• 10月2日・金曜日。晴れ。昨夜は満月をしみじみと仰ぎ見る。今月は八百万の神々、出雲大社に詣でる月として神無月といい、春以来の丹青の新米を刈り取り、酒を醸し(ゆえに醸成(かもな)し月とも言われる)、今年の豊饒に謝し、次年のそれを祈願する祭礼の月でもある。だが、世情はそんな静謐を許さない。森林火災、コロナ禍、経済のひっ迫、香港・台湾・新疆、毒物暗殺、混迷の米大統領選…。

    10月7日・水曜日。曇り。熱暑の日々から一転寒さを覚える。春夏秋冬と言われるが、近年の四季は、春秋が極端に短く、冬も暖冬となり、夏のみが長く、厳しい。これは筆者の勝手な思い込みなのか。あるいは自然からの何らかの警告であろうか。なお、本日、前回の文章に手を入れつつ、後半に一段落を追加した。

     

    今少し、コレラ感染に関わろう。微生物の繁殖には、それに都合の良い環境が必要である。コレラ菌の場合は、人々のある程度密集した生活環境の出現と、不潔である。本病は患者の排泄物中に含まれるコレラ菌を摂取した人が感染する。だが、そんな事を意図する人は、ある特有の嗜好を持つ者以外は、まずあり得ない。「文明の夜明け以来、人類はさまざまな文化を築いたが、他人の排泄物を食べるというのはどんな文化、民族でもタブーである」(S・ジョンソン・矢野真千子訳『感染地図 歴史を変えた未知の病原体』63頁・河出文庫、2020)。とすれば本病の感染は、汚染された水を、知らずに飲料水として摂る場合が多い。

    他方で、細菌は劇症であるほど、他に感染させる間もなく、寄生した生体を殺してしまうが、それはまた菌自身の消滅でもある。コレラ菌はまさにそうであった。それ故に、菌は生まれ故郷のガンジスデルタに留まり、インドの地方病として「数千年のあいだひっそりと暮ら」すほかはなかったのである(同上)。

    だがしかし、彼らコレラ菌の蟄居生活は、突如として終わった。彼らの道が開けたのである。大英帝国の出現と共に、交易が益々盛んとなった。不潔なデリーは、様々な船舶ルートを介して、それに劣らず不潔なロンドン、パリ等と繋がった。因みに、19世紀に至るまでのヨーロッパ諸都市の環境衛生の惨状について記した文献は幾らでもある(この際、どさくさに紛れて、拙著もその一冊にくわえておこう)。であればこそ、幕末期、わが国に到来したヨーロッパ人たちが、極東の野蛮なはずの非キリスト教国の都市生活の衛生状態に驚嘆したのである(実は、江戸の裏町、場末の不潔はヨーロッパに引けを取るものでは無かったのであるが)。

    都市の多層階の密集生活と共に、ため置き便所内の道路に溢れんばかりの排泄汚物の堆積、不備な下水道から漏れ出す糞尿は地下水へと流れ込み、それは住民たちの貴重な飲料水となったのだから、たまらない。「人口密集地での飲料水汚染は単に人間の小腸を循環するコレラ菌を増やしただけでなく、細菌の悪性度も高めた。これは病原体微生物の集団で以前から観察されていた進化原則のひとつだ。細菌やウイルスは人間よりもずっと早いスピードで進化する。細菌の生活環境は極端に短い。一個の細菌から数時間のうちに百万個の子孫が作り出されることもある」(同・65頁)。

