• 5月22日・水曜日。曇り。

    5月24日・金曜日。晴れ。夏日到来。

    『平家物語』(全4冊・講談社学術文庫)を、3か月を擁して、今20日(月)、漸く読了。2800頁の大冊の上、これに付された膨大な量の訳注がしばしば漢籍、経典、和歌や日記等から直接抜粋され、しかもここには訳注の類はなく、本文より細字の文字がビシっと張り付いて、それだけで圧倒される。こうした体裁の本書を通読するだけでも一大事業の思いだが、この様な形で刊行された著者、杉本圭三郎氏の努力と研鑽には、ただ頭を下げる他はない。そして、正直に言おう。訳注の原文は、筆者には半分ほど分かれば上等であり、それ以外は霧の中をさまようがごときであった。それでも、読後感はすこぶる良い。と言うより、やッと終わった、との解放感なのかもしれない。

    なお、当初心配したわが眼球は、かなりゆがんだような気がする。だが、まだ文字は読める。かつて、経済学説史家として著名な高島善哉先生は、ヴェーバーの大冊『経済と社会』(1921~22)(原書をご覧になれば分かるが、文字の上に重ねるようにして印刷された文章は、それだけでも意気を挫く。さらに、ひどく入り組んだドイツ語の上、内容たるや難解を極める)に取りつき、ついに視力を失ったと聞いた覚えがあるが、当方はそれほどの勉強家ではないため、その心配はハナからなかった。 上で、読了と言った。だが、その実はただ頁を繰って最後までたどり着いたと言うにすぎず、本書を「読めた」とはとても言えない。であれば、以下は『物語』に関するほんの印象記であり、しかも今残しておかなければ、それすら消滅してしまうとの思いから大急ぎで記すに過ぎない体のものである。それでも、これに触発され、本書に挑もうとする御仁が一人でも出られれば、それはもう同志を得るが思いである。なお、以下は主に本書の「解説」に依っている。また、出来るだけ完結した文章を目指すが、途中、支離滅裂に陥り、突然、御免なさい、となるやもしれず、このことを前もって断らせていただこう。今回ばかりは、書いて見なければ、結末は分からない。では、始めて見ようか(以下次回)。

  • 5月10日・金曜日。晴れ。やや肌寒い風が心地よい。やがて来る地獄のような熱暑を思い、束の間の一時を深く味わう。そして、関東地方で最も爽やかな時節が、瞬く間に去っていく。

    5月13日・月曜日。雨。かなり激しい。昨日、ロートの目薬を買う。やや高級。ただ、こんなことは絶えて無かった。それだけわが眼球は、かの『平家物語』(全4冊)の亡霊どもに痛めつけられているのだろう(ようやく、最終巻の3百頁ほどを残すばかりとなった)。点眼のたび、眼球にしみ広がる痛みは、これで楽になるとの妙な安心感とないまぜになっているが、こんな感覚もまた久しぶりのことだ。それにしても、おのれ『平家』よ、お前の命も今週一杯までのことと思い知れ。

    5月17日・金曜日。晴れ。はや夏日。

    ゴールデンウイークという長い休みも終わって、やれやれと言ったところだ。勤め人、学生に聞かれれば怒られようが、ほぼ「毎日が日曜日」の当方にとっては、世の中、これでまた静かになる。インバウンドに沸き返る観光地の、商売には関わらない住民の気持ちがよく分かる。そうした方々にとっては、終わりのない喧噪の日々であるに違いない。

    この間、「手紙」も休載となった。とは言え、ただ休んでいた分けではない。実は、20年ぶりにドイツ語の手紙を書いていたのである。と書けば、いかにも大げさだが、筆者にとっては、まさにそうなのだ。

    40年前、一家でフライブルグに滞在した折、幸運にも一ドイツ人家族の知己を得た。お陰で、我が家族は様々助けられ、1年半の外国生活を、今思えば、夢のようにして過ごすことができた。その後は、年末新年のカードや折々の手紙のやり取りの他、ある夏の長期休暇の折には、3週間ほど日本に来たいということで、我が家にも1週間ほど滞在し、日光他近辺を見て回ったりした。また、日本の食材にも馴染んでおり、年一度、昆布、梅干し、海苔、椎茸、高野豆腐といった乾物を送ったりもした。勿論、その都度彼の地からも名産が届けられたものである。こんなやり取りが10年以上は続いたであろうか。

