• 1月31日・月曜日。晴れ。

    2月4日・金曜日。曇り。1月の総歩数・260,611歩、平均歩数・8,407歩、最高歩数・13,576歩、最低歩数・105歩であった。平均歩数が9千歩を大きく割り込んだのは、甚だ残念。105歩は1/26日であったが、それまでの疲労と寒さにやられ、ついにオミクロンかと恐れたが、一日臥せて事なきを得た。だが、その後の成績もあまりパットせず、当方としては面白くない。と言って、今さらオリンピックを目指したり、誰かに強要されているわけでもないのだから、と必死に自分に言い聞かせ、今年はこのペースでいくほかはないか。無理してオミクロンに捕まるよりは、はるかにましだろう。と、今は思っている。

    2月7日・月曜日。晴れ。前回の文章の加筆、修正。

     

    報道によれば、首都圏のオミクロン株の蔓延、いまだピーク見えず、とあった。感染力は強いが、致死性の低いのは、このウィルスの戦略と言う。早々に宿主を葬ってはウィルスは拡大のチャンスを失う。とすれば、この蔓延と収縮のサイクルは、その劇症性を減じながらまだまだ続く。その間、こちらの側の抗体も出来て、いずれインフルエンザと同様な扱い、付き合い方になり、やがては小児の一般的な病状になるのだろう。そうした経緯は、これまで本欄でも見てきたように、多くの疫病の歴史が示しているとおりである。

    それにしても、第一次世界大戦直後(1918)に発生した、かのスペイン風邪の世界的な蔓延とその凶暴性に対する対処から、我われはどれほど進歩したのであろうか(内務省衛生局編 『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』平凡社、2020)。密を避け、マスクを着けろと言われ、街を封鎖するなど、その基本的な対応はほとんど変わっていないように見えるからだ。さまざまワクチンも開発されたが、著効ありとの報告はなく、その終息には3年の年数を要したようだ。

    それどころか、1660年頃のロンドンに発症したペスト疫病では、罹患者を建物ごと隔離し、市内に留まらざるを得ない金持ちたちは、食料他の生活用品を貧困者に届けさせた。道路に斃れた死者たちは、市当局の監視のもと、市内の乞食、浮浪者に始末させる。彼らは、毎夜、夜陰に紛れて、荷車の上に遺体を重ねて運び、市の外れの墓地に掘られた大きな穴の中に、放り込むようにして埋め込んでいったのである。誠に陰惨と言うほかはない(ダニエル・ディフォー・武田将明訳『ペストの記憶』、研究社・2017)。

    これは今で言えば、多少形は変わっても、ウーバーやエッセンシャルワーカーなる人々に依存した生活そのものではないのか。彼らの多くは、感染の危険を感じながら、止むにやまれずそうした生活を余儀なくされてのものであったことは、すでに見て来たところである。昨年末だったか、政府はようやく彼らの最低賃金の値上げを予算に盛り込んだ始末である。こうして、我われの住む社会は、今後も益々格差を広げ、そしてそれを利用して利益を上げようとする職種、人々を生んでいくのであろうか。

    もはや旧聞のことで、今さらだが、昨年の12/28、ジャパンタイムズに掲載された「COVID-19、数か月にわたり体内に生存可能」なる記事から、本ウィルスについて、簡単に紹介し(と言うのも、詳細な理解などとても出来ないからだ)、現下のコロナの手ごわさを見てみたい。政府、各種報道では、しばしば本病についてすでに分かったような事が言われているが、実際はそれほど簡単なものでないらしいと教えられるからである(以下次回)。

  • 1月17日・月曜日。晴れ。本日は父親の誕生日で、存命であれば114歳である。同時に、わが母校・明治大学創立の日でもある。この不思議な(でもない、単なる偶然だと人は言うであろうが)縁を知った時、アア、明治に行くのは、オレの定めであったのか、と妙に納得したものである。頑張れ明治!おお、メイジ!