    その結果はどうか。ロンドンが初めてコレラに見舞われたのは1781年であった。その後、タイムズ紙によれば、「1817年、トルコからペルシャ、シンガポール、日本にかけて」「劇症のコレラが吹き荒れ」たが、これは「アメリカにまで広がり1820年にやっとおさまった」。しかしそれは疫病蔓延の単なる前哨戦に過ぎず、‘29年、コレラは再び侵攻を開始しアジア、ロシア、アメリカからヨーロッパを襲って、’33年にはイングランド、ウェールズで2万人を超える死者を、さらに「1848年から49年にかけての集団感染はイングランドとウェールズの5万人の命を奪った」と言う(同54頁)。このようにコレラは波状的にヨーロッパ各市を襲い、その度毎に少なからぬ人命を犠牲に供し、非常なる恐慌状態を来たしたのであった。

    要するに、感染症とは、細菌、ウイルスが繁殖できる環境と、彼らが死滅する以前に、容易に次の生体に寄生しうる条件が整えられるならば、際限なく増殖し、拡大できるという事である(以下次回)。

  • 9月28日・月曜日。晴れ。本日より、9/8・(火)で中断された、インカ帝国滅亡に関わる天然痘の問題に戻ることにしよう。

    9月30日・水曜日。晴れ。前回の続きだが、はたして話が上手く運べるものやら覚束ない。これは今に始まった事では無いので、ご容赦あれ。

     

    言うまでもなく、当時スペイン人達がこの疫病を免れたのは、彼らがキリストの神を信じていたからではない。彼らにはすでに免疫があったからである。では、それは何故か。反面、インデオには、何故、免疫が無かったのか。これには、長い物語がある。

    感染症は、生体が細菌・ウイルスなどに汚染することで惹き起こされる病気であるが、その感染経路は、多様である。患者の看護や、彼の使用した物品、排泄物に触れる、あるいは彼から吐き出された息、唾液等に含まれる病原菌を吸収する、またその空気中に浮遊する病原菌を取り込んで発症する直接感染の他、菌に汚染された飲食物や病原菌を宿す動物を介しての間接感染がある。感染によって発症する病気とその劇症性も多様である。

    ここでは、病気の原因である細菌とウイルスの差異とその感染の仕組みについては割愛するが(実は、筆者にはそんな能力もないからである)、例えばコレラ菌の病理作用はこうである。飲食物を介して患者の体内に取り込まれたコレラ菌は、しばしば「米のとぎ汁様便」と言われるほどの下痢や嘔吐と共に、強度の脱水症状を発症させる。かくて皮膚はたるんで青色を帯び、皺だらけの顔には青紫に変色した唇が張り付くという、コレラ特有の顔貌を呈する(ペストの黒死病に対し、「青の恐怖」とも言われる)。

    コレラはさらに生命維持の低い臓器から順に機能停止に追い込む。手足の末端から心臓に至る血管の閉塞が特有の痛覚を患者に与え、こうして彼は死の到来を一段一段意識しながら最後を迎えさせられるという意味で、その酷さは募る。水分を失った血管には老廃物が溜まるばかりで、尿毒症と共に残された生命維持器官が一気に停止し、短時間のうちに彼は死するのである。江戸期に「三日ころり」と言われたのはこの意味であるが、これがだいぶ前にも触れた(3/27(金)を参照の事)本病特有の恐怖の実態である(以下次回)。

  • 9月23日・水曜日。雨。新たな台風の接近により、列島の太平洋沿岸部の天気ぐずつく。気温の上下動に体調追いつかず、残念。

    9月25日・金曜日。雨。本日、2ヶ月に1度の役員会あり。その後、前回の文章の後半部分に手を入れる。通常であれば、会議後は直ちに退社のところ、今日は我にもあらず、中々勤勉であった。

     

    本日、あと一回、大学のオンライン化問題について考えてみたい。前回論じたことから取りこぼした問題に気付かされたからである。

    前回の論題は、コロナ禍を契機として、社会全体もそうだが、大学の在り方も劇的な変容を迫られ、キャンパスはじめ授業もオンライン化されることによって、今後辿るであろう大学の変革とその方向性を示してみた。その結果、大学は多少なりとも、世界の大学と直接つながり、そうした授業体制を取らざるを得ないと同時に、これまで場所的に拘束されていた立地の問題から大学は解放される。それは都心型大学のこれまでの比較優位性を失うことに成るのではないかという事であった。

