• 2月13日・金曜日・晴れのち曇り。 

    統治機構は前述のようなものとして存在する。それは現代の民主主義的政体をとる諸国において特にハッキリしていよう。あるいは、これに対しては、色々批判もあるかもしれないが、ここではそのように理解されたい。そうでないと、話が進まん。とすれば、政策の立案と遂行は国民的、国家的な課題に関わらざるをえない。その課題は何かと言えば、国民の潜在的、顕在的な、しかも切実な願望、欲求の他にはない。各政党はそれを掬い取り、その実現のための方途を国民に明示し、支持を取り付ける。最も説得力のある政策を提示しえた政党が多数を占め、政治権力を手にしうるわけだ。だがここには、大きな危険が潜む。ポピュリズム(大衆迎合主義)という危険である。これは民主主義という政治制度の宿痾であろう。であればこそ、国や時代の孕む困難を直視し、それと対峙し、一時の苦難、苦痛を敢えて主張し、国民を説得できるような政治のリーダーシップが切望されるのである。だが、これも難問。それが独善、さらには独裁へと傾斜する危険を、どう見分け、阻止するのか。その最大の防波堤は、国民の政治的な成熟でしかあるまい。

    またもや、話が回り道に落ちた。私が問題にしたかったのは、政治と個の関わりである。政治とは、前述来の通り、「統計」的な問題、集合的な問題をこそ対象とする。それがその本質だと思う。個々人を襲う、やりきれない困苦、悲惨の除去や不安のない日常生活の実現は、それが個のレベルにある限り政治は相手にすることはないだろう。たとえば、浅草には今日も寒空の下で一夜を明かすホームレス氏が多く見られる。闇金融に追われた人々が舐めた恐怖と悲惨は、それが統計的な問題になる以前には見向きもされなかった。今なお「滑り台社会」の底に喘ぐ多くの、だが政治化されないバラバラの個々人は見捨てられたままである。そうであればなおの事、社会や報道はそうした人々の困苦を掘り起こし、顕在化して、その現状と社会経済的な背景を明示し、これは明日の我々すべての姿なのだと警鐘を鳴らす必要があるのだ。これが、私の言う政治化の意味である。そのような文脈でみれば、この度の後藤氏についての政治の取り組みにはどんな意味があろうか。漸く、本題にたどりついたが、疲れたので、今日はこれまで。

  • 2月4日・水曜日。晴。立春に敬意を表したか、穏やかな一日。但し、明日の予報は、雪。

    前回の拙文を読み直し、エライ議論を始めたと後悔しきりである。といって、今更止めるわけにもいかない。何とか、始末をつけることにしたいが、その気持ちが進まぬ第一の理由は、後藤氏の殺害にまで事態が進んだことである。報道によれば、氏の此度のシリア行は、友人の湯川氏の救出、戦場下にある子供たちに寄り添い、その生活を捉え、日本の子供たちに知らしめたい、という意図に発したことである。それ自体には、批難されるべき謂れは一点もない。また、同氏は世界のジャーナリスト、イスラムの人々からも愛されていたようで、そういう人物の死を前にして、何事かを論ずるには大いに躊躇させるものがあるからである。ここでは、彼の死について語った兄の一言を引いておこう。今日までの日本政府はじめ世界から寄せられた救出の努力、支援に感謝すると共に、弟の今回のシリア行きはやはり「軽率であった」(indiscreet)(ジャパンタイムズより)。ここには、近親者のみが抱きうるなんともやりきれない痛惜の思いが滲み出ていよう。心よりご冥福をお祈りする。

    さて、私見によれば、政治とは全体福利の追求にある。即ち「最大多数の最大幸福」の実現である。ただしその中身は、前回述べたように、千差万別である。西洋的な民主主義の基準からすれば、まったく理不尽にみえる統治機構も当の国家にとっては真っ当な、かくあらねばならぬ組織でありうるし、そのようなものとして国民からも認知され、承認されうるからである。とすれば、外からのあれこれの批難、批判は要らぬ容喙にすぎない。ここに、いかなる政治組織も最終的には最大多数の国民からの支持を得ること、つまり彼らに対するその政治的な支配の正当性が認められなければ、短期的にはともかく、長期の存立は不可能であろう、と言いたいのである(本日はこれまでとする)。

  • 1月28日・水曜日・晴。風強し。

    前回の覚悟をもってここに座したが、あれは覚悟だけの事で、中身はなにも変わってはいない。人とは、そんなに簡単には変われるものではないのだ。ただ、ウワゴトでも何でもイイから、是非続けよ。楽しみにしているのだから、との声も届いて、それならショーねー、と恩着せがましく続けることに。と言って、これを止めたら、ここでの我が仕事が無くなり、失業の憂き目にあうので止める分けにもいかないのだ。そんな訳で、本日もドーなることやら、行方知れずであると、一言。

