2015年2月13日

2月13日・金曜日・晴れのち曇り。 

統治機構は前述のようなものとして存在する。それは現代の民主主義的政体をとる諸国において特にハッキリしていよう。あるいは、これに対しては、色々批判もあるかもしれないが、ここではそのように理解されたい。そうでないと、話が進まん。とすれば、政策の立案と遂行は国民的、国家的な課題に関わらざるをえない。その課題は何かと言えば、国民の潜在的、顕在的な、しかも切実な願望、欲求の他にはない。各政党はそれを掬い取り、その実現のための方途を国民に明示し、支持を取り付ける。最も説得力のある政策を提示しえた政党が多数を占め、政治権力を手にしうるわけだ。だがここには、大きな危険が潜む。ポピュリズム(大衆迎合主義)という危険である。これは民主主義という政治制度の宿痾であろう。であればこそ、国や時代の孕む困難を直視し、それと対峙し、一時の苦難、苦痛を敢えて主張し、国民を説得できるような政治のリーダーシップが切望されるのである。だが、これも難問。それが独善、さらには独裁へと傾斜する危険を、どう見分け、阻止するのか。その最大の防波堤は、国民の政治的な成熟でしかあるまい。

またもや、話が回り道に落ちた。私が問題にしたかったのは、政治と個の関わりである。政治とは、前述来の通り、「統計」的な問題、集合的な問題をこそ対象とする。それがその本質だと思う。個々人を襲う、やりきれない困苦、悲惨の除去や不安のない日常生活の実現は、それが個のレベルにある限り政治は相手にすることはないだろう。たとえば、浅草には今日も寒空の下で一夜を明かすホームレス氏が多く見られる。闇金融に追われた人々が舐めた恐怖と悲惨は、それが統計的な問題になる以前には見向きもされなかった。今なお「滑り台社会」の底に喘ぐ多くの、だが政治化されないバラバラの個々人は見捨てられたままである。そうであればなおの事、社会や報道はそうした人々の困苦を掘り起こし、顕在化して、その現状と社会経済的な背景を明示し、これは明日の我々すべての姿なのだと警鐘を鳴らす必要があるのだ。これが、私の言う政治化の意味である。そのような文脈でみれば、この度の後藤氏についての政治の取り組みにはどんな意味があろうか。漸く、本題にたどりついたが、疲れたので、今日はこれまで。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です