    以上は、現在与えられた条件から将来を展望した論理の問題である。しかし、それとは別に、ただ今現在なされている、各大学のオンライン授業の現状の問題がある。これはこれで、実際にその授業に接する学生にとっては、実に深刻で切実な問題である。恐らく、彼らの授業に対する満足度は、相当低いであろう。まず、大学のインフラ整備の問題がある。しばしば通信映像や音声は不鮮明であり、途切れがちであるに違いない。これが授業かと憤懣もあろうかと察する。他方で、これを扱う教員側の技能上の問題が加わる。だが、これらは、全て経過的な問題として、大学は一つずつ誠実に解決していかなければならない、と言って置く。

    新入生の困惑はさらに深かろう。大学の施設を知らず、級友も持たない。だが、大学生活の魅力は、新たな級友たちとの出会いではないのか。特に、全国から集まる都心型大学の学生にとっては、これこそ他にはない最大のメリットであろうと信ずるからである。かくして、施設利用料等(殊に理系学生の場合は深刻である)の返還の声が上がるのも、当然であろう。

    これらとは別に、次の問題もここで指摘しておきたい。大学はこの度のオンライン授業化をどう捉えているかという点である。オンライン化は、コロナ禍によってやむなく対応した一過性の対策に過ぎず、正常に復せば自ずと解消される事と考えるのか、この種の疫病は今後も続き、それがなくともオンライン化は逃れられない世界の潮流と捉えるのかという問題である。

    前者であれば、何の問題もない。しかし、後者と考えれば、事態は深刻である。今回の経験をもとに、まずはインフラ整備を図り、トラブルを皆無にする事。オンライン授業の有効性と限界を整理し、限界面を補正するカリキュラム上の改善が不可避である。教員側の通信技能の向上は勿論、授業方法の在り方も工夫されなければなかろう。

    筆者は時たま、NHK放送大学の授業番組を見るが、一口に言って、やはり面白くない。それは、授業内容がではない。授業は良く練られ、工夫されているにしてもである。講師が一方的に話すその方式が、退屈になって、スイッチを変えてしまう。大学の講義もこれとそう変わりはないが、しかし教場ではそう簡単に退出が憚られ、教室内にいやでも留まっていなければならない。友人たちも聴講しているという、連帯感もあろう。また実際の講義には教師の人柄や、語り口、時たまの冗談と話の膨らみが、授業への興味をつなぎ留めるのであろうか。やはり、これがライブの強さであろう。

    とすれば、オンライン授業が面白くないであろうことは、十分察せられる。これに対しては、表や動画、映像、音楽等を組み込むといったテレビ的な手法が浮かぶが、こんな事は一般教員にはまず出来ない。しかも、毎回の授業となれば、無理である。だからであろうか、ミネルヴァ大学のオンライン授業は、ゼミ形式による学生たちの討論中心であり、教師はそれを言わば行司役のようにして指導する形であった。あるいはアクティブラーニングなる方法もある。ただし、それらで万事が済むのかどうか、筆者にも分からない。だが、今後はオンライン授業もまた重要な授業方法の一つであると認識すれば、大学は(そして教員も一体となって)、外部の映像メディアの協力をあおぎながら、見せつつ聞かせるといった授業方法の改善に取り組むなど、発想の転換が必要になってくるのかも知れない。いずれにせよ、もはや従来型の授業方式に安住できる時代で無くなったことだけは、明らかである(この項、終わり)。

  • 9月18日・金曜日。晴れ。本日の出社はかなりこたえた。ヘンテコな陽気、重いリュック、深夜の8千歩近い散歩(?)(一度きりだが、パトカーから付け狙われた)、未明3~4時の就寝、他にもある数々の不徳が重なって、かなりマイッタ。それでも、今の所、重篤な病は免れているらしいことに感謝すべきか。なお、前回の文章、やや手を入れた。

