• 6月20日・月曜日。曇り。本日は前回の続きのつもりが、前文が長引いて、それが本文に化けてしまった。

    蒸し暑さ募る。参った。明日は夏至。今夏の熱暑を思うと、今からひるむ。そう言えば、最近のニューヨークタイムズでは、世界中の気候変動による各地の惨禍が頻々と伝えられていた。例えば、米国ソルトレークの湖が縮小しつつあるとか、南洋諸島の水没の危機、あるいはインドでは熱波による死者の多発や穀物の生育不良にくわえ、ヒマラヤの氷河の溶解と洪水により、近隣地域が被害に合うと言った具合である。

    そうして、開発と称する人間の経済活動が、一層気候変動の激化に拍車をかける。一昨日の同紙(6/18-19)は、コンゴ河一帯における熱帯降雨林の乱伐を報じているが、その惨状は見るも無残である。何しろ、何十メートルもある巨木が多数切り倒された流域は、樹木から流れ出る樹液でキャラメル状に濁るほどであり、これらをロープやワイヤーで括り付け大小の筏となして、下流の首都キンシャサ付近の港湾まで流すというのである。全行程は優に250マイルを超え、一か月以上を要する長旅である。その間、浅瀬に座礁し、流量に難儀し、時に筏は崩壊の憂き目を見るという。

    しかも同地域は、南米アマゾン河流域に次ぐ、世界第二位の雨林地帯であるというから、それが果たす環境的・生態学上の巨大で多様な機能―すなわち、二酸化炭素の吸収と酸素の放出、生物多様性の維持等々―の喪失は、温暖化はもとより、地球上の全生物の生存に深刻な影響を及ぼすに違いない。

    人類は気候変動の激化から、これまでも実に多くの警告を受けながら、眼前の利益に取り付かれ、大地をうがち、海底をあさり、しかも強大な機械力を駆使して、その規模を暴力的、累積的に拡大して今日まで来てしまった。そして、いまだにその歯止めをかけられない。持続可能な経済成長の声が漸く聞こえるようになったが、それでも先進国はその必要もないような「経済成長」に取り付かれている。このままでは、人類は益々狂暴の度を増す地球の温暖化、熱帯化に飲み込まれ、地球もろとも滅びるのではないかと、心底、思う。これに比すれば、覇権主義的な領土の拡大やら、欲に駆られた経済成長など、真に詰まらぬことではないのか。何しろ、自分たちが立っている地球そのものの存立が危ういとすれば、領土だカネだなどと、言ってはいられないではないか(この項、終わり)。

  • 6月15日・水曜日。雨時々曇り。前回の文章にやや手を入れた。
    6月17日・金曜日。晴れ。蒸し暑い。

    ロシア政府は、軍への人権教育は一片もないが、兵へのプロパガンダ(普通「宣伝」と訳されるこの言葉は、政治・社会学的に特有な意味を持つ。大衆、世論を宣伝者(多くは権力者)の意図する方向に向かわせるための意図的組織的な情報活動である)は、実に周到、執拗であり、「洗脳」そのものである。たとえばこうだ。そもそもウクライナはロシアの一部であった。だが、ロシアからの離脱をはかる「反逆者」が台頭し、国民への扇動を強め、これに反対する者には容赦ない弾圧がなされている。これはナチ化したウクライナ政府や軍の非道であり、かくて国民は彼らに「征服され、今やロシアの兄弟たちが解放してくれるのを待っているのだ」と。
    であれば、進軍した露軍は歓喜と感謝をもって歓迎されるはずであった。ましてや、兄弟のウクライナ人から苛烈な攻撃をこうむるなど、全く思いもよらぬことであった。これほどの理不尽があろうか。さらには、ウクライナ戦線への派兵は、志願兵のみであり、徴兵された新兵は含まれないとは、他ならぬプーチンの言葉であった。だから、露軍のウクライナ国境への進軍は、戦闘ではなく、単なる演習のはずであった。事実、そう説明されていたのである。
    軍兵士が直面した目を覆うような現実と、彼らの脳内にある世界との落差の大きさに、彼らはしばし混乱し、途方に暮れたに違いない。くわえて彼ら新兵はロクな軍隊教育を受けず、正規の兵士として育っていない。兵器の扱いも知らなければ、軍規に服することも知らない。突如、戦場に投げ出され、惨たらしい戦傷、夥しい死者を見せつけられたら、どれほどの恐怖に震えたろう。規律も何もあったものではない。ましてや、かつてはあれほどに信頼し、兄弟とまで思った者たちの突然の裏切りである。ここに、ウクライナ人に対する近親憎悪にも似た憎しみと、敵愾心をよび起こし、通常の戦闘以上に凄惨な場面を生んだとしても不思議ではない。ましてや、露軍に歯向かっているのは、「単なる敵ではない、彼らは裏切り者なのだ」、しかも「この裏切りこそ、ありうべき最大の犯罪なのだ」というプーチンの声も聞こえる。ならば彼らに対して、何故同情すべき理由があろう。ふざけるな、彼らは殲滅されなければならないのだ(以下次回)。