    1月19日・水曜日。晴れ。オミクロン株、益々、盛ん。

    1月24日・月曜日。晴れ。蔓延防止等対策、再び開始。前回の文章を加筆、訂正する。

     

    昨年の12月21日(火)、朝日新聞の連載コラム「語る―人生の贈りもの―」の中村敦夫編で、本欄でのこれまでの主張に直結するような国家像を見たので、これを紹介してみたい。

    中村氏はすでに1998年7月の参院選において、次点に泣いた前回選挙の屈辱を果たし、無所属議員として国政の場にあった。同氏は、任期の切れる2004年7月の参院選を前にして、こう宣言する。「経済成長には限界があります。それに大国主義はアジアの小さな島国の日本には合わないのです」。それゆえ経済成長主義から転換し、「小さくても質の高い共同体」を「めざす社会像」として掲げたい。それはまた「スロー、スモール、シンプルの三つの「S」をモットー」とした社会であり、その実現のために、「みどりの会議」という環境政党を設立したい、と。

    そも、政党とは、氏によれば、まずは「国の将来のビジョンを実現するための道筋」であり、そのためには「時代認識と政治理念、そしてそれを実現するための政策」を三位一体としなければならない。であれば、筆者は政党をそれら目標を達成するための「道具あるいは器」と呼びたい。いずれにせよ「業界団体の利害を調整し、受けのいい政策をカタログ的に並べている」のは、政党ではない。

    実は、氏の構想には前史があった。ほぼ10年前の1993年、武村正義氏らによって立党された「新党さきがけ」の理想を引き継いでいたからだ。同党の政策目標は「行革、平和、環境」の達成であった。当時、中村氏はすでに役者からニュースキャスターとして転身していたが、この理念に深く共鳴し、’95年7月、党の公認を受け参院選に打って出たのである。だが、その結果は、惜しくも落選。すでに、さきがけ自身が結党時の勢いを失っていたからである。それどころか、2000年6月には、武村氏自身が衆議院選で落選するという状況にあり、その退勢は止めようもなかったのである。

    しかし、さきがけは「環境破壊と財政赤字の元凶」を「無駄な公共事業」にあると喝破していた。のみならず、その背後にある業界団体の利害調整のまやかしを突きながら、それゆえ最重要政策として環境、行革問題を掲げたのであろう。こうした、今を先取りするような、先駆的な理念、目標が、すでに30年以前に提示され、その実現を目指した政党が存在したという事実に、心底、目を見張る。しかしこの党を国民は受け入れず、解体に追いやってしまった。さらに、この理念を引き継いだ環境政党もまた、中村氏もろとも瓦解するのである。「当時、メディアは環境には全く関心を示しませんでした」との、氏の弁が一切を語っている。組織力を欠いた弱小政党による、いつ来るとも分からぬ危機の遠吠えなぞ、聞くまでも無い、という事なのであろう。

    しかし、さきがけ、中村氏の努力は無駄ではなかった。選挙結果は候補者10人の全員が落選という惨敗であったが、それでも党は全部で90万票を獲得し、「環境政党の重要さを分かっている人がそれだけいることを」、全国に示し得たからである。メディア以上に、ことの重要さを分かっている国民が、それだけいたのである。

    これに反して、過日の岸田総理は、所信表明において、なお成長戦略に夢を託すが、目前に見る地球規模の疫病、温暖化、環境破壊、資源の枯渇の先行きをどこまで深刻に捉えているのか、さらにはこれらの問題は、果たして経済成長の戦略一本で解決しうるものなのであろうか、といぶかるばかりである(この項、終わり)。

  • 令和4年1月12日・水曜日。晴れ。寒風強し。

    あけましておめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。遅ればせながら、本日をもって仕事はじめといたします。

    こうしたぐずぐずとした出社には、例のとおりの生活がたたったか、どうにも起床の気力が失せ、一日の起動が15時ほどからとなり、もはや夕刻。これが重なり、ついに今日まで続いたという次第がある。それに雪も降った。凍結した道路に負傷をしては、かえって皆に迷惑をかけるとの立派な理由もこしらえた。こんな事を言い立てて、澄ましていられるのも、一つ年を取ったお陰であろうか。そう言えば、今年頂戴した年賀には、今年で打ち止めにされるという賀状が3通あった。それぞれエネルギッシュな方々であったのに。それに当方も便乗し、年始の挨拶は今年限りとさせていただいた。それには、こんな名句、イヤ、はたメイワ句を添えてみた。