    本来、何事につけても不精な筆者にとっては、これはまったく例外的な所業と言ってよい。その内、大学での我が職位や仕事が進み、多忙になるに及んで、そうした余裕が無くなってきたのだろう。当地から届く手紙の返信もままならず、ある年のカードには、「お互い年を取ってきた。だからお前は、もうドイツには興味が無くなったのか」との一文には、ただ申し訳ないと、ここ日本から頭を下げる他はなかった。そして、今年こそ返信をと思ううち、気づけばもうクリスマスの時期となる、そんな体たらくの年月であった。

    意思はあれども、行いが就ていかない。これはただ、能力の欠如と言う他はない。筆者の知るある老先生は、年末には決まって、一週間ほどかけてはフライブルグの教授たちに宛てて、手書きのドイツ語のクリスマスカードを10数通、亡くなるまで送っておられたのを知っているからだ。

    こうした積年の重圧に、ついに私も耐えきれなくなったのか、今こそ返信を書こう、いや書かねばならぬ、と決意した。と言って、最近はドイツ語を読むことはなく、構文も怪しくなってきた。ましてや書くなどとは…。では、ドウやって。それが、思いついたのである。すでに詰み形になって、ほぼ負けの我が玉将が窮地を脱する、名人級の妙手を思いついたのである。

    世はまさにAI時代と言う。ならばこれに類した機能を使ってドイツ語の手紙を作れば良いのである。まず書きたい日本文を書く。その際、独訳されることを想定した文章を心掛けた。独訳して読んでみれば、こちらの意図が7割ほどは通じる出来栄えではないか。しかも要した時間は、ほんの数分である。そこでの誤訳や曖昧な独文は、元のわが文章のゆえであった。つまり、日本語としては読めても、ドイツ語から見ると、主語が省略されたり、主節と従属節の関係が曖昧であったりしたからである。それらのドイツ文を訂正し、これを再度日本語に翻訳させてみると、元のわが精妙な文章には戻らないものの、意味は取れる。同じ作業を、英訳についても行ったが、誤訳の箇所はドイツ語の場合と同様であった。こうして、筆者の頼った翻訳機は大いに役立ったのである。

    これに関連して、少々面白い話がある。筆者は最近、ニューヨークタイムズの記事を務めて読むようにしているが、ドウにも分からぬ文章にぶつかり、その度にスマホの翻訳に頼る。ここでは19言語の翻訳機能があるが、筆者に必要なのは日・独語の2語である。私に読めない英文は、日本語訳でも8割は誤訳であり、独訳は8割ほどよく分かる。つまり、欧文同士の翻訳力はかなりのものだが、日本語と欧文のそれはいまだ未熟だということなのだろう。だが、その差は近いうちに解消されることは間違いない。

    こうして、欧米語の構文上の類似性と、日本語との相違点が見えたようで、それはそれで面白い試みであった。それどころか、三分の一以下の努力で簡単に文章が書ければ、今後はこんな負い目を持たず、せっせと手紙を書いてみようか。彼らの迷惑にならなければの話だが。

    なお、わが手紙のドイツ語訳は、Google翻訳及びMicrosoft Wordの翻訳機能の2種類によったが、筆者の見る所、前者の機能がより正確であった。

  • 4月5日・金曜日。曇り。花冷えと言われ、昨日より10℃ほど下がって、真冬用のダウンを引っ張り出す。『平家物語』第二分冊、昨日やっと読了。あと二分冊ある。老眼鏡がまるで役に立たず、ほとんど裸眼で読むが、全冊読み終えるまでに、眼球が持つかと不安が横切る。まるで源氏の総攻撃に崩壊寸前の平家の如し。

    4月8日・月曜日。曇り。日々、辞書と首っ引きで読むニューヨークタイムズの、地球規模の旱魃、住民の困窮、子供たちの栄養失調などの記事に、いよいよ気が滅入る。

    4月15日・月曜日。晴れ。前回の文章に手を入れる。なお、この事について、今さらながら告白する。これまで私なりに多くの文章を書いてきたが、その度ごとに思うことだが、書かれた文章は時間をおいて読み直さなければならぬということだ。執筆中は、自分なりに分かっているつもりだが、実はそうではない。色々な想念が曖昧なまま、絡み合い、それを無理にでも一文の中に固定化しようとする。しかも選ばれたある言葉に込められた多様な意味の一つに引き寄せられ、その意味に沿って文章が流される。こうして文意はいよいよ怪しくなる。

