2016年8月4日

8月4日・木曜日。熱暑。本日、地下鉄(銀座線)内にて、不良外人と日本人のバカ女に対し、「ウルサイ」と一喝。危うく命を落とすところなり?人生、一寸先は闇、つくづく思う。これもまた、こんな題材にいつまでも関わっているためか。

カルヴァン的な予定説の詳細はともかく、死後の魂の行方、すなわち地獄か天国か、はすでに決定済みの事である、とはジッと考えると、何とも不気味である。特に、この問題こそ人生の一大事と信ずる人々にとっては、一日も心休まることはあるまい。娑婆の生活はたかが百年、アッチは無限の長さである。その間、際限のない、手を変え品を変えた、地獄の業苦に苛まれるのである。しかも、それを免れ、なんとか天国に潜り込もうとする手立てであろう善行、善意その他あらゆる生き様は意味が無いとされる。確かに、それらによって、かつて下された決定に変更が生ずるとなれば、神の無謬性は否定されるに違いない。

その結果はどうなる。極端に言えば、善悪の基準の崩壊である。ここでは、善人も悪人もないことになる。社会秩序やその生活を守るための刑罰はありえても、それは一つの手段、方便であり、根源的な「罪」の問題に触れる事であろうとは思えない。告白するが、私はいまだに「罪」の問題がよく分からないのである。太宰は『人間失格』でこれに触れ、ドストの『罪と罰』に言及しているが、私には両書のこの辺りは今もって不明であるから、結局分かっていないのだろう。

ともかく、宿命論に立つ限り、現在の刑法は成り立たない。ここでは、健全な判断力を持つ自立した個人と彼の自由意思が大前提とさる。これに基づいて成される彼の行為の結果には、良くも悪くも、結果責任が発生する。これは、かれ一個の自由な判断と行為によって引き起こされたからである。だから、精神障害者をはじめ判断力を失ったと認定された者の犯行は犯罪ではなくなる。だがこうした理屈は、一つの擬制ではなかろうか。惹起された出来事は、如何に明確に見えようとも、一から十まで彼一個の自由な判断とその行為の結果である、と完璧に証明など出来ようはずがないからだ。

ワスレテイタ。先の宿命論と善悪の問題に戻ろう。まずここでは、現代刑法の論理を全て認めることにしよう(もっともそれは、私が勝手に解釈したものだが)。そして、これをオディプスの事例に当てはめてみよう。果たして彼は有罪か。否、無罪である。彼の所業の全ては、糾弾されるべき犯罪である。これらを許せば、社会は存立しない。彼自身その事を十分以上に弁えていた。それゆえにこそ、彼は両眼を抉り、娘を杖に放浪の旅に出たのである。にもかかわらず、彼は無罪である。彼の悪行は、すでに知ったように、彼の意思の結果では無かったからである。ソフォクレス自身が、後に書く『コロノスのオディプス』でこのことを明らかにした。オディプスは、己が身の穢れを認めながら、だがしかし父殺し、母との婚姻と言う近親相姦の「罪」は免れているとの自覚をもって、安心の内に死にえたのである。

宿命論には、こうした道徳原理に触れる重大な問題性が潜む。じつは、カルヴァンの予定説に対してもそうした批判があったのである。これを認めてしまえば、人の努力、徳行は無に帰する。何をしようと、あの世に対しては無意味だからだ。だが、カルヴィニズムがその様な道徳の堕落をきたさず、むしろ信徒たちの精神と生活の規律を錬成し、彼らは経済活動において史上最も生産的な活力、発展力、要するにダイナミズムを発揮し、ついに近代資本主義の成立に寄与しえた、との説を展開したのがヴェーバーであった。しかし、これについては既にどこかで言ったような気がするので、ここでは触れない(あと一点、言うことがあるが、それは次回)。


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