  • 6月10日・金曜日。曇り。梅雨特有のうっとうしい陽気である。前回の文章、やや加筆した。
    6月13日・月曜日。晴れ。一昨日から、テイラー『一九三九 誰も望まなかった戦争』(清水雅大訳・白水社)を読み始める。500頁をこえる大冊であり、まだ2割ほどしか進んでいないが、その限りでも、十分、面白い。ズデーテンをドネツク州に、ヒトラーをプーチンに置き換えれば、そのままウクライナ侵攻そのものである。当地のドイツ住民を扇動して事件を起こさせ、これに対してチェコスロバキア政府は弾圧と虐殺を行ったとのデマを大量に流し(ナチ宣伝相ゲッペルス)、それを口実に武力侵攻と戦争の恐怖を煽る。チェンバレン、ダラディエらはこれに恐怖し、チェコ政府の合意も得ずズデーテンの割譲を認め、辛うじて戦争を回避した。だがそれは、つかの間の休息でしかなく、ヒトラーは更なる譲歩を求め、半年後にはついにポーランドの半分を手に入れるのである。プーチンは、まるでその歩みをなぞっているようではないか。

    元来、ロシアはそうした敵国市民への残虐行為に対しては、「それについての調査や認識もなく、であればそれを罰することも無い」と記事にある。それゆえ、これらに対する独立した教育・研究機関も持たなかった。これは、ソヴィエト連邦時代からの政治的・構造的なロシアの問題だと言われている。恐らく、この点に他国とは決定的に異なる露軍、同時にロシア社会の歴史的・文化的な特徴があるのだろう。普通は、戦闘中の狂気に我を忘れても、そこに違反意識があれば、後には反省し、ためらいも生ずるのではないか。だが、戦争においてであれ、軍による無抵抗の市民の殺害は虐殺であり、犯罪行為だとの認識がなければ、抑制のしようも無かろう。それどころか市民の虐殺は、純粋に戦果であり、勝利への貢献である。となれば、「実際、ロシア政府―そして、ロシア社会の一部は、敵国市民に対する暴力を容認しているのだ」、との何とも悲惨な結論が添えられるのである。
    こうした暴虐は、結局は世界に晒される。その時ロシア当局は臆面もなく、断固として言い放つ。これらはウクライナ軍や西側諸国の露軍に成りすました犯罪であり、露軍は無実であるばかりか、かえってウクライナのナチ勢力から国民を救済する解放者なのだと。そして、多くのロシア国民は、ナチス時代のドイツ国民と同様、この嘘を信ずる。真の情報は権力的に隠蔽し、捏造した情報を一方的かつ大量に送り出しながら、それを検証する組織や機関を欠いた社会の怖さをここに見る。国民はこうして、政府、官憲の操り人形となるのである。
    さらに、露軍の敵国民への無差別な暴力行為は、それはそのまま軍内部における暴力の容認から生じていると言えそうなのである。軍内部での階級差による暴力は悪名高く、また毎年徴兵される新兵のしごきは激烈であった。それがために「新兵の何ダース」もが殺害される時代が続いて、さすがに2000年代にいたり是正されたという。人権意識の欠落は兵の人権を損ない、それは同時に敵国民への惨殺に向かう。つまりこれらは一続きのことであったのである。このことは、我が旧軍の戦地における蛮行を思えばよく分かるが、それであればこそ、平時における人権教育の重要さを忘れてはならないであろう(以下次回)。

  • 6月3日・金曜日。豪雨。このところ連日、正視しえないウクライナの惨劇、欧米の対ロシア制裁の乱れや、南洋諸島での中国の暗躍、コロナ禍の暗いニュースばかりにくわえ、今読んでいる本が『暁の宇品』(堀川恵子・講談社)である。太平洋戦争直前から終戦にいたるまで、参謀本部の無慈悲、無謀、無責任な作戦の強要をうけ続け、2,3千人の兵を乗せた一万トン級の輸送船が、護衛もなく、太平洋上で次々海の藻屑となる陸軍船舶輸送のこれまた悲惨な物語(過日、読了)。かくて我が疲労さらに極まり、精神衛生上すこぶる悪い。
    6月6日・月曜日。雨。関東地方、梅雨入りとか。この時期には珍しい冷雨であり、季語で言えば、梅雨寒か。