     

    国内では、2004年設立の秋田県公立大学法人・国際教養大学に特に注目したい。本学はミネルヴァ大学とは違い、キャンパスはじめ壮麗な図書館、学生寮他大学教育に必要な施設を擁しているが、現下のコロナ禍により、他大学と同様、オンライン授業を余儀なくされている。しかし本学は、この流れを一過性のものではなく、大学教育の根本的な変革を迫り、同時に地方大学の今後を開く機縁として、積極的・具体的に捉えようとされている点で興味深い。ここには、筆者と同根の構想があると感ずるが、それ以上に都心型大学の優位性を問い直そうとされているような視点もほの見えるのである。

    それは、どういう事か。鈴木典比古学長は言っている(日本経済新聞。’20年9/4・金。電子版より)。国際教養大学では、日本語教育学や第二外国語学習等の科目以外は「全授業を英語で提供しているが」、目下は、23の国・地域からの留学生は母国から、日本人学生は自宅からオンラインでの授業に出席している。かくして授業は世界中に同時配信されている。

    たしかに、「20世紀までの大学教育は学生が大学の所在地に出向」いて、「授業では大教室で教員が一方的に行う講義をノートにとって試験を受け、成績をつけられて4年間で卒業するものだった」。しかし今や、事態は変わった。「オンライン授業では、講義の規模にもよるが教員と学生は瞬時に画面上で極めて身近に対峙し、表情やしぐさまでが相手に届く。極端な表現をすれば、大学はパソコンとWi-Fiがあればキャンパスも校舎も教室いらない。我々は全く新しい21世紀型教育へのパラダイムシフトの渦中にいるように思う」。

    だが、全てがオンライン授業でケリが付くわけでないことは、言うまでもない。人と人とが相まみえて初めて学ぶ他はない領域は幾らでもある。人間の多様性を知る、また外国での生活体験はその最たるものであろう。そのためにも本学では「教育・生活一体型キャンパス、1年間の留学必修」と言ったカリキュラムが組まれているのである。

    さらにここでの授業内容は、いわゆる専門教育に特化されてはいない。現在の世界が直面する諸問題は、一専門知識によって解決されるような体のものでは無いからだ。同時にこれらは、国際的でもある。「経済・社会の課題は極めて複雑だ。資源争奪、気候変動、難民」等、挙げればきりは無かろう。それゆえ、「多角的・多元的分析を伴う学際的研究とそれを踏まえた学問の課題解決への応用性」が問われることになる。こうした意味で、国際的かつ教養教育の重要性が認識されてきたのである。それが「国際教養教育」をカリキュラムの核心に据えた理由であり、本学の名称にもなったのであろう。しかも教育の根幹には、何よりも人間に対する豊かな共感力が無ければ、知識は他者に対する支配の道具になりかねない。ここで必要なのは、他者に対する想像力、共感力と言った「全人的教養や幅広い知識」、すなわち高潔な精神や倫理観の涵養である。かくて「科学と人間学を結合」する視点が浮上するのである。

    以上を辿ってみれば、教育理念、それを実現するカリキュラム、施設等に何か欠けるものとてないが、これまではその多く、つまり資力、人材、施設、情報等のほとんど全てが大都市に集中していたのに対して、デジタル化の進展により、いまや地方でもそれが可能になって来た。むしろ、地方でこそ広大な土地と豊かな自然環境や資源の利用が可能であり、地方居住者は都会に出てくる必要もなくなった。同時にそれは、地方の活性化にとって願ってもない事態であるに違いない。

    今や、都心でしか得らなかった様々な利便性が、もはや都市の独占物でなくなった。このような時代環境の中、都心型大学は上記の地方大学からの反転攻勢に、いかなる対応策をもってこれに答えようとするのであろうか。その一歩を誤れば、たちまち淘汰の波に浚われるのは都心型大学ではないのかと案ずるのである。そして、最後に問う。ここに至って、都心型大学が地方の人びとに対して、これこそが誇るべき我らの利点であり、財産である。それはまた、地方出身の学生、その家族が負う過大な経済的負担を償って余りある宝である、と主張しうるものは何か(この項、終わり)。

