• 11月25日・水曜日。雨。コロナ感染第三波、列島を覆う。医療体制の維持か経済の活性化か。政策のバランスをどう取るか。誠に難問である。安倍事務所の問題、噴き出る。それにしても、総理辞職を待ったかのような捜査、あるいは情報リークをどう理解すべきだろう。これでは、権力にある間、捜査は免れる。ならば権力者は、死に果てるまで権力を手放すべきではない、と考えないだろうか。

     

    現在のコロナ禍があぶり出した、我われの社会に根ざす様々な脆弱性は、これまで本欄において筆者なりに明らかにして来たつもりだが、ここでは「東京一極集中から地方への分散」の問題を考えてみたい。これは「社会のたたみ方」なる本欄の中心課題につながる問題だからである。

    読者はもうお忘れかも知れないが、一昨年来からここで考えようとしている問題は、地方社会の疲弊を解き明かし、その再生をどう図るかである。その為にはまずは地方行政の能力に余る行政区の拡散をおし留め、こうしてコンパクト化した地方社会を相互に連合させて、東京初め大都市圏に依存しない地域社会を創生できないかということであった。これを筆者は「社会のたたみ方」と呼んだのである。

    このような発想から出発した論議であったが、すでに二年余りの時を経、時々の社会問題にも振り回されている内に、足取りは誠に覚束ないことになってしまった。だが、ここでの趣旨はそう言うことであった、と申し上げておく。

    では、地方の疲弊とは、何だろう。その第一は人口の減少である。その原因は幾つもあろうが、この事に尽きる。しかし今や潮目は、変わった。コロナ禍によって、都市住民が脱出し始めたからである。しかもこの流れは、わが国ばかりか世界的潮流となったらしい。「東京脱出 コロナ下の地方移住」、「脱・人口集中 コロナで世界転機」と、朝日新聞(11/23・月)が大きく伝えるところである(以下次回)。

  • 11月16日・月曜日。晴れ。先週1週間を、休載とした。歯の故障により、離乳食風、介護食風の粥に類した食事には大いにマイッタ。いずれそんな時のための準備と覚悟だと、天は我に強いられたのであろうか。それにしても、週2,3日、こうして出かけられることの、有難さを思う。

    11月18日・水曜日。晴れ。本日は前回の文章に若干手を入れたに留む。かくて文意は通じ易くなったと、自ら慰める。

    なお、先日、朝日・夕刊(11/13・金)に無気味な記事を読む。25年前(1995年3月)、オウム真理教が犯した地下鉄サリン事件について、オウムの後継団体「アレフ」は、当事件は「教団以外の者による陰謀」だと主張し、インターネット上に「CIAのでっち上げた事件ではないか」と喧伝しているとの事である。この恐ろしさは、この種の虚偽の言説が時と共に捻じ曲げられ、事件を知らない若者たちがこれを信じて、再びカルト教団の復活を予感させることである。たったの25年間での捏造が、かくも容易となれば、百年前の事件はどうなるのであろう。好き勝手な改造、捏造など思いのままではないか。

    以上は、公文書その他記録文書類の保存、収集が如何に重要であるかを改めて警告している。とすれば、昨今の役所の公文書その他の管理の杜撰さに対し、国民は一層注視していかなければならないはずだ。

     

    さきの「二つの国」は、米国だけの事ではない。日本、ヨーロッパ、中国、韓国等は、いずれも同様の問題を抱えているのではないか。グローバル化により、国内にあった製造業はより安価な労働力や生産の適地を求めて諸国へ移転し、同時に資本と技術も引き抜かれ、国内産業は空洞化せざるを得ない。それは当然、関連する国内の膨大な下請け業者や商業施設を衰退させ、これは一国全体に波及する。それにしても、「日本製鉄 呉製鉄所を閉鎖へ」(朝日新聞‘20,2/7)の記事は衝撃的であった。さらに同社はこれに留まらず、非効率な製鉄所の閉鎖も次々計画しているようであり、これがかつて「鉄は国家なり」と謳歌した、わが国の製鉄業の現在である。まさに、ラストベルトは米国だけの話ではないのである。