    「一人、二人の死は悲痛である、百人の死は悲劇だ。だが、千人の死は統計だ」と、スターリンは言ったという。真偽の程は知らない。しかし、一千万単位で人を殺害した彼のことである。このくらいの事を平然と口走っても、不思議ではない。しかもここには、政治の真髄が一言にして示されている、と私は思う。政治とは、かくも非情、冷徹である。生半な人道主義、理想主義なぞ寄せ付けない過酷さがある。

    政治の要諦とは、何か。全体福利の実現であろう。統治地域およびそこに住まう人々の全体的な平和と安寧の確保であろう。だがそれは、必ずしも領土的な保全ばかりを意味しない。民族、歴史、文化、体制等がふくまれる。ただそれらは、普通、ある広がりを持った地域、土地と結びついて営まれる他はないため、領土的な要求、要請が第一義となろう。こうした内実を持つ国土の存立が危うくされたら、為政者たるもの、これを断固排斥するのは、当然である。戦い利在らず、国土の蹂躙にまみえれば、ある地域の切捨てどころか、時には地域全域すら見殺しにしようと、そのことが将来の復興の礎になろうとすれば、躊躇なくこれを実行せざるを得ない、そうした論理が貫かれているように思う。ドゴールのみならず、民族解放戦線の戦いはそういうものであり、また加藤陽子氏によれば、蒋介石は日本軍に占領統治された中国東北部はじめ沿海部、華中地域を切り捨てても(確か何千万か、億単位の人命の犠牲になるらしい)最終的な勝利をめざした。勿論、そこには単なる戦闘を越えた外交戦、諜報、報道その他あらゆる資源と知力の動員もかみされる。

    ドーモ、話が大きくなりすぎて、始末がつかなくなってきた。以下ナントかコジツケル事にしましょう。私の言いたかったことは、政治の目的は統治領域の全体的な安寧福利、秩序の維持である。つまり個々人の幸福は二義的でしかない。それは、文学、宗教の問題である。しかも厄介なのは、この全体的な安寧、福利と言ったとき、その意味合いは誠に多義、またその実現の方途が問われれば、実に茫漠としてくる。分かりやすく言おう。今問題になっている「イスラム国」流では、コーランを厳格に解釈した(かどうか、知らぬが)生活様式、すなわち、女はブルカを纏い、学問を拒否し、家庭にこもった生活を送ることこそ幸せとし、それを破ることは社会の混乱をよぶらしい。また社会的正義や幸福の実現にしても、社会主義的な平等な富の分配によるべきか、個人の創意を重視した自由主義的な、それゆえある程度の格差を是認した分配によるかの論争は果てしもなかった。今でこそ地球上の多くは資本主義国となってはいるが、しかしそこに孕む矛盾は覆いがたいのが現実である。さらに国家の平和の問題は、外国との関係であり、それは即国防、軍事に関わらざるを得ない。国防の強化は、とくにわが国のおかれた現状をみれば、直ちに悪にはならない悩ましさがあるのである。

    国の安全、国民の福利厚生のあり方、その実現の方途は、結局は主義や主張の数だけありうる、と言いたい。その何れを採り、捨てるかは、その国が置かれている歴史的・地政学的状況、文化・政治的熟成などによって決まるのであろうか。私としては、それは結局、その国の支配機構の側からの選択だ、と言いたいのだが、それもまた国民の意思と全く遊離してはあり得ないとすれば、国民だとも言えなくもなさそうである。だがそれは、決して国民の自発性に基づく決定ではない。支配機構側からする様々な教化、教育、情報操作、法制度や宗教的・道徳的な働きがけがあるからである。マルクス的に言えば、これこそイデオロギーの力である。とすれば、国民の意思によると言っても、それはカッコ付きのことにすぎない。

    ここに一つ興味深い問題が発生した。「イスラム国」に拘束された後藤健二氏のことである。政治は全体を問題にし、個には関わらぬと言ったこれまでの論議とどう整合するのか、という問いである。これについては、次回とする。

  • 1月21日・水曜日・雨時に雪。寒し。

    本日は、前回の文章の校正、補足に終始し、これにて終了としたい。それにしても、毎週、適当な題材を選び、それなりに文章化し続けるのは、結構な仕事だと思うこの頃ではある。連載を抱える作家の苦しみはいかばかりか、チョイト、理解できそうだ。もっとも、コチラはほとんど準備らしい物もなく、パソコンの前に座ってから、ハテ何を?と始めるのだから、苦しいのは当たり前で、自業自得と言うほかはない。これでは、せっかく読んでやろうか、ト思う読者にもあいすまない。こんな居食いみたいなことは、ソロソロやめにして、それなりの準備の上で、と考えれば、デハ何を、となる。我が語れることと言えば、専門的知識にことよせて己自身も何を言っているやらオボツカナイ、ほとんどタワゴト、うわ言めいたことになりかねない。これはこれで、また申し訳ないことである。よくよく思案の上で、次回に繋げましょう。

