• 3月7日・火曜日。曇り時に雨。この所、卒業式(付属3校の中学・高校及び大学)他種々の式典、来年度の大学予算、これに関わる会議等への出席により多忙を極む。過日は久方ぶりに、早朝(?)の通勤ラッシュを味わう。ただ、2,30年前に比すればそのムゴサは半減されたか。

    だが、囚人たちを酷使し、何がしか社会的・国家的な目的に役立たせようとの発想や取り組みは、勿論、ソヴィエトの専売ではない。凶悪な犯罪者たちは、先ずは社会から隔離し、市民生活の擾乱を防ぎ、安全を守らなければならない。しかし他方でそれは、社会の石潰しを養うことである。そんなことが許されるわけはない。こうして、獄への収監と囚人の使役が結び付けられたのであろう。

    わが国では、明治政府が北海道開拓を目指し、早くも明治14年、月形に樺戸集治監を建設し、ここを拠点に空知、釧路、網走、帯広へと拡大していった歴史がある。ただ丸木を打ち付けた牛馬の納屋にも等しい建物に囚人を押し込み、酷寒の地には耐えがたい衣食しか与えられず、やはり過酷な労働が課せられた。彼らは二人一組に縛られ、足には鉄球を括り付けられる。夏場には、蚋、アブ等の襲来の中、全くの人力によりながら、密集した原始林を開き、深い湿地帯の灌漑に明け暮れ、1キロ、2キロと道路を繋げていくのである。冬季の作業の悲惨さは言うまでもない。こうして、炭鉱が掘られ、鉄路が通った。その後の北海道の発展の基礎がこのようにして据えられたとすれば、一本の道路の下ですら、何層もの時間と人間の命が埋め込まれていることに気づかされよう。

    ところで囚人たちの命は、惜しまれる理由はない。彼らは処罰されるべき対象であり、そうしてこそ犯罪は抑止され、社会秩序は守られるのである。同時に、その労働が監獄経営の諸経費をこえた富をもたらすならば、何よりの事に違いない。殊にここでの事業は、やがて心配されるロシアの南下に対する第一の備えも兼ねていたのである。政府としては、なすべき政策、対策をとったという以上の意味はなかったであろう。いわんやここに、生への憐憫、尊厳の意識などあろうはずもなかった。

    しかし、囚人は意思も意欲もある、れっきとした人間である。このままこんな所で朽ち果ててたまるか。自由への渇望はやみがたく、だから脱獄に絡む刑吏、監獄当局との闘争は絶えなかった。そうした囚人たちの苦悩、悲しみに寄り添い、彼らに思いを寄せた典獄(所長)のいたことは、この物語の一つの救いであったろう。有馬四郎助である。原胤昭の薫陶を受けて、キリスト者となる彼は、後に「愛の典獄」と呼ばれるほどの人であった。これらについては、山田風太郎『地の果ての獄』(1977)が実に面白い。また吉村 昭『赤い人』(1977)では、囚人たちの生活、逃亡の闘争がリアルに描かれているように思う(本日はこれまで)。

  • 2月23日・木曜日。雨のち曇り。風緩むも夜半より寒波襲来との予想在り。

    スターリンの収容所群島建設の意図は前記のとおり、先ずは彼の反対・対抗勢力の殲滅であった、と言えよう。そんな大それた意思は全くなく、ただ革命後の祖国の建設に献身したいと願った外国からの自主的な帰還者、捕虜帰還者がたちまち群島送りになったが、それは西側スパイや反スターリン主義の恐怖からであった。これに国内の不満分子と疑われる膨大な市民が政治犯として一網打尽にされた訳だが、彼らにはまた別の課題が課せられた。ロシア僻地の開拓、開発の任務であり、具体的には、石炭・鉄鉱石の採掘、森林伐採、道路・鉄道建設、運河建設等がそれにあたる。