    しかも、そのグローバル化の密度は途方もない。例えば自動車生産は移転先の工場で一貫して生産され、完結するのではない。ある部品はA国、原料はB国からというように、細分化と共に特化され、網目のようにくみ上げられたグローバルなサプライチェーンが成立しているのである。であれば、今般のコロナ禍や大規模な自然災害が起これば、その国から供給されるはずの部品が途絶え、日本国内での生産が中止に追い込まれることもあったと言う。それ故、日本政府は、現在中国に集中しすぎている生産拠点の分散化を、その政治リスクも考慮して検討しているとは、過日の報道にあるとおりである。

    こうした国外移転の産業とは反対に、通信・金融・証券・技術部門および、広告産業ほかの関連産業部門(但し金融部門は現下の低金利政策と融資先の縮小により低迷しているが)は高成長を享受し続け、それらが集中する大都市圏の商業圏は空前の繁栄を誇っている。東京に見る沿海諸都市部に展開される高層ビル群、マンション街はその象徴であろう。

    熱狂的なトランプ支持者たちの怒りは、一面もっともであり、よく分かるにしても、これをそのまま放置してはならない。分断された「二つの国」は是非にも繋げられなければならない。何ゆえにかくなったかを解き明かし、相互の理解を進める事であろう。それにしても、筆者は問いたい。国をここまで分断させたこれまでの米国政府の経済政策はどこまで真面であったのか。4年前、民主党は長年の熱烈な支持者から見捨てられる憂き目にあった。つまり、党は彼らの真の要望に向き合って来なかったのである。それを、今回どれ程回復したのであろうか。

    だが他方で、トランプ大統領はこの4年間で、両者の分断を埋める努力、政策をいか程進めてきたのであろうか。外交政策はさておき、国内の貧富の格差、人種差別、地球温暖化を放置し、むしろ分断を煽り、それを利用し、熱狂的な支持者たちを獲得してきたのではなかったか。彼の減税政策は富裕層に一層優位であり、貧困層にはさほどの恩恵にはならない。彼らには減税されるほどの所得が薄いからである。さらに各種の社会保障への攻撃は報道される限りでも目に余る。

    ともあれ、今や米国はじめ「二つの国」の分断に苦しむ諸国は、癒されなければならない。その第一は、経済格差の是正であり、米国に見る極端な貧富の解消ではないのか。その手掛かりは、まずは税制を見直し、累進課税による所得の再配分機能を再生させることだ。こうして政治的にも健全な中産階層が復活し、社会の安定性は増すことになるだろう(同様の見解として、デミン前掲書参照。また、少々ほめ過ぎだが、ジェスパー・コル(ジャパンタイムズ定期寄稿者)の論説・「米国、日本に学べ」(ジャパンタイムズ‘20、11/14)を挙げておく)(以下次回)。

  • 11月6日・金曜日。曇り。米大統領選、いまだ決着を見ず、それにつれ不穏な空気が醸成されつつある。だがここは米国の良識を信じ、事態の平穏な解決を祈る他はない。

     

    一昨日(11/4・水)の朝日新聞特集記事の中に、「進む分断 異なる意見の現実知って」と題する記事があり、小欄ながら、米国トランプ支持者の本音の一端に触れ、彼らの支持理由を簡潔に伝えている。

    ここで言う支持者とは、「ラストベルト」と称される中西部の、殊にオハイオ州の製鉄業労働者たちである。彼らは長年民主党支持者であった。だが、前回の大統領選以来、共和党と言うよりも、トランプ大統領支持者へと転換する。その理由は、彼らの次の不満の内に凝縮されていよう。「米国は二つの国でできている。カリフォルニア州の連中が荷下ろしする輸入品は、かつて俺たちが作っていたもの。俺たちの仕事を奪っていることに連中は気づいていない」。

