をたどって、ついに奈落に落ち込む話は、個人や組織、あるいは国家も含めて、世上、珍しいことではない。むしろ、人々のそうした必死の努力にもかかわらず、結局は破滅して行かざるをえない経過の中に、類まれなる勇気や献身、忠誠や信義に殉じようとする人間の強さ、潔さ、或いは美学を見、一場の『悲劇』が誕生するのであろう(しかしソウハ言っても、わが身にだけは、そんな事態が起こらん事を、タダ祈るばかりだ)。

そんな人生の如何ともしがたい悲惨や不運、不条理を、往時のギリシャ人は人々や神々から懸けられた怨念、呪詛に由来すると考えた。それは人の努力、能力をはるかに超えた圧倒的な、時に神々ですら逃れようのない宿命的とも言うべき力をもった。例えば、オディプスの父ライオスは、彼を世話したペロプス王の子・クリュシッポッスを死に至らしめたことからペロプスの呪いを受け、その成就の責任をオディプスが一身に引き受けざるを得なくなった(7月15日参照)。あるいは、ゼウスが人妻アルクメネと通じて生まれたヘラクレスは、ヘラ(ゼウスの妻)の徹底的な嫉妬と憎しみの故に、数々の試練に会い、最後は、ケンタウロスの呪いによって無残な死を遂げざるを得なかったのである。

ギリシャ神話やそれを基にした悲劇には、そんな物語が尽きない(と言って、そんなに知っている訳ではナイが)。いずれにせよ、これらを通じて浮き上がる当時の人々の考え方が、私には面白い。ここには、人間の可笑しみ、悲しみ、要するに人間の本性を抉り取る思考の素材や原基がハッキリとした形で提示され、それ故に後世に対する影響力を持ちえたのであろう。古典とはそういうものではないか。

この項の一連の話は、元は内田義彦先生が漏らされたギリシャ人の宿命論的な考え方に触発されたからであった。それは、人の生とは自分の努力を超えたところで決められているような、そんな最近の我が感懐に触れるものでもあったからである。誤解を避けるために言っておくが、私は心霊主義者ではない。これまで、ささやかながら、経済思想史やら科学方法論の文献に触れながら、生起の一切は原因と結果の連鎖の中で生じ、それらの現象全ては、それを成り立たせる諸要因の性質やその規則性によって規定される。だから、それらの規則性を超え、否定するような神意や運、天意、あるいは呪詛、魔術、祈祷の一切は無効・無縁であると学んできたのである。そうした事は、これまでも折に触れ述べてきた。

しかし、である。いま、齢73年のこれまでの我が生を俯瞰すると、そんな因果論的な説明では何とも収まり切れない、割り切れない思いが、ジワジワとくすぶって来た。ここには、何か私の生に介在する意思を感ずるのである。これについては、まだここで告白する気にはなれない。永遠にないかも知れない。原稿料も取らない、コンナところで言ってたまるか、との思いもある。

最後に一つ、言い添えておこう。己が意思を超えたところで人生が決定されるという思考は、ギリシャの時代の古い迷信の類で終わらない。ギリシャでは多神教であるが、ユダヤになれば一神教、道教では道(タオ)、仏教ではカルマ(業)として信じられる。それに立ち入る能力はないから止めるが、ヴェーバーによれば、近代資本主義の発生に極めて重要な役割を担ったのは、カルヴァンによって彫琢された「予定説」(死後における魂の救いは永遠の昔に、神によって決定されたことだとの説)であるとされ、これは究極の宿命論である(本日はこれまで。次回でこの項終わりの予定)。


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