• 9月25日・金曜日・雨。中日を越えていよいよ夜長かな。

     (この項は、9月2日・水曜日の続きである。)

    2・「挑戦者」。この言葉は談話中、思いがけない文脈で使われており、戸惑い、或いは違和感を持たれた方も多かろう。私もその一人である。が、その意味が、私にとって初めて明確になったのは、朝日新聞・朝刊に掲載された一読者(国語教師・女性)からの投書であった。いま、手元にその文章がないため、私なりに補足しながらそれを記せば、こういう事である。そもそも挑戦とは、克服し難い困難や越えがたい壁、或いは難題に直面した者が、それに怯まず、勇を鼓して立ち向かう、そうした姿勢、心情を言い、だからそこには勇気、剛毅といった意味が宿される。で、その反対語は意気地なし、怯懦ということになろうが、これとの比較で言えば、挑戦者とは、普通、積極的な資質にとみ、出来ることなら、自分もそのような人になりたい、そんなプラスの意味を持った言葉となるだろう。

    では、首相はこの言葉をいかなる文脈で使われたか。世界を巻き込んだ第一次大戦後、世界はその悲惨な体験から平和を願い、「国際連盟」を創設するなど新たな国際社会の潮流を生み出した。当初、日本もこれに歩調を合わせていたが(確かに政府は軍部の抵抗を受けながら軍縮、軍事予算の削減に取り組んだ)、「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃」を受けた。かくてわが国は世界の中で孤立を深め、経済、外交の行き詰まりに見舞われ、この打開を求めて「力の行使」に向かうことになった。それが「満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき進路を誤り、戦争への道を進んで行きました」。

    これを読んで、いかなる感想を持たれようか。すでに1・で見たように、ここでも外圧、すなわち他者によって、日本は心ならずも道を踏み外したとの論調が見て取れないであろうか。それにも増して奇妙なのは、このような文脈で使われる「挑戦者」という言葉である。これでは、何か日本の行動は、間違ったけれども果敢であり、勇気に満ち、立派であった、と言わんばかりではないか(本日はこれまで。実は9月2日の稿を大幅に訂正した疲労の為。)。

  • 9月2日・水曜日・久方ぶりの晴れ。

    談話が発表されてから、早や半月。その間、メデイアその他で様々に論評され、政府はそれらを含め、さらに諸外国の評価、特に中国・韓国の受け取り方に関心をよせていた。幸い両国とも、談話に対し不満を漏らしつつも、かなり抑制した表現にとどめ、これを何とか受け入れた。よって、この談話の故に、更なる関係悪化を招く事態だけは免れた。これは、わが国にとって実に有難いことであったと思う。ただそのことによって、談話の内容が認められた、と看做すことだけはできないだろう。それは、両国が漏らした不満の内容を少し立ち入って読み取ればハッキリしているし、なによりも中国で現在行われている対日戦勝70周年記念祭を見れば疑いようもない。この度の両国の抑制的な対応は、両国内の政治・経済的状況がこれ以上の対日関係の悪化を許さない、という点に求められるのではないか。

    さて、以下は、我がささやかなる安倍談話の印象記である。何かの参考になればとの思いで記す。私の気になったのは、以下の3点である。

    1.確か首相は、談話中の文章を切り取り、それを論ずるのではなく、談話を全体として読み、その真意を汲み取って欲しい、との願いを表明していた。誠に、その通りであり、異論はない。ならば、伺いたい。この度の談話の眼目は何処に在るべきであったか。談話には前史があった。勿論、村山・小泉談話である。首相は全体としてそれを受け継ぐと言われた。そして、そこでのキーワードは、「植民地支配・侵略・痛切な反省・心からのおわび」であり、それが談話中に込められるかどうかが注目されていた。これらの言葉が文章全体の中に適切に配置され、一読の後、なるほど現総理はそれ以前の談話を踏まえ、先の大戦以前の我が国策を誤りと認め、それを痛切にわび、その深い反省に基づき今後も日本の平和主義を堅持すると、確かに表明したと安心できるものでなければならなかった。