    たしかに、現実に起こっていることは、その通りであろう。米国東西の二つの海岸線沿岸部では、輸出入の交易が栄え、大都市が続き、金融・不動産・技術・電子部門といった知識集約的な産業は天井知らずの成長を謳歌しながら、中西部の製鉄・自動車等の製造業は衰退の一途をたどる。しかもそれら製造業の多くは、安価な労働力と巨大な市場に惹かれて、中国他アジア地域へと移転してしまった。

    これぞ、政府の規制、介入は不要であり、唯一取るべき政策は国内の治安と戦争抑止に尽きると言わんばかりの、夜警国家的な新自由主義論に基づき、グローバル化を推進してきた経済政策の結果であり、成果である(P・デミン・栗林寛幸訳『なぜ中間層は没落したのか アメリカ二重経済のジレンマ』慶応義塾大学出版会・2020)。だがそれは、ラストベルト地帯の労働者から見れば、支持してきた民主党の裏切りであり、自分たちは見捨てられたとみたのもやむを得ない。これに対して、トランプ大統領は、明瞭に「アメリカファースト」を掲げ、国内に産業を呼び戻し、移民を遮断し、彼らの不満の解消に尽力したのであるから、揺るぎない支持を得たのも当然であったろう。

    なるほど歴史的な文脈を離れ、現状だけを切り取って見れば、彼らの失望と怒りはよく理解できる。それ故、冨永京子氏は先の特集記事で言う。「現実を見ると、自国優先の大統領を支持したい気持ちは上から目線で断罪できるものでは全くない」。確かに、その通りであろうが、ここには触れられていない他の側面もあり、それが大統領に対する支持以上の巨大な不満、批判として浮上しているのも現実である。まさにそれが「二つの国」米国の姿なのであろう(以下次回)。

  • 10月28日・水曜日。曇り。

    10月30日・金曜日。薄曇り。昨日(10/29・木)のジャパンタイムズの記事「ウイルスとの戦闘では、免疫体系が身体を攻撃しうる」を読み、前回の我が主張を補強するものとして、ここに一点だけ引用しておく。なお、同記事は、COVID-19の実態、今だ不明なり、とするこれまでの同紙の論説の延長線上にある、と見てよい。新たな研究によれば、本病の回復者の中には、「免疫系が身体に向かい、それは狼瘡(ろうそう)のような潜在的な衰弱性疾患」を想起させる徴候を抱えた患者が出てきた。「ある時点になると、これらの患者の身体の防御システムは、ウイルスに向かうよりも、むしろ自分自身への攻撃に転換したのである」。なお、狼瘡とは、体内に自己抗体を産生する自己免疫疾患で、難病で知られる膠原病の一種であると言う。

    11月4日・水曜日。晴れ。前回の文章に3段落追加し、文章に手を入れる。

     

    これまで数回にわたり、インカ帝国滅亡の物語を素材にしながら、実はその影の主役は天然痘であり、痘瘡ウイルスであることを示してみた。元より医学者でもなく、その素養も無い筆者が、誠に大それた、無謀の挙に出たわけだが、それでも挑戦し続けたのは、マクニール他の労作を当てに出来たからであった。そうしてここで言いたかったことは、何世紀もの蓄積をえた歴史的知見は、事柄に対する浸透力のある認識や理解をもたらして呉れるものだと言うことである。病原菌、ウイルスの生体に対する侵襲や破壊の病理的、生理的なメカニズム・機序についての知識がなくとも、長期的なスパンで病理現象を眺めてみれば、そこからある纏まった、理屈に見合った理解が得られ、それはある場合には医学者の見落とした、或いは気づかない視点を教え得るかも知れないのである。

    これについては、分野は違うが、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震が、直ちに思い起こされる。これによって、東京電力福島第一原子力発電所が破壊され、原子炉の損壊から炉心溶解を来たして大惨事を引き起こし、その窮状は10年後の今も続くことは、周知のところである。