    例えば、悪名高い白海運河の建設は、白海からバルト海を結ぶ計画(約220キロ)であり、これをほとんど人力によって、しかもすべてが不足する酷寒の最中、20か月の短期間のうちに完成させた(1931-33)大事業であった。だから、これを視察したゴーリキ初めロシアの高名な作家たちは、英雄的事業であり、かつは「矯正労働」による政治犯の「再教育の成果」として讃えることになったが、彼らはその背後の殺人的・非人間的な悲劇を看過し、隠蔽した廉をもってソルジェニーツィンから断罪されるのである。

    また、ヴォルガ=バルト海運河建設も凄まじい。「ヴォルガ=バルト海運河のときは、ヒムキのすぐ近くの場所へまだ収容所のできる以前、水路測量の終わった直後に運ばれてきて、自動車から降ろされるや、土をつるはしで堀り、手押し一輪車で運ぶように命じられた(新聞は「運河建設の現場に機械が運ばれた」と報道した)。パンはなかった。自分たちの土小屋は、自由時間を利用して掘ることになっていた(今やそこを観光船がモスクワっ子たちを乗せて通っている。だがその底には人骨が、その土中には人骨が、そのコンクリートの中には人骨が埋められているのだ)」。

    こうした形容を超える過酷な強制労働は、たちまち人命を消尽させる「肉挽き器」に変じるが、それは当然、人力の補充の問題を引き起こす。当初は恐らく政治的な意図から拘束された政治犯は、時と共に労働力へと意味を変え、政治には何の関心もない一般市民たちが当局の割り当てによって理不尽に群島送りとなった。当然、彼らの多くは何故拘禁されたかも分からず、何かの間違いとして、だからすぐにも釈放されるだろうと、抵抗もせずただ事態に従ったようなのである(今日はここまで)。

  • 2017年2月17日・金曜日・快晴。二十四節気の雨水に当たり、気温20℃を超える。

    以下では、収容所群島の誕生から成長・拡散、内部機構と管理・統制の在り方、囚人たちの雑多な階層、彼らの懲罰的な労働の質と量および栄養・衛生等について触れ、それを介して群島内の一日、一年が具体的に明らかにされなければ、そこでの度外れた地獄の日々の実態はとても理解出来ない。それは分かっているが、これらについてはこれまでのわが摘記からご想像いただく他はない。

    そして、ここでは政治犯としてぶち込まれた囚人について一言しておきたい。彼らは主として14項からなる刑法58条の違反者たちである。その第10項は拡大解釈の余地が広い点で、特に悪名高い。「ソヴィエト政権の顛覆、破壊、あるいは弱化の呼びかけを含む宣伝または煽動…同様の内容をもった文書の配布あるいは作成あるいは保持も同じ」。例えば、会話の折の、「近頃、物価が高くなって暮らしにくい」といった何気ないほんの一言が、政権弱化の意図及び煽動として告発され、たちまち政治犯に転落するのである。それは彼のみならず、家族のその後の人生にも大きな影を落とす。しかも、その会話が何年前のそれであろうとも。それを支えるのが、巧妙かつ縦横に張られた密告制度である(私は、現在国会で論議されている共謀罪の行方に注目している。戦前の治安維持法の導入もまた、当初は一般人には何の関係もない、心配に当たらずと言われたが、その拡大解釈の末はどうなったか)。

    かくてその大鎌に刈られた人びとはこうである。ボルシェビキ以外の政治信条者(ここには社会革命党員、社会民主党員、トロッキスト、ナロードニキ、アナーキスト等の多様な共産・社会主義者を含む)、宗教家、科学者、インテリゲンチャア、捕虜帰還者、外国からの帰還者等である。もはや不要になった部下、職務上の失敗者が連なる(検事総長としてスターリンを助けたクルイレンコの粛清は象徴的である)。さらに、政府の政策に従順ならざる者、特にソフォーズ(国営農場)、コルホーズ(集団農場)への参加を拒む農民は「富農」として徹底的な弾圧を受け、丸裸になって収容所送りとなる。その結果、ロシア農業の背骨が折れたという。