    この基準に即してみれば、本談話はどうであろう。確かにそれらの言葉は談話中に配置され、だから表明されてはいるものの、その文脈は外され、主語が曖昧になってしまった。例えば「侵略」は他の戦闘行為と一緒くたにされ、「国際紛争を解決する手段としてはもう二度と用いてはならない」、と一般的な平和主義に解消されてしまった。思うに、これでは戦争はイケナイ、だから止めよう、と宣言したに過ぎず、こうした言葉から戦争が止んだ験しはないのである。歴史的事実の認識とはそう言う事ではない。それは「誰が、何時、何処で、何を、どうしたか」と言う徹底的に個別、具体的な事柄の認識である。であれば、ここでの「侵略」は、こんな一般的な意味での侵略にされてはならない。これは一つの遁辞であり、これではこちらの誠意が疑われても止むを得まい。これに対して我々が誠実であろうとすれば、日本が朝鮮半島、中国、東南アジアに侵略し、その結果この地域の人々に対し取り返しのつかぬ破壊と惨苦を齎したと、率直に認める事である。そして、これらの事実を認める事は、必然的にその事への責任を負うと同時に、かかる悲惨を受けた人々への痛切な謝罪に結ばれることにもなる。

    これは我われ日本人にとっては、一つの大きな恥辱である。誠に辛く、出来れば避けて通るか、無いことにしたい所業であろう。しかし、私は思う。キリスト者が全てをみそなわす全能の神に額ずき、己が所業の一切を告白し、神の許しを得ようとする告解とは、いかなる意味か、と。告解者はその時、その身を深い恥辱と悔悟の業火に焼かれ、かくて始めて再生への歩みうるのだろうと思う。煉獄の火とは、これを言うのではないか。また、歴史に誠実に向き合うとは、そういうことであろう。であればこそ、再び同じ過ちはすまい、と誓えるのではないか。

    しかし、総理の物言いには、そのような意識は希薄にみえる。それは、責任の所在を不分明にする。我々は悪くない、と言いたがっているようにみえる。すでにこれは、談話冒頭において見て取れる。19世紀、西洋世界に発した植民地化の圧力が遮二無二日本の近代化を促し、それが日露戦争を出来させた。そしてその勝利が、一方でアジア・アフリカを勇気付けた。だがこうは言えても、その後の朝鮮半島や台湾の統治の問題は不問にされるのである。次いで、第一次大戦後の世界恐慌が世界経済のブロック化を呼んで、それが日本を已むなく孤立化させたとの指摘が続く。ここにおける主語・主体は常に日本を取り巻く他者であり、わが国はその犠牲者のごとく振舞わざるをえなかった。そのように言いたがっているようにみえる。こうなれば、我々にも多少の責任はあろうが、このような立場に追い込んだ他者の責任もあるだろう、と言うわけである。だが、これに対しては、日本が日本の意思を持って、自ら朝鮮半島、満州に進出して行った、という歴史事実はどう認識されているのか、との問いが提起されざるをえまい。そして、談話をこのように読んでみれば、次の論点である「挑戦者」の意味も何がしか理解されようというものである(以下、次回)。

    2、「挑戦者」。

  • 8月21日・金曜日・曇り。熱暑去る。 まだ来ぬか 待ちにし法師 昨日鳴く。みつお

    熱暑に参り、二週間の休みを取った。といって、どこかへ行くあてが有ったわけではない。ただ夕暮れまでダラシナク昼寝、いや夕寝をきめこみ、その後夕食をかねて読書と称し、近所のレストランに通う日々であった。もちろん、我が家にも書斎はあるが、気分転換に河岸を変えるというわけだ。しかし、昼寝の後に気分転換と言うのも、ヘンな話で、ただのモノグサ、言い訳に過ぎなかろうが、しかし、私にとってこの気分転換こそが全て。この儀式を経なければ、何事も次に進まないのだ。よって、本を読む気にもなれない。これは、わが学生時代からの宿痾である。

    と、こんな懺悔めいたことを言ってみたのは、かように無為な時間を過ごす最中にも、社会ではそれこそいろいろ大変な事態が生じて、これまで綴ってきた話題があまりにも浮世離れしてきた、もはやこんな事を言ってる場合ではない、そんな気分になったからである。もっとも、それ以前だって、随分浮世離れの独り言には違いないのだから、今更、改まるまでもないことは、私も十分弁えているのだが。