    だが、この地震は突如襲ったものでは無い。こうした大震災の可能性は、すでにそれ以前から十分に知られており、とても「想定外」の事ではなかったのである。例えば1986年には箕浦幸治氏(東北大学理学部教授)による貞観地震(869)以前の仙台平野の古津波堆積層の研究があり、また1990年東北電力女川原発建設に際し、貞観地震の影響についての研究もなされ(『地震』2輯・43巻1990)甚大な被害のあった事が確認されるなど、それ以外にも少なからぬ研究報告等により、この地方に激甚な災害の起こり得ることは、地質学者、地震学者、歴史家によって認知されていたからである。

    東電はこれらの指摘を真摯に受け止め、然るべき対策を取っていれば今次の災害の多くは免れ得たと思うと、被害者にとっては断じて容認しえぬところであろう。そして、これらの知見が葬り去られたのは、千年以上前の地震に関する不確かな論説に過ぎず、しかも彼らは原子力発電には素人であるという、電力会社・原子力ムラ・行政と言った鉄のトライアングルの利害からであった(上川龍之進『電力と政治』上・下。勁草書房、2018)(なお、当地方の大地災の読み物として、吉村昭『三陸海岸大津波』・文春文庫を挙げておく)。

    だが、専門家たるもの、傲慢になってはならない。専門外から決定的な示唆、発想を得ることは、歴史の内には幾らでも見られるからである。あのチャールズ・ダーウィンは、主著『種の起源』(1859)の「適者生存」の着想は経済学者であるT・マルサス『人口の原理』(1798)から得たと明言しているし、ルイ十五世の愛妾・ポンパドール婦人の主治医、F・ケネーは「経済表」(1758)において、社会経済現象を人体に見立て、血液を貨幣に置き換え、これを媒介として「生産」と「消費」の循環の仕組みを明らかにし、その後の経済学の発展に計り知れない貢献を果たしたのである。つまり、その分野の専門家だけがそれについて発言しうる資格がある分けではなく、それとは無縁のいわば素人の知見、認識が大きな意味を持ちうる、と言っておきたい。

    たしかに、専門外から提示された認識の当否、その意味等は、最終的には専門家によって検証され、確定される他はない。これは疑いようもない。ただ、事柄についての物の見方、認識を持つことは、専門家の専売ではない。それは全ての人に許され、開かれたことである。この一線を堅持しなければ、我われは専門家の言いなりになりかねない。しかも、専門家の間でも見解が分かれる場合には、尋ねる相手によって、右に左に行方知らずとなる他はなかろう。ましてや、専門家の知見なるものも、実に怪しげ、と言うより御用学者の弁になるに及んでは、そうそう安心して聞いてもいられない。殊に、不確かなネット情報の氾濫する時代、また権力が問題を巧みに逸らし、すり替えて恥じることも無い時代には、この一事は特に重要である。

    では、そのためには、どうすれば良いのか。先ずは、自分が大事とする事柄・問題について、シカと見詰め、考えてみることだ。これまでの己が人生に照らし、ここで言われていることは、理屈に合うのか否かを、自分なりに点検してみることだ。それは当然、自分自身の知識を深め、思考力を鍛えて、専門家から独立した自分なりの足場を築くことにもなるだろう。見識とはそこに成り立つ。それが誰にもおもねる事の無い「一身独立」の意味ではないのか。そのように独立し、かつ互いに連帯した個々人に支えられてこその「一国独立」であろうと思う(この項終わり)。

  • 10月23日・金曜日。雨。本日、トランプ対バイデンの最後のテレビ討論会あり。その帰趨は、アメリカ人ならずとも大いに気になるところである。なお、今回より再び本題に戻って、10月14日・水曜日の論議に引き継ぐことにしたい。と言って、前回の文章が本題に無関係だったわけではない。感染症の別の一面を示した、と言う意味があるからだ。

    10月26日・月曜日。晴れ。本日、最近の文章を読み直し、特に10/12(月)の前半部分を訂正した。分かった心算で書いていても、危うい箇所は幾らでもある。残念。

     

