2020年9月18日

9月18日・金曜日。晴れ。本日の出社はかなりこたえた。ヘンテコな陽気、重いリュック、深夜の8千歩近い散歩(?)(一度きりだが、パトカーから付け狙われた)、未明3~4時の就寝、他にもある数々の不徳が重なって、かなりマイッタ。それでも、今の所、重篤な病は免れているらしいことに感謝すべきか。なお、前回の文章、やや手を入れた。

 

国内では、2004年設立の秋田県公立大学法人・国際教養大学に特に注目したい。本学はミネルヴァ大学とは違い、キャンパスはじめ壮麗な図書館、学生寮他大学教育に必要な施設を擁しているが、現下のコロナ禍により、他大学と同様、オンライン授業を余儀なくされている。しかし本学は、この流れを一過性のものではなく、大学教育の根本的な変革を迫り、同時に地方大学の今後を開く機縁として、積極的・具体的に捉えようとされている点で興味深い。ここには、筆者と同根の構想があると感ずるが、それ以上に都心型大学の優位性を問い直そうとされているような視点もほの見えるのである。

それは、どういう事か。鈴木典比古学長は言っている(日本経済新聞。’20年9/4・金。電子版より)。国際教養大学では、日本語教育学や第二外国語学習等の科目以外は「全授業を英語で提供しているが」、目下は、23の国・地域からの留学生は母国から、日本人学生は自宅からオンラインでの授業に出席している。かくして授業は世界中に同時配信されている。

たしかに、「20世紀までの大学教育は学生が大学の所在地に出向」いて、「授業では大教室で教員が一方的に行う講義をノートにとって試験を受け、成績をつけられて4年間で卒業するものだった」。しかし今や、事態は変わった。「オンライン授業では、講義の規模にもよるが教員と学生は瞬時に画面上で極めて身近に対峙し、表情やしぐさまでが相手に届く。極端な表現をすれば、大学はパソコンとWi-Fiがあればキャンパスも校舎も教室いらない。我々は全く新しい21世紀型教育へのパラダイムシフトの渦中にいるように思う」。

だが、全てがオンライン授業でケリが付くわけでないことは、言うまでもない。人と人とが相まみえて初めて学ぶ他はない領域は幾らでもある。人間の多様性を知る、また外国での生活体験はその最たるものであろう。そのためにも本学では「教育・生活一体型キャンパス、1年間の留学必修」と言ったカリキュラムが組まれているのである。

さらにここでの授業内容は、いわゆる専門教育に特化されてはいない。現在の世界が直面する諸問題は、一専門知識によって解決されるような体のものでは無いからだ。同時にこれらは、国際的でもある。「経済・社会の課題は極めて複雑だ。資源争奪、気候変動、難民」等、挙げればきりは無かろう。それゆえ、「多角的・多元的分析を伴う学際的研究とそれを踏まえた学問の課題解決への応用性」が問われることになる。こうした意味で、国際的かつ教養教育の重要性が認識されてきたのである。それが「国際教養教育」をカリキュラムの核心に据えた理由であり、本学の名称にもなったのであろう。しかも教育の根幹には、何よりも人間に対する豊かな共感力が無ければ、知識は他者に対する支配の道具になりかねない。ここで必要なのは、他者に対する想像力、共感力と言った「全人的教養や幅広い知識」、すなわち高潔な精神や倫理観の涵養である。かくて「科学と人間学を結合」する視点が浮上するのである。

以上を辿ってみれば、教育理念、それを実現するカリキュラム、施設等に何か欠けるものとてないが、これまではその多く、つまり資力、人材、施設、情報等のほとんど全てが大都市に集中していたのに対して、デジタル化の進展により、いまや地方でもそれが可能になって来た。むしろ、地方でこそ広大な土地と豊かな自然環境や資源の利用が可能であり、地方居住者は都会に出てくる必要もなくなった。同時にそれは、地方の活性化にとって願ってもない事態であるに違いない。

今や、都心でしか得らなかった様々な利便性が、もはや都市の独占物でなくなった。このような時代環境の中、都心型大学は上記の地方大学からの反転攻勢に、いかなる対応策をもってこれに答えようとするのであろうか。その一歩を誤れば、たちまち淘汰の波に浚われるのは都心型大学ではないのかと案ずるのである。そして、最後に問う。ここに至って、都心型大学が地方の人びとに対して、これこそが誇るべき我らの利点であり、財産である。それはまた、地方出身の学生、その家族が負う過大な経済的負担を償って余りある宝である、と主張しうるものは何か(この項、終わり)。


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