    さて、では、どう改まったのか。安倍談話と安保法制、川内原発の再稼動等、こうした問題について、どう考え、自分なりにどう始末をつけるべきか、である。ここではその内、安倍談話についてのみ、述べておこう。

    当談話は、それこそ一年ほど前から様々取り沙汰されてきた。首相の真意を探れば、恐らく村山・小泉談話の抹消であったろう。だが、いかに一強多弱の政治地図にしても、それはさすがに出来る話ではない。だから、首相は早い段階から、内閣は両談話を「全体として引き継ぐ」と表明してきた。だが、この言葉によって何が、どう「引き継」がられるかは、曖昧のまま残された。そこに、国民はじめ近隣諸国の不安もあった。しかし、「全体として引き継ぐ」と言ったからには、その意味は、先の日中・太平洋戦争における日本の責任を認め、今後も不戦の方針を日本政府の国策とする、と言明したに等しいと取れるだろうか。それを前提として、両談話を「上書き」し、「積極的平和主義」に立った未来志向の談話を目指す。ここにこそ、戦後七十年に発せられる安倍談話の意味もある、ということなのであろう。そして、首相の意図をこのように解釈できれば、当初危惧された首相の姿勢は、かなり平和主義的な方向を取らざるを得ないと考えられたし、事実、そうなったのである。

    だが、これまでの流れから見ると、私にはそれが首相の真意に発した当初からの政策であり、方針であるとは、どうも感ぜられない。首相は国内外からの強い圧力に屈した、それが言いすぎなら、妥協したのではないかとしか思えないのである。中でも、オバマ政権の圧力が強かった。米国は、談話の内容によっては、尖閣列島をはじめとする東シナ海や日中関係のさらなる緊張激化、それ以上に日韓関係の破綻を来たしかねぬ、と恐れたからであろう(久しぶりで疲れた。今日は、コレマデ)。

  • 7月28日・火曜日・相変わらずの猛暑。地下鉄のクーラー効かず。そこで一句。 

    どの咎か 列島襲う 土砂炎暑。 みつお  

    だが、このような物質観の変容は、それのみに留まらなかった。絵画では、物質は揺らぎ始め、明瞭な線が消え、点描へと変わって印象主義が誕生するのである。因みに、モネの「印象―日の出」が描かれたのは、1874年のことである(清水幾太郎『現代思想』1966)。また、こうした確固たる世界観の崩落は、思想・哲学においても無縁ではなかった。ニーチェはこの事を、「神は死せり」との一言によって決定的にしたのである(『ツァラトゥストラかく語りき』1883-85)。

    この辺りの思想史上のダイナミックな転換と潮流を跡付けようとすれば、ダーウィンの挑戦、神学と哲学の闘争(例えばフォイエルバッハ、ヘーゲル左派やマルクス主義等々)あるいは、当初、神の存在証明の徒でもあった自然科学の神学への反逆など、私には手におえない分野に分け入らなければならない。ゆえに、私は大急ぎで我が当面の問題に逃げかえろう。

    私が上記の線上で言いたかった事は、自然界を貫徹する必然法則に対する疑念である。先に触れたように、今では自然科学の法則知は極めて限られた領域でのみ妥当するだけの、しかも暫定的真理にすぎなくなった。とすれば、こうした自然科学的な手法とその知的体系を社会事象の中に持ち込み、それに応じた法則知を確立しようなどという試みはそもそも成立しない。 

    ところで、もしこの事が可能であったとすれば、それは我々の人生上にいかなる意味を持ちえたか。マルクスの場合が分かりやすい。彼の予言したように、資本主義の崩壊から社会主義への移行が自然法則のごとく逃れがたい必然であるとすれば、その移行が出来る限りスムーズに実現するよう、人々はそれに参画すべきである。その移行には当然、現体制下で利益を得ている政治勢力の根強く、強力な抵抗、反革命は不可避であり、それだけ産みの苦しみを免れないからである。こうして、絶対的な法則知は、そこに将来の予測と対策を絶対的なものとして告知し、ここに「人はいかに生きるべきか」の問題を解決されるのである。この時、決断者は必然に引きずられて已む無く行動するのではない。事柄を正しく認識した者は、自らの自由意志において、主体的にそれを選択するのである。かくて自由と必然は一体化されることになる。実に魅惑的な解答ではないか。