    前回(10/14)の論議は、一言にしていえば、次のように纏められよう。個々人にせよ社会にせよ、感染症に対して強いか弱いか、つまり彼らがどの程度の抵抗力を持つかは一様ではない。と言うのも、そうした抵抗力の「差異は遺伝性の場合もあるが、多くは過去に病原菌の襲来に曝された経験の有無に由来」し、その度ごとに「病気に対する防衛能力」は「個々人の体内においても各地の住民全体としても」絶え間なく調整されざるを得ず、その結果「抵抗力と免疫の水準も高低様々」(マクニール前掲書・上・36頁)になるからである。

    この結論を踏まえて、ここで残された問題は、「過去に病原菌の襲来に曝された経験」の無いままに、突如、病原菌に襲われた個人や社会はどうなるかである。これについては、われわれはすでに、インデオ達の惨状を通じて、社会的・政治的に何が生じ得るかを知っている。ここで知りたい事は、そうした社会的・歴史的な悲惨ではなく、初めて感染した個々人の中で何が起り得るか、と言う点である。これについても、すでに周知であり、以下は今更ながらの記述に過ぎないが、話の締めくくりとして述べておかなければならない。なおこの問題は、現在、コロナ禍にある我々自身に関わり、かくて我われはマクニールから離れる事になる。

    話の接ぎ穂として、やや旧聞に属することながら、SARSウイルス感染(2003)を取り上げよう。まずは、拙著からの引用を許されたい。SARS感染者の中で「二、三○歳代の若く免疫力の高いはずの患者が重篤な症状に陥り、命を失った比率が高いのに比して、エイズ患者のSARS発症は五例(WHO報告)に留まるといわれる。ギャレットによれば、SARSウイルスは人間を死に追い込むほどの毒性はない。だが、解剖された患者の肺は「核兵器を投下」されたほどに破壊されていた。これは侵入したSARSウイルスに対して、免疫系が「制御を失う」ほどに徹底的に対応した結果であると考えられている。「人間はまだ、このウイルスと戦う方法を身につけていない」ために、その免疫系が持ちうる武器を総動員して挑んだ結果であり、そのことのゆえに、このウイルスは人間にとって新種の可能性がある、と指摘されるのである」(拙著・329頁)。

    人類にとって未知のウイルスに感染した体は、未知であるが故に、サイトカインストームと称する過剰免疫反応を引き起こし(いまだ、これが生ずる「正確な理由は完全には解明されていない」ようだ。Diseases Databaseより)、感染したウイルスによってではなく、体内の自身の免疫系によって、死に至るほどの重篤な状況へと追いやられることがあると言うのである。この時人体は、外部からの侵入者の破壊と共に、体内の免疫系からの攻撃にも晒されるということになるのであろうか。

    ほぼ300万年前、人類の祖、ルーシーは仲間と共にアフリカのサバンナから出立したと言われる。その後人類は、進化の過程で無数の病原菌やウイルスに侵されながら今日にいたるも、なお新種の病原菌に遭遇しなければならないらしい。それどころか、我々自身の体内には不可欠な細菌類も多いようで、これらと共生していることを思えば、細菌類との関係は今後とも必然的と考えざるを得ないだろう。そして、福岡伸一氏は言っている。「ウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない」(朝日新聞デジタル’20、4/6より。なお、「動的平衡」については、同氏の『動的平衡』シリーズ・小学館新書を参照されたい)。

    ここでこの話を終えるに当り、最後に一言しておこう。上記のように、人類と細菌・ウイルスとの関係は、今後とも不可避であるにしても、強欲に駆られた止めどない開発は、無限に台地を掘り返し、森林を破壊し、海底を探って、その事が地球温暖化を煽り立てれば、そこに眠るドンナ獰猛な病原菌・ウイルスを招きよせるか知れたものでは無いと言う事である。不気味なエボラウイルスはエルゴン山の洞窟かザイールの森林に潜むサルや蝙蝠由来とも言われながら、いまだ特定されていないのである(R・プレストン前掲書)(この項、終わり)。