    駄句の種尽きて仕舞の年賀状 みつお

    年初から、不景気な話となったが、そうとばかりでもない。毎月のわが歩行数の件である。先きの12月の総歩数は326,259歩に及び、一日平均歩数・10,524歩、最高・15,833歩、最低・6,354歩であった。これは、壮挙である。

    昨年は、平均1万歩に達した月はこれまでなかった。よって、この12月を逃せば未達の年となり、何とかせねばと、それなり必死になったのであろう。早稲田からの帰途、寒風を押して隅田川沿いを歩き、あるいは川を渡ってスカイツリータワー駅に向かって歩数を稼いだ。毎夜、春日部駅から陋屋までを、日付の変わる時刻にふらつく様は、我ながらかなり異様であった。決まって一、二台のパトカーと行き交うが、あちらも妙な思いになったに違いあるまい。しかもこの行軍には、「5キロの背嚢」(わが友人の弁)を背負ってのことを一言しておかなければならない。

    かくて、年の最終月に、目標は達せられた。それも1日早い、30日のことである。大晦日には、ご祝儀として14,398歩を加えて、花をそえた。わが達成感は限りなし。とここまで書いて、それがどうした、と言われれば、それまでのことながら、筆者にもまだこれくらいの気力は残っていることを申し上げて、年初の挨拶とさせていただこう。

  • 12月27日・月曜日。晴れ。北陸以北に大雪情報あり。関東の寒風も、このところかなり厳しい。11月の総歩数・293,831歩、平均歩数・9,794歩、最高・15,066歩、最低・4,304歩であった。なお、75歳以上の一日男子平均歩数は4,563歩(2018年の政府統計より)と教えられ、当方はかなり気を良くしているところである。

     

    今年も残すところ、ほんの数日。この一年、振り返れば、政治も経済も社会も、すべてが大変な年であった。そんな中、筆者としては、コロナを免れ、大した破綻もなく当ブログを維持し、本日まで無事にたどり着けたのは幸いなことであった。他には今年初め、NHKラジオ講座の『まいにちドイツ語』のテキストに、我が著書『汚水処理の社会史』が参考書の一冊として取りあげられ、また4本の論文についての査読審査報告書を作成するなど、結構、勤勉な年であったような気がする。

    気力、体力は、かなり衰えた。読書力も格段に落ち、その以外の能力も日々劣化するように見えるのは、何とも情けない。1・2段の詰将棋に難渋し、昔であれば、5,6分で解けた問題がさっぱりになってきたのは、その表れでもあろう。それでも上記のような仕事を何とかこなせるのは、ひとえに読者のご支援のお陰と感謝する。これは単なる儀礼上の言葉ではない。過日も、わざわざ携帯電話で、そのようなお声を寄せていただき、大いに励まされた次第である。

    わが宿痾とも言うべき、昼夜逆転の生活は、ますますもって回復不能の状態に陥った。これを正そうとすればかえって病に倒れるとの、勝手な言い訳でこのままいくほかはないが、これらを含めて、わが我儘の一切をお許し頂き、来年もまた変わらずのご支援をお願いし、もって本年の書き収めとしたい。

    良いお年をお迎えあれ。

  • 12月15日・水曜日。晴れ。この2,3日、寒気ややゆるむ。

    12月17日・金曜日。雨。北陸地方に大寒波の予想あり。昨日、「赤木さん自死 国が賠償認める」(朝日新聞12/16・木)とあり、「1億700万円」で、国は事件の幕引きを図ったのか。それにしても、これまでの国の対応とその経緯からして、いかにも唐突であり、この金額で国は誰を守ろうとしたのか。わが社会はこの問題を、今後どう受け止めるのであろう。さらに国交省の「統計書き換え」問題が発覚。公文書の扱いがひど過ぎる。政府の各種の報告、発表に全く信を置けない。暗澹たる思いに沈む。政治の劣化なのか、それを許す国民の責任なのか。