    読み直すと、この場合、自分が書こうとした主題について、実に曖昧な映像しかなかったことがよく分かる。そこで文章の推敲が始まる。書かれた文章や言葉を添削しているうちに、次第に己が意図が見えてくる。こうして、思索とは書くことであり、書くことが思索であると思い知るのである。こうした経緯は、かつて清水幾太郎が『論文の書き方』(岩波新書)で述懐していたように思う。

    承前。事は科学技術の問題である。人間生活に有用であり、効率性、経済性を認知された技術は、大規模に使用され、さらに人知では越えられない障害に突き当たるまで徹底的に改良、進歩するものであるらしい。その間、物質の本性を追求する科学研究と相まって、ついには科学技術が解決できない問題はないというような時代の到来を夢見る。その途上にある一切の障害(ここでは汚染、温暖化等々)はそうした無限進歩の中ですべて解決されると信ぜられるのであろう。今で言えば、原発から出る放射性廃棄物はいずれ無害化されると信じられているようにである。それはいわば、人が神のような存在を目指すかのようであり、あのバベルの塔の科学版のようにも見える。

    こうして我われ人間は、自分の能力に対して揺るぎない自信、信頼を寄せているのだろうが、それは筆者には実に危うい。これをズバリ言えば、我われ人間の本性と科学技術とのアンバランス、不均衡の問題だと言いたい。何やら大げさだが、事は簡単である。

    自分自身の内面をジッと見つめてみよう。欲望、嫉妬、羨望、怒り等々が渦巻き、そこにおける悩み、悲しみ、懊悩は果てしない。そして、これらの苦しみを癒し、和らげ、救いの手立を、ほぼ二千年前のイエス、釈迦、孔子らの言葉に求めるのである。つまり我々はこうした領域については、ホモサピエンスとして誕生して以来、まったく成長していないと認めなければならない。だからこそ、彼らの言葉が今なお有効なのであろう(なお、ロビン・ダンバー・小田哲訳『宗教の起源』(白楊社・2023)が、世界宗教の発生時期、地域がほぼ亜熱帯地域の紀元前1千年紀に集中している「歴史研究の大きな謎」(215頁)について、社会史・人口論的視点を加味して興味深い解釈を示している)。

    だが、科学技術の進歩は、極端に言えば、無限である。科学者は、恐らくそう信じている。その第一条件は分業化と文字による知識の蓄積にある。だが、ウェーバーは面白いことを言っている。芸術は形式や素材の変化はあっても、ある形式内で達成された完成美は越えられることはない。これは絵画でも、音楽でも同じらしい。そして、ある様式美と他のそれとの完成度との比較はできない。たとえば、ミロのビーナスと現代彫刻の完成度に優劣はつけられない。差異があるのは、好悪、あるいは趣味の問題である。美学についてまったく無知な筆者には自信はないが、どうもそういうことらしい。だが科学技術は違う。これは、兵器の進化一つをとっても明らかだろう。

    とすれば、人間の中には、精神活動の内でも進歩できる領域と出来ない領域が併存しているのだろうか。だがそれ以前に、そも科学技術の進歩は無限なのだろうか。これは筆者には答えられない難問である。百㍍走のオリンピック記録は長期にみれば短縮されているようで、この点で我われはその限界をまだ見ていない。とは言え、この場合、走者を支える周辺の科学、技術の進歩のあることを忘れてはならない。スポーツ科学・医学、栄養学からスパイクシューズ、トラック等の無数の改良がある。そうした支援があれば、身体的な向上は可能なのであろう。それでもどこかにヒトとしての限界はあるはずだ。百㍍を1秒で走れるようになるとは思われないからである。そして、同じことは、科学技術についても言えるのかも知れない。となると、科学技術の進歩も、どこかに限界があると言わざるをえないのか。

    どうも分からなくなってきた。よってこの問題はこれまでとして、ここでは精神的な成長度が2千年前のそれと同じ人間が、技術進歩に応じた道徳的抑制力もないまま、現在の最新の科学技術を振り回そうとする、その問題を考えてみたい。その時、我われ人間は、その進化に酔いしれ、眼前するあらゆる不足、不便を、その技術革新によって何とか克服しようとするのである。ドバイはその一例に過ぎない。しかも新たな技術が、それまで思いもつかない欲望を解き放たつ。そうして我われはあれもこれも、何でも欲しがり、限度を知らない。ついには秦の始皇帝同様、不老長寿の薬を求め、地球全土を支配したがる権力者は、それを可能にする火力を求め、手にするのである。例えば、プーチンはそうだ。彼は、意に従わなければ核を行使すると言っている。習近平も、台湾統合に必要ならば核を使うと言っている。