  • 9月11日・金曜日。晴れ。清涼な秋空いまだし。

    9月16日・水曜日。曇り。このところやや涼しく、夜間のエアコンを止める。

     

    本日は急遽予定を変更し、現在、我が国の諸大学が取り組んでいる授業等のオンライン化と今後の大学像について、筆者なりの予想を示してみたい。というのも、このオンライン化には、とりわけ都市型大学の存立にとって極めて重大かつ深刻な意味が潜んでいると思われるからである。

    すでに述べた通り、筆者は、25年前、コンピュータという情報機器が惹起する大学の教育・研究に対する変革力、さらには大学制度の根幹それ自体に及ぼす影響力について拙論(本文書は、今年、6/19・(金)の本欄に全文掲載済みである)をものしたことがある。その文書で示された一部は、ただ今現在、確かに現実のものとなった。さらに、そこで論ぜられた論題の延長線上に、最近手にした情報から、筆者なりの近未来的な大学像が浮かび上がってきた。それゆえ、以下は先の拙論の続編、ないし補足である。

    2014年、米国サンフランシスコに、ミネルヴァ大学が全寮制の4年生総合大学として開校された。但し、本学には特定のキャンパスが無く、学生は4年間で世界7都市に移住しながら、オンラインで授業を受講する点に最大の特徴がある。

    授業形態は教員による講義形式を取らず、1クラス19名を上限とする、恐らくオンライン上のセミナー型であり、学生同士のディスカッションが中心となって進行する。全授業は録画され、音声は自動筆記により直ちに文章化されることから、講師からのフィードバックは迅速確実であり、授業の反復見直しと共に、学びの深化が図られる。くわえて、毎講義ごとに出る5段階評価によって、学生はそのつど自身の理解度を突き付けられることになる。因みに、初年度の入学合格率は2.8%であった。その事もあってか、「ハーバード大学以上の難関」校との評価もあるようである。

    このミネルヴァ大学に日本人として初めて入学した日原翔氏は、大学の魅力をほぼこう語っている。自由を重んじるミネルヴァでは、授業以外の時間は完全にフリーであり、自らの関心に応じて生活圏を広げ、能力を磨く。授業は「必要な知識は各自で事前に学んできていることを前提としたディスカッション形式」のため、その準備は確かに大変そうだが、それもセルフマネージメントとして楽しめばよい。場所的制約の無いオンライン授業では、パソコンとインターネット環境があれば、地球上のどこからでも授業に出席できることから、外国の重要イベントに直接参加しながら授業をこなす離れ業も可能である。現にそうした学生もいたそうだ。

    1学年のカリキュラムから、本学の学びの特徴が見て取れる。一言で言えば、「思考習慣と基礎概念」の涵養にある。「ある問題にぶつかった時にすぐにその問題そのものに取り組むのではなく、その問題の背景にはどんな文脈があって、どんな人たちが関わっていて、そこにはどんな力関係があるのか、そういう細部にまで目をむけるというような。」そうした思考訓練は、「ミネルヴァ独自のカリキュラム」の中で徹底され、注意すべき視点は「全部で100以上の項目からなっている」。ここには、筆者には今一つハッキリしない部分もあるが、学生は、取り組む問題を、できるだけ幅広い文脈に位置づけながら、人からただ教えられるのではなく、自ら思索を深め、どこまでも本質に迫ろうとする、そうした視野と思考力を身に付けるように訓練されている。そのように理解される(以上は、フリー百科事典『ウィキペディア』及び『i✕キャリアコンパス https://ix-careercompass.jp/article/822/』を参照した)(以下次回)。