     

    砂の消費量は、何といっても建築分野が最大である。これは単に建造物を言うのではない。世界のどこでも、しかも急速に進展している都市化に絡んでのことである。辺縁を知らない大地に、しかも上下に延びる高層ビル街、それを支える各種交通・上下水道など無限のインフラ施設の建設およびその維持・保全を考えるだけでよかろう。中国は、米国が20世紀中に消費した以上の砂を、今世紀の20年間で消尽し(それどころか、一説では、米の百年間の消費量をたったの2年間で達したともある)、同期間にインドの消費量はそれまでの3倍以上に及ぶらしい。シンガポールの国土の拡大を目指した海上埋め立て、中東の壮大な都市建設にも驚嘆させられる。

    こうして世界の砂需要は、旺盛どころか、もはや凶暴とも言いうるほどである。ならば、砂の世界市場が成立するのも当然であろう。それにしても、単価の安い砂が、高い輸送費をかけても引き合う交易の対象になるとは、百年前、誰が想定したか。砂に限らず、これまで見向きもされなかったある素材が、突然、資源とみなされ、しかも巨大で無限な儲け口ともなれば、いまだ法も環境も整備されていないさなかで支配するのは、暴力、不法、汚職であるのは、歴史の常に教えるところである。

    事実、砂の取り業者には、犯罪者ともおぼしき「砂マフィア」団が多く、カンボジア、中国、インド、ケニヤ、メキシコ、ベトナムと言った世界の各地に見られるとは、国連環境プログラム(UNEP)の報告である。彼らは警察を買収し、不法を告発するジャーナリストらの活動を阻止し、さらには脅迫して闇に葬る。「彼らは労働者を搾取し、その多くは子供たちである。」安全への配慮どころか、危険で長期の影響を与えるような環境の中、長時間労働を課したうえ、報酬は低額、ときにはそれすらも無い。

    そうした種類の、常軌を逸した砂の掘削が、想像を絶した環境問題をよぶのも当然である。たとえばメコン川では、年間5500万トンの砂が奪われ、上流に建設されたダムが水量を細らせ、この10年で1.4mの水位の低下を見た。その結果、「次世紀中には、デルタ地帯の半分が消失し、そこに住む2千万人の生活、東南アジアの水田地帯、水生魚介類の棲息域が失われる恐れが出ている」そうだ。海底からの掘削も甚大で、サンゴ礁の破壊から海中汚濁、日光の遮断による多種の生物(海鳥を含む)の死滅をもたらす。ここから波及するその結果の一々を辿ることは不可能であろう。しかも砂の乱掘だけでこれだけの問題を生んでいるというのである。地球は今や、人間の恐れを知らない貪欲と責め苦に喘いでいるのである。

    どうであろう。これらを見ても、我われはまだ、無限の経済成長、経済発展を夢見ていけるのであろうか。いや、科学の発展、技術の進歩は計り知れない。そう信じられるのであろうか。とすれば、人間とはなんと楽観主義者ではないか。ここには恐れるものは何もないように見える。

    宜しい。ならば訊きたい。人間が何か一つでも、全くの「無」から産み出したものがあるのであろうか。なんの原材料もなく、ただ頭の中で考案したものを、自然界からの全くの援助もなく、完全に自力で産み出したものはあるのか。空気、水、砂等々はどうか。人の産み出すものは、その一切が、すべて自然界から供給される何物かを加工して、必要物に変える物でしかないのではないか。その加工の技術はこれまでの歴史の中で無限と言えるほどの進歩を見てきた。だがそれは、モノを根底から、その最初から産み出したことではない。ヒトとは、その意味で「無から有を生み出せない」存在なのである。種のない手品はない。であれば、その始原の原材料、タネ、が尽きれば、その物の製造は不可能となる理屈である。

    その事実は、砂の一事をとってもハッキリしている。我われが砂を「無」から造れるものなら、上で記したような惨害をヒトにも、環境にも与える必要はなく、必要なだけ造れるはずなのであるから。我われはこの簡単な誤解からもう目覚めても良いころである(この項終わり)。