    こうして欲望と技術進化は無限に続いて、抑制されない。だが、我らの住まう地球は有限であり、その限界を、今益々見せつけられている。恐らく、20世紀前半までの科学技術の規模は、地球からみて、まだ許容しうる程度であった。それだけ地球は広大であった。だが今や地球は一挙に縮小し、人類の生み出す破壊や害悪を吸収しえなくなった。ならば、一刻も早く欲望と技術進化のこの連鎖を止めなければならない。このままでは、人類は自身が積み上げた欲望の重みで、想像もつかない惨劇に吞み込まれるであろう。この世の断末魔を予言した「ヨハネの黙示録」が目に浮かぶ(この項、終わり)。

  • 3月25日・月曜日。曇り、時に雨。このところの寒気、いまだ居座る。開花の便り聞かず。
    3月29日・金曜日。雨のち晴れ。東京に開花宣言でる。靖国の標本木に集まった見物人たちは、気象庁職員の厳かな宣言に笑顔と拍手で答えた。この映像は、確かに人という不思議さを映している。この一言を聞くために、遠くから足を運び、それを確認できれば、気が済む。あとは贔屓の店に寄り茶菓を取り、チョイと一杯引っかけて帰路に就く。幸せになるには、それで十分なのだ。損得や地位と言った大仰なものは、何もいらない。
    日々の幸せとはこうした無償の喜びの中にあるのであろう。そして、国民のこうような平穏な生活を守ることこそ、政治の仕事だと強く思う。いかな権力者と言えど、このような生活を奪ってはならない。自分の価値を押し付け、あるいは、己が野望のために、無理やり戦場に送り込むようなことをしてはいけない。この意味で、筆者はプーチン、習近平を強く指弾する。
    4月1日・月曜日。晴れ。

    承前。前回の文章を再読されればお分かりのように、砂漠都市を丸ごとひっくり返すような大土木事業を遂行し、その上で眼も眩むばかりの、膨大なエネルギーや資源が消尽され続けているということである。しかもその全てが半世紀という短期間のうちのことであれば、排出された廃棄物が自然の浄化力をこえて、次々蓄積され、陸海に対し、また大気にも耐えがたい損傷を来しているであろうことは、想像に難くない。それは上記のニューヨークタイムズの一文からも見て取れよう。
    それについて、前回触れた水の消費量を見てみよう。カリフタワーの一日平均の水道使用量は25万ガロン(但し空調用・消火用冷却水は含まれない)であるという。これをリットル換算(946千ℓ)して、日本の3人家族の日量消費量(690ℓ)で割ると、1,371世帯分になる。断っておくが、我が国の水道水消費量は世界でもトップクラスにあり、にも拘らずこれだけの世帯数に当たるという点で、タワーの消費量の巨大さは察せられよう。さらに先に上げたれたプールやモールの水量を加えればどうだろう。しかもこれは、タワー周辺に限られた水量に過ぎず、ドバイ全域に拡大すれば、その消費量は予想もつかない。  
    こうした膨大な飲料・生活用水は、現在はもっぱら海水の淡水化技術に負っている。確かに、将来的には現在の技術の一層の向上、あるいはそれとは全く別の発想による技術革新が生じ、環境への負荷が飛躍的に改善される余地のあることを、筆者は否定しない。現に、人工降雨技術の開発、実験がドバイでも行われている、と記事は言う。だが、反面、そうした新技術の完成と全面的な採用が地球全体に対していかなる影響を及ぼすかは、別個の重要な問題として考えられなければならない。もしかしたら、それは今日の淡水化の技術が抱えている以上の難題を引き起こすかも知れないからだ。
    だがそれは、将来の問題である。現在は、当市はじめ首長国連盟は海水の淡水化技術に依存していることは、間違いない。その際、その海水処理には膨大な化石燃料を消費し、’22年度では2億トン以上の炭素を排出しているようで、それがペルシャ湾周辺に対する温暖化への影響は測りがたい(しかもこの淡水化の技術は世界的にも利用されているということから、地球規模への問題もまた憂慮されている)。
    以上、ニューヨークタイムズの記事に触れて、ドバイの水問題に限って一言したが、それが周辺地域に及ぼす影響は、単にその空間的な広がりばかりか、時間的な持続性においても、無視しえないものであることが推察されよう。では、ここから何が言えよう。次回このことに一言し、この項を仕舞にしたい(以下次回)。