    こうした人生問題の解答は、中世ではカソリックの教義によって与えられた。神はこの世を造り給ふた。無謬権を備えた教皇以下教会内の位階制と世俗社会での身分制は、神によって定められたものとみなし、それゆえ教皇の命令や教えに導かれながら、人は社会内に置かれた場においてその勤めをはたすべし。君主は君主として、奴隷は奴隷としてのつとめがある。神への絶対的な信仰を持つ限り、人々は来世における救済を信じ、野の百合、空の鳥のように、明日を煩うこともなく平穏に日々を送れるわけである。

    しかし、19世紀末、時代は神の死を見、また科学的な真理知を見失った。時代は縋るべき地盤を失ったのである。これは生の意味を失ったに等しい。人は何のために生き、何処から何処へ行くのか、と言う問いに自ら答えなければならなくなった。ニーチェはこれをニヒリズムと言った。彼は超人の思想でこれを克服しようとするが、全ての人間がそうしたエリートになりうるものではない。ここに、20世紀の荒涼が始まる。

  • 7月23日・木曜日。曇り・連日の猛暑、やや和らぐ。

    前回で説かれた主張によれば、事象はすべて原因・結果において捉えられ、その関係は必然的である、とする立場に立ち、それは決定論的と言われるものである。この決定論にもギリシャ以来の歴史といくつかの流れがあるはともかくとして(こんな問題は、とても私には論じられないから)、これは自然科学の説明原理としては、極めて説得的であり続けたのである。だが、20世紀初頭になって、量子力学が確率概念を登場させるに及んで、ようやく科学の舞台から退場させられた。そこでは、本来分割不能とされていた原子のなかでの中性子、素粒子、陽子・陰子の構造と振る舞いは一義的、決定論的な関係では捉えられなくなってきたからである。

    以上は、われわれの日常生活には直接関わる世界でないことは、いうまでもない。しかし、「真理は細微に宿る」。原子の説明原理は宇宙のそれに繋がり、生命の起源の問題を解き明かすかもしれない。近年の古生物学の知見によれば、「歴史的ないし進化的発展の連鎖は完全に一貫しており、事後的には説明できる、しかしおこり得る結果についてははじめに予言はできないというのである。なぜなら、もし同じ進化の路線が二度目に設定されたとしても、何らかの初期の変化があれば――たとえいかにささいな変化で、初期には一見何の重要性もなかったとしても――「進化は根本的に異なった水路に滝の水のように流れ込む」からであった。この方法の政治的、経済的、社会的な帰結は遠大なものになるかもしれない」(E・ホブズボーム著河合秀和訳・20世紀の歴史・下378頁・三省堂)。ここに、「出来事は偶然ではないとしても、ある特定できる原因から生じる結果は予言できない」ことは明かであろう。

    私自身でもよく分からない事を、こうではないかと勘グッテ書いているのだから、読み手が戸惑うのもやむをえない。ただ、私がここで言っておきたかった事は、正確精密を身上とし、堅固な土台の上に打ち立てられたと思われる自然科学の認識も、その土台は案外ヤワであるのかも知れないということである。むしろ、こう言えるのかもしれない。19世紀までは、ニュートン以来の力学、物理学は生活上の諸事象をほぼ完璧に説明しえ、予測可能であって、その信頼は疑うべくもなかった。カントはそうした精密性に感嘆し、それに相応しい哲学的原理の確立を目指した様であったし、19世紀半ばにJ・S・ミルが精密自然科学に匹敵しうる経済学の樹立のために『論理学体系』を著したのもそうであった。思えば、マルクスが史的唯物論に立って資本主義から社会主義、共産主義への移行を必然法則として信じたのもこうした自然科学観があったからであろう。だが、認識の進化は物質の堅固さを奪い、まったく異なる物質観を生むに及んで、自然の見方のみならず、「政治的、経済的、社会的」な観念まで変革したのである。まさに「その帰結は遠大」であった。