    露軍が丸腰のウクライナ市民に犯した惨殺、レイプ、拷問、略奪といった、地獄さながらの数々の残虐行為に、世界は目を剥き、震撼させられた(その詳報はニューヨークタイムズ5/24・火にもある)。これを目の当たりにしたドイツ政府が、従来の対ロ親和政策の転換と共に、即刻ウクライナへの武器供与を決断し、その抑制に動かざるを得なかったほどである。なぜかほどに凶暴でありえたのかと訝るが、ニューヨークタイムズ(4/19・火)は「ウクライナでの残虐行為の根は深い」として、今回の露軍の侵略行為に光を当てた。以下、これについて簡単に触れてみたい。
    記事によれば、戦闘の残虐性には、2種類あるようだ。1は作戦計画に基づいた、部隊や市民の戦意喪失を目指した攻撃に発するものである。これはこれで、今回も見られたように、軍事施設ばかりか病院、学校を含めた市街全域におよぶ徹底した殲滅戦であり、こうして敵国の戦意喪失を目指すわけだから、市民生活への侵害・破壊は計り知れない。
    2は、軍組織による軍事的攻撃と言うよりも、各兵士や各部隊が軍の作戦から逸脱し、市民に対して勝手に犯す個別的な残虐である。ここではしばしば、軍としての統制は消滅し、圧倒的な火力を持つ、凶暴な強盗集団に成り下がる。ブッチャでのそれは最たるものであろう。とは言えこれらの残虐は、露軍のみのことではなく、ベトナム、アフガニスタン、イラク戦争での米軍でも見られたように、あらゆる戦闘に付き物であるようだ(我われは、日本軍の南京虐殺の例を忘れてはならない)。そして、そうなる原因は、建軍の経緯やその文化的資質、軍事教育、軍兵士の戦闘上のストレス、故国での生活上の不満・抑

    圧、敵国の危険や悪逆に対するプロパガンダ等が折り重なって、眼前の無抵抗な敵国市民に対し一挙に吹き出るようだが、その説明は中々難しく、一概にこれと言い切ることは出来ない(以下次回)。

  • 5月23日・月曜日。晴れ。

    5月25日・月曜日。晴れ。昨日、藤井聡太五冠が、薄氷の終盤戦を制して、叡王タイトルを防衛する。これでタイトル保持の総数は8期となるが、いまだ十代の棋士としては未曽有のことである。恐らく、今後この記録を更新する棋士は出ない、あるいは今世紀中はあるまいと思う。他にも言うべきことはいくつもあるが、こうした大記録は、1,稀有なる才能、2,健康、3,幸運に恵まれた賜であろう。1,や2のみではなく、3もあってこその大業ではないか。昨日の勝負の終盤では、五冠の必敗の局面があったようだが、それを逆転した。将棋は完全に実力の世界と言われ、それをすべて認めたうえで、それでも「指運」という言葉がある。ぎりぎりの勝負では、運が決定的になることがあるのである。そして、筆者はつくづく思う。世には、このように必要なものをすべて手にする人は、確かにいるのだ。その逆の人がいるように。ここに、人の世の栄光と非情、酷薄さを思わざるを得ない。

    このところウクライナ侵攻に目を奪われ、他の問題が疎かになってしまったが、それでもコロナ感染の成り行きは気になってはいた。幸い、わが国での感染の勢いは収まりつつあり、これで一安心と思いきや、欧米では「サル痘」なる感染症が発症したとのことだ。その詳細は不明だが、すでにニューヨークタイムズ(4/30-5/1)は「疫病 促進。暑くなるほど」の見出しで、「気候変動は動物間のビールス拡大を促進するであろう、との新研究の所見」を報じている。長期的にみれば、温暖化は戦争以上に地球全体にたいして深刻な影響を及ぼしそうな恐れを覚える。
    こうして生ずるビールスの混交は人間にも飛び火し、新たなパンデミックを発症させるとある。その状況がどう進行するかをコンピューターでシミュレーションした結果、上記の所見となった。
    その仕組みはこうである。赤道近辺の歯止めのない気温上昇により、多くの種はより涼しく快適な環境を求めて高緯度や高地に逃れる。これによりビールスは新たな宿主を見出し、ふつうは起こりえない異種間での感染の機会を生み、その変種を促すと共に、感染力も増強する。のみならず、免疫システムをすり抜けて繁殖する。「2つの種が地域的に重なるほど、それらの種は同一のビールスを共有するようになる」からでろう。
    たしかに、これまでなかったような異種間の生物の遭遇と感染に関する知見は、今初めて得られたものではない。我われはすでにこのことをマクニールの『疫病と世界史』(上・下・中公文庫)で知ったことである。しかし、気温の上昇が、ビールスの伝播とそれを拡大させる推移をコンピューターを駆使してモデル化し、その過程を精緻化したことは、この時代らしい大きな発見であったのかもしれない。異なる生物が初めて遭遇したとき、ビールスの変異と伝播過程が予見可能な形で推定されるならば、今後の対策に少なからぬ意味を持とうからである。気温上昇と動物種の移動と遭遇が呼び起こす、「病原菌の流出」の連鎖を「できうる限り知ることは、大きな進歩である」とは、プリンストン大学のR・ベーカーの言である。
    筆者の言いたいことは、ここである。温暖化は自然災害の激甚化ばかりか、それはまた疫病の多様化と蔓延、しかもその途切れのない連続的で劇症性の発生を来しつつある。我われが現在目の当たりにしている、コロナ蔓延はその先駆けでなければ幸いである(この項、終わり)。