  • 3月11日・月曜日。晴れ。温暖化を恐れる当方だが、この1週間の寒さは、チョイと堪えた。実に勝手なものだと、認める。暖冬は怪しからんと言いながら、少々寒気が募れば、音を上げるナンザ、覚悟が足りない。 

    本日の論題は、3/1(金)の続きである。

    3月18日・月曜日。晴れ。強風しきりである。

    2/20頃から読み始めた『平家物語』第一分冊、3/16(土)ようやく読了。原文、訳文、語釈、解説をたどりながら再度原文に戻って、何とか理解したような気分になり、次の段落に進む。まるで蝸牛の歩みだ。こうした難行は、難解なドイツ語文献を前にして散々味わったことだが、久しぶりのことゆえ、少々堪えた。それにしても、節度を逸した清盛の権力行使、自身や一族の栄達、周囲からの嫉妬、恨みの蓄積の状況が、劇的な構成と語りによって迫る一歩一歩は迫力がある。それはまた、何故かプーチン、習近平他権力者たちの顔に重なる。だが、ほんの一時の栄華に溺れ、「盛者必衰の理を忘れてはならない。

    3月22日・金曜日。突き刺すような寒風続く。とても弥生の風とは思えぬ。前回の文章、かなり修正した。本日はこれのみとする。

    ドバイは、現在、地球上で最も輝く都市の一つであろう。世界一の高さだと言うカリフ・タワーはほぼ1㎞(828m)に達し、ひたすら神への高みを目指したバベルの塔の再現でもあろうかと驚かされる(願わくは、人間の高慢に怒ったかのヤハウエにより、一撃のもとに瓦解された前者の轍を踏まぬことを祈る)。その下に広がる都市景観は、見るものを圧倒してやまない。しかもその都市建設に要した期間は、高々五十年間でしかなかったというのである。この短期間に投入されたエネルギー、資金量はどれほどのものであったろうか。

    アラブ首長国連邦を構成する首長国の一員であるドバイは、ペルシャ湾に面し、国土は砂漠に覆われ、住民のほとんどは首都に押し込められるような暮らしを強いられた。20世紀初頭の当市は、漁業や金の密貿易に手を染めながら、主として真珠の商いを中心とする貿易港として近隣地域の商人を引き寄せ、それなりの賑わいを見せていたが、今日を予想させるような都市への展望は、その片鱗すらなかった。しかも、1950年代には日本の養殖真珠に押されて衰退さえしていくのである。

    だが、‘66年に石油を掘り当てたことから、今日の発展への道を一気に開く。数々の近代的な港を築港してハブ港の地位を獲得する。人工的な列島や海岸線の変革と組み合わされた市圏を縦横に走るクリ―ク(運河)で連結し、貿易センターはじめ商業施設群の建設と共に観光事業の基盤を整え、こうして壮大な都市空間を、突如、砂上に浮上させたのである。その事業は、まさに「近代の奇跡」そのものであったと言えよう。

    こうした土木工学、技術力を背景に、ドバイは砂漠都市にとっては「ワンダーランド」と言う他はない広大な「淡水世界」を現出するのである。ニューヨークタイムズ(9/21‘23)は言っている。「観光客らは世界最深のプールでスキューバーダイブ、あるいは巨大なモールでスキーを楽しみ、しかもそのモール内ではペンギンたちが今作られたばかりの雪の中で遊んでいるのである。ある噴水―世界最大と銘うたれている―からは数千ガロンの淡水が空中に噴霧されるが、それは周囲のスピーカーから奏でる音楽に合わせて踊るディスプレイともなっている」。ここを訪れる人々の嘆声、幸福感が直に伝わるようではないか。

    しかし、である。ドバイにはそれほど多量で新鮮な淡水が在るわけではなく、水と言えば海水に頼る他はない。つまり、急速に膨張し、拡大する都市を支え、上記の奇跡を可能にするには、海水の淡水化を可能にする技術の開発と共に、その巨大化を達成する必要があった。だが、その淡水化には様々化学物質が使用され、その廃液(brine・訳語では塩水とある)は海に廃棄され、塩分濃度を高めてペルシャ湾の環境を損なう。それは同時に、「沿岸の海水温度を高め、生物多様性、魚類、沿岸のコミュニティを損なう」そうした代物であった(以下次回)。