2020年9月23,25日

9月23日・水曜日。雨。新たな台風の接近により、列島の太平洋沿岸部の天気ぐずつく。気温の上下動に体調追いつかず、残念。

9月25日・金曜日。雨。本日、2ヶ月に1度の役員会あり。その後、前回の文章の後半部分に手を入れる。通常であれば、会議後は直ちに退社のところ、今日は我にもあらず、中々勤勉であった。

 

本日、あと一回、大学のオンライン化問題について考えてみたい。前回論じたことから取りこぼした問題に気付かされたからである。

前回の論題は、コロナ禍を契機として、社会全体もそうだが、大学の在り方も劇的な変容を迫られ、キャンパスはじめ授業もオンライン化されることによって、今後辿るであろう大学の変革とその方向性を示してみた。その結果、大学は多少なりとも、世界の大学と直接つながり、そうした授業体制を取らざるを得ないと同時に、これまで場所的に拘束されていた立地の問題から大学は解放される。それは都心型大学のこれまでの比較優位性を失うことに成るのではないかという事であった。

以上は、現在与えられた条件から将来を展望した論理の問題である。しかし、それとは別に、ただ今現在なされている、各大学のオンライン授業の現状の問題がある。これはこれで、実際にその授業に接する学生にとっては、実に深刻で切実な問題である。恐らく、彼らの授業に対する満足度は、相当低いであろう。まず、大学のインフラ整備の問題がある。しばしば通信映像や音声は不鮮明であり、途切れがちであるに違いない。これが授業かと憤懣もあろうかと察する。他方で、これを扱う教員側の技能上の問題が加わる。だが、これらは、全て経過的な問題として、大学は一つずつ誠実に解決していかなければならない、と言って置く。

新入生の困惑はさらに深かろう。大学の施設を知らず、級友も持たない。だが、大学生活の魅力は、新たな級友たちとの出会いではないのか。特に、全国から集まる都心型大学の学生にとっては、これこそ他にはない最大のメリットであろうと信ずるからである。かくして、施設利用料等(殊に理系学生の場合は深刻である)の返還の声が上がるのも、当然であろう。

これらとは別に、次の問題もここで指摘しておきたい。大学はこの度のオンライン授業化をどう捉えているかという点である。オンライン化は、コロナ禍によってやむなく対応した一過性の対策に過ぎず、正常に復せば自ずと解消される事と考えるのか、この種の疫病は今後も続き、それがなくともオンライン化は逃れられない世界の潮流と捉えるのかという問題である。

前者であれば、何の問題もない。しかし、後者と考えれば、事態は深刻である。今回の経験をもとに、まずはインフラ整備を図り、トラブルを皆無にする事。オンライン授業の有効性と限界を整理し、限界面を補正するカリキュラム上の改善が不可避である。教員側の通信技能の向上は勿論、授業方法の在り方も工夫されなければなかろう。

筆者は時たま、NHK放送大学の授業番組を見るが、一口に言って、やはり面白くない。それは、授業内容がではない。授業は良く練られ、工夫されているにしてもである。講師が一方的に話すその方式が、退屈になって、スイッチを変えてしまう。大学の講義もこれとそう変わりはないが、しかし教場ではそう簡単に退出が憚られ、教室内にいやでも留まっていなければならない。友人たちも聴講しているという、連帯感もあろう。また実際の講義には教師の人柄や、語り口、時たまの冗談と話の膨らみが、授業への興味をつなぎ留めるのであろうか。やはり、これがライブの強さであろう。

とすれば、オンライン授業が面白くないであろうことは、十分察せられる。これに対しては、表や動画、映像、音楽等を組み込むといったテレビ的な手法が浮かぶが、こんな事は一般教員にはまず出来ない。しかも、毎回の授業となれば、無理である。だからであろうか、ミネルヴァ大学のオンライン授業は、ゼミ形式による学生たちの討論中心であり、教師はそれを言わば行司役のようにして指導する形であった。あるいはアクティブラーニングなる方法もある。ただし、それらで万事が済むのかどうか、筆者にも分からない。だが、今後はオンライン授業もまた重要な授業方法の一つであると認識すれば、大学は(そして教員も一体となって)、外部の映像メディアの協力をあおぎながら、見せつつ聞かせるといった授業方法の改善に取り組むなど、発想の転換が必要になってくるのかも知れない。いずれにせよ、もはや従来型の授業方式に安住できる時代で無くなったことだけは、明らかである(この項、終わり)。


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