2022年01月17,19,24日

1月17日・月曜日。晴れ。本日は父親の誕生日で、存命であれば114歳である。同時に、わが母校・明治大学創立の日でもある。この不思議な(でもない、単なる偶然だと人は言うであろうが)縁を知った時、アア、明治に行くのは、オレの定めであったのか、と妙に納得したものである。頑張れ明治!おお、メイジ!

1月19日・水曜日。晴れ。オミクロン株、益々、盛ん。

1月24日・月曜日。晴れ。蔓延防止等対策、再び開始。前回の文章を加筆、訂正する。

 

昨年の12月21日(火)、朝日新聞の連載コラム「語る―人生の贈りもの―」の中村敦夫編で、本欄でのこれまでの主張に直結するような国家像を見たので、これを紹介してみたい。

中村氏はすでに1998年7月の参院選において、次点に泣いた前回選挙の屈辱を果たし、無所属議員として国政の場にあった。同氏は、任期の切れる2004年7月の参院選を前にして、こう宣言する。「経済成長には限界があります。それに大国主義はアジアの小さな島国の日本には合わないのです」。それゆえ経済成長主義から転換し、「小さくても質の高い共同体」を「めざす社会像」として掲げたい。それはまた「スロー、スモール、シンプルの三つの「S」をモットー」とした社会であり、その実現のために、「みどりの会議」という環境政党を設立したい、と。

そも、政党とは、氏によれば、まずは「国の将来のビジョンを実現するための道筋」であり、そのためには「時代認識と政治理念、そしてそれを実現するための政策」を三位一体としなければならない。であれば、筆者は政党をそれら目標を達成するための「道具あるいは器」と呼びたい。いずれにせよ「業界団体の利害を調整し、受けのいい政策をカタログ的に並べている」のは、政党ではない。

実は、氏の構想には前史があった。ほぼ10年前の1993年、武村正義氏らによって立党された「新党さきがけ」の理想を引き継いでいたからだ。同党の政策目標は「行革、平和、環境」の達成であった。当時、中村氏はすでに役者からニュースキャスターとして転身していたが、この理念に深く共鳴し、’95年7月、党の公認を受け参院選に打って出たのである。だが、その結果は、惜しくも落選。すでに、さきがけ自身が結党時の勢いを失っていたからである。それどころか、2000年6月には、武村氏自身が衆議院選で落選するという状況にあり、その退勢は止めようもなかったのである。

しかし、さきがけは「環境破壊と財政赤字の元凶」を「無駄な公共事業」にあると喝破していた。のみならず、その背後にある業界団体の利害調整のまやかしを突きながら、それゆえ最重要政策として環境、行革問題を掲げたのであろう。こうした、今を先取りするような、先駆的な理念、目標が、すでに30年以前に提示され、その実現を目指した政党が存在したという事実に、心底、目を見張る。しかしこの党を国民は受け入れず、解体に追いやってしまった。さらに、この理念を引き継いだ環境政党もまた、中村氏もろとも瓦解するのである。「当時、メディアは環境には全く関心を示しませんでした」との、氏の弁が一切を語っている。組織力を欠いた弱小政党による、いつ来るとも分からぬ危機の遠吠えなぞ、聞くまでも無い、という事なのであろう。

しかし、さきがけ、中村氏の努力は無駄ではなかった。選挙結果は候補者10人の全員が落選という惨敗であったが、それでも党は全部で90万票を獲得し、「環境政党の重要さを分かっている人がそれだけいることを」、全国に示し得たからである。メディア以上に、ことの重要さを分かっている国民が、それだけいたのである。

これに反して、過日の岸田総理は、所信表明において、なお成長戦略に夢を託すが、目前に見る地球規模の疫病、温暖化、環境破壊、資源の枯渇の先行きをどこまで深刻に捉えているのか、さらにはこれらの問題は、果たして経済成長の戦略一本で解決しうるものなのであろうか、といぶかるばかりである(この項、終わり)。


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