2015年2月4日

2月4日・水曜日。晴。立春に敬意を表したか、穏やかな一日。但し、明日の予報は、雪。

前回の拙文を読み直し、エライ議論を始めたと後悔しきりである。といって、今更止めるわけにもいかない。何とか、始末をつけることにしたいが、その気持ちが進まぬ第一の理由は、後藤氏の殺害にまで事態が進んだことである。報道によれば、氏の此度のシリア行は、友人の湯川氏の救出、戦場下にある子供たちに寄り添い、その生活を捉え、日本の子供たちに知らしめたい、という意図に発したことである。それ自体には、批難されるべき謂れは一点もない。また、同氏は世界のジャーナリスト、イスラムの人々からも愛されていたようで、そういう人物の死を前にして、何事かを論ずるには大いに躊躇させるものがあるからである。ここでは、彼の死について語った兄の一言を引いておこう。今日までの日本政府はじめ世界から寄せられた救出の努力、支援に感謝すると共に、弟の今回のシリア行きはやはり「軽率であった」(indiscreet)(ジャパンタイムズより)。ここには、近親者のみが抱きうるなんともやりきれない痛惜の思いが滲み出ていよう。心よりご冥福をお祈りする。

さて、私見によれば、政治とは全体福利の追求にある。即ち「最大多数の最大幸福」の実現である。ただしその中身は、前回述べたように、千差万別である。西洋的な民主主義の基準からすれば、まったく理不尽にみえる統治機構も当の国家にとっては真っ当な、かくあらねばならぬ組織でありうるし、そのようなものとして国民からも認知され、承認されうるからである。とすれば、外からのあれこれの批難、批判は要らぬ容喙にすぎない。ここに、いかなる政治組織も最終的には最大多数の国民からの支持を得ること、つまり彼らに対するその政治的な支配の正当性が認められなければ、短期的にはともかく、長期の存立は不可能であろう、と言いたいのである(本日はこれまでとする)。


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