2022年06月10,13日

6月10日・金曜日。曇り。梅雨特有のうっとうしい陽気である。前回の文章、やや加筆した。
6月13日・月曜日。晴れ。一昨日から、テイラー『一九三九 誰も望まなかった戦争』(清水雅大訳・白水社)を読み始める。500頁をこえる大冊であり、まだ2割ほどしか進んでいないが、その限りでも、十分、面白い。ズデーテンをドネツク州に、ヒトラーをプーチンに置き換えれば、そのままウクライナ侵攻そのものである。当地のドイツ住民を扇動して事件を起こさせ、これに対してチェコスロバキア政府は弾圧と虐殺を行ったとのデマを大量に流し(ナチ宣伝相ゲッペルス)、それを口実に武力侵攻と戦争の恐怖を煽る。チェンバレン、ダラディエらはこれに恐怖し、チェコ政府の合意も得ずズデーテンの割譲を認め、辛うじて戦争を回避した。だがそれは、つかの間の休息でしかなく、ヒトラーは更なる譲歩を求め、半年後にはついにポーランドの半分を手に入れるのである。プーチンは、まるでその歩みをなぞっているようではないか。

元来、ロシアはそうした敵国市民への残虐行為に対しては、「それについての調査や認識もなく、であればそれを罰することも無い」と記事にある。それゆえ、これらに対する独立した教育・研究機関も持たなかった。これは、ソヴィエト連邦時代からの政治的・構造的なロシアの問題だと言われている。恐らく、この点に他国とは決定的に異なる露軍、同時にロシア社会の歴史的・文化的な特徴があるのだろう。普通は、戦闘中の狂気に我を忘れても、そこに違反意識があれば、後には反省し、ためらいも生ずるのではないか。だが、戦争においてであれ、軍による無抵抗の市民の殺害は虐殺であり、犯罪行為だとの認識がなければ、抑制のしようも無かろう。それどころか市民の虐殺は、純粋に戦果であり、勝利への貢献である。となれば、「実際、ロシア政府―そして、ロシア社会の一部は、敵国市民に対する暴力を容認しているのだ」、との何とも悲惨な結論が添えられるのである。
こうした暴虐は、結局は世界に晒される。その時ロシア当局は臆面もなく、断固として言い放つ。これらはウクライナ軍や西側諸国の露軍に成りすました犯罪であり、露軍は無実であるばかりか、かえってウクライナのナチ勢力から国民を救済する解放者なのだと。そして、多くのロシア国民は、ナチス時代のドイツ国民と同様、この嘘を信ずる。真の情報は権力的に隠蔽し、捏造した情報を一方的かつ大量に送り出しながら、それを検証する組織や機関を欠いた社会の怖さをここに見る。国民はこうして、政府、官憲の操り人形となるのである。
さらに、露軍の敵国民への無差別な暴力行為は、それはそのまま軍内部における暴力の容認から生じていると言えそうなのである。軍内部での階級差による暴力は悪名高く、また毎年徴兵される新兵のしごきは激烈であった。それがために「新兵の何ダース」もが殺害される時代が続いて、さすがに2000年代にいたり是正されたという。人権意識の欠落は兵の人権を損ない、それは同時に敵国民への惨殺に向かう。つまりこれらは一続きのことであったのである。このことは、我が旧軍の戦地における蛮行を思えばよく分かるが、それであればこそ、平時における人権教育の重要さを忘れてはならないであろう(以下次回)。


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