  • 1月15日・木曜日・雨。時の矢の 睦月なかばを はや越えぬ。 

    前回は尻切れトンボで大変失礼。と言って、そんなコター以前はショッチュウの事ゆえ、改めて謝るまでもないが、最近は一回読みきりを我が信条とし、またそれだけの技術力を身につけたとの自負もあり、かかる中途半端はわが職人気質からして許せん、と気取ったまで。別に、読者諸兄に詫びた積りはない。

    さて続き。記事によれば、こんな事態になったのは、高校での歴史教育に問題がある、との評論家の言が紹介されている。たしかに、太古から現代に至る日本史を一冊の、それも300頁足らずの本に押し込めて、それを満遍なく教えるとなると、通り一遍の飛ぶような授業になるのはやむを得ない。私にも経験があるが、とくに明治時代以降は学年末になっていて、教師はただ課程を終えることに追われ、十分な指導を受けたという覚えはない。これでは、日清、日露から第一次、第二次大戦にいたるわが国の歩みと戦後の復興の歴史について、そのアラマシすらも知らないということになりかねない。こんなことでは、最近の中国、韓国からのわが歴史教育に対する論難、要望、ときにドウかと思う批難に対抗すべくもない。私の知る限りでも、両国のわが国に対する偏向教育は目に余るものがあるからだ。だからであろう、下村文科大臣は現在の日本史教育を義務化し、若者たちが日本人としてのアイデンテイーテイ、多分その意味は日本人としての自覚と誇りを持たせたい、ということにありそうだが、そうした意図に沿った教育改革を考えているようだ。

    大臣のそうした意図の政治的な意味はともあれ、日本史の義務化と近現代史を重視したカリキュラムの実施それ自体に反対する理由はない。ただ、そうしたカリキュラムの実施が直ちに充実した、現代人の歴史意識を健全に育て上げることになるか否かは別の話である。高校教育はこと日本史ばかりか、他の教科もそうだが、大学入試とリンクされており、その影響下にあるは、今更言うまでもない。難関大学の入試では微細な歴史の丸暗記を強い、かつそれを誇るがごとくであると、記事は言う。それは日本史ではないが、ささやかな我が経験を言えば、書店に荷風の『あめりか物語』を求めたところ、絶版との事。何故か、と問えば、「入試に出ないからでしょう」。嘘か誠か知らんが、いかにも在りそうな事と、妙に得心した覚えがある。こんな暗記主義から歴史への生き生きした興味が育つはずもない。

    かような歴史音痴、別けても大戦をはさむ現代史への無関心、さらに言えば無知を、何とも思わぬ若者の多い中、記事は少数ではあるが、我が国の近現代史に興味を持ち、のみならずそこにおいて祖国のために命を捧げた人たちを称揚しようとする若者たちを紹介している。ある女子学生は言う。戦争は人道上からも断じて避けねばならない。しかし、戦争に巻き込まれるとは、たとえば中国のような国から我が政府が制圧され、言論の自由を奪われることを意味する。「私たちの人権がそのような脅威に直面したら、政府のなすべきことは、戦争は悲惨だ、等とばかり言い募るのではなく、私たちを守るために立ち上がり、戦うべきだと思います」。

    さらに、これまで日本は、70年間戦争を免れてきたが、それは決して今後の平和を保障しない。ならば若者たちは今のヌクヌクした居場所から抜け出て、現実をシカト見つめる時ではないか、と説く男子学生もいる。 

    これらはいずれも間違った主張ではあるまい。むしろこの意見に賛同する人たちは多かろう。この意見を、私は百も二百も認めるとして、それでもある違和感を覚えずにはいられない、とも言いたい。原子力を背景とした現代戦争の破壊力、殲滅力には人類、いな地球そのものの破滅以外には何もないというその結果に恐れを持つからである。かつて戦争には、国土やここに開花した文化、歴史の保全と擁護、そのための無私な献身、鉄の規律への服従、英雄的な闘争心の涵養と激烈な闘争、精神と肉体の限界を超えた鍛錬、こうした強兵に支えられた軍団の躍動と激突、破壊と創造等に見られるあるロマン、美意識、英雄性の何物かがあった。すなわちそれは人間的な何かでありえた。それゆえ、それはロマン主義の温床であり、また称揚もされえたのであろう。ユゴーの描くナポレオン戦役、トルストイの『戦争と平和』にはそうした歴史絵巻がみられるのである。しかし、いまやステージは変わった。劇的にかわった。テレビに映される現代戦は、まるでテレビゲームのようにあっけなく、それでいてその被害は激甚にして広大、長期的な影響を人に対しても環境に対しても及ぼすものである。原爆被爆者やベトナム戦争後に誕生した双頭の嬰児を思い出すが良い。先の若者たち、あるいは現代の若い政治家たちには、どこまでそうした現代戦の悲惨さに対する現実感があろうか、と気にかかる。そう言えば、この記事の一面には自衛隊の演習の写真が大きく掲載されている。おりしも二人の美人女子隊員が匍匐前進の姿勢をとり、今まさに手榴弾を投げんとする態勢にあるかにみえる。だが、その彼女たちは、薄っすらと口紅を引き、化粧までしているようなのである。