    それにしても、スターリンは何故、歴史に類を見ないこれほどの収容所を建設し、その拡大に執着したのか。これに飲み込まれた多大な人命もさることながら、世界に連なる第一級の科学者、技術者、政治家、思想家、芸術家らが惜しげも無く磨り潰されていった。例えば、遺伝学者ヴァヴィロフ、民俗学者タン=ボゴラズ、哲学者プレハーノフ、演出家にして前衛的演劇に足跡を残すメイエルホリド、地質学者・グリゴーリエフ、医学・生物学者であるコリツヲフ、サイバネティクスの開発に貢献する宗教家・フロレンスキー等々である。とすれば、ここでは著者が悲痛の思いを込めて記した、「ロシアの歴史を一つの文句で表現したらどうなる?あらゆる可能性をしめ殺した国である」(第6分冊202頁)を纏めとして引いておこう。

    だが、先の問への答えはまだ得ていない。ソルジェニーツィンは、個人が歴史を造る事はない、少なくともそこには限界がある、と用心深く言っている。つまり、何もかもがスターリンのせいだとは言えない、という訳だ。とは言え、彼が地獄の果てまで負うべき責任もある。国家の保持を名目とする権力維持と共に、それに絡みつくスターリンの権力欲、名誉欲、個人崇拝、神格化への欲望が果てしなかった。だからであろう、彼の反対勢力、競争者への飽くなき弾圧、粛清、権力闘争を生きている限り継続せざるをえなかった。当初、トロッキーを排除するためにジノヴィエフ、カーメネフと共にトロイカ方式を取った彼が、自らの政権の強化と共に前二者を排除したのはその一例であったろう(本日はこれまで)。

  • 2月7日・火曜日。快晴、しかし寒風強し。2月9日・木曜日。雪舞う。

    2月14日・火曜日。晴れ。寒気やや緩む。本日、バレンタインデー。ただし、チョコレートは今のところ義理も無し。

    今となっては古い話(?)になるが、今年の元旦、年頭の読書はソルジェニーツィン『収容所群島 1918-1959 文学的考察』(木村 浩訳・全6冊・新潮社文庫)にしようと決意し、以来、それはモウ酷い目にあっている。現在ようやく5分冊の半ばまでたどり着き、今月中にはナントか読了になるはずだ。

    全冊で恐らく2800頁は下らぬ大冊である。かのロシア革命(1917)によって、レーニン指導下のヴォルシェヴィキが政権を樹立して以来、いわゆる政治犯が蒙った、地獄にも比せられる「収容所」生活の惨状、これを生み育て指導したスターリンや政府当局の無慈悲、残虐性の告発(著者はこれをヒトラー、ナチス以上の暴虐と断じている)、そうした最中にあって、命を賭して当局と闘い、真の人間性を維持した教父や囚人たちのいたことを称賛する。ここには、著者のマルクス主義への痛烈な批判とキリスト教への回帰が認められるが、こうして彼は人間の魂の究極的な救いの方向を示唆したのかもしれない。

    では、彼らが嘗めた惨状とは如何なるものか。ここではそのスケッチを示すことすら不可能であり、ご関心の向きには是非本書を手にとって頂きたい。以下は筆者の勝手な摘記に過ぎない、と言っておく。男女を問わず、政治犯として目を付けられたが最後、不当な逮捕と裁判により(あるいはソンナ手続きもないままに)収容所送りとなる。そこでは人力に余る過剰労働とノルマの強要、監視人の殴打、飼料とも思しき食料、それさえの横奪、極度の飢餓・不眠・不潔・過密、劣悪な住環境、警備兵による理由なき銃殺・殴殺、刑期の勝手な延長(十年から二十、二十五年という具合)等々の告発がどの頁の後にも延々と続き、しかも言葉を失うこの惨状が零下20、30度の酷寒の地で日々繰り広げられるというのである。かくて病人はおろか健常者でさえ、一、二か月の内に命を落とし、ほぼ40年間で6千万人ほどが殺戮された。人の命をむごく巨大なおろし鉄で摩り下ろすような惨状が浮かぶが、著者はこれを「肉挽き器」と呼んでいる。筆者には、本書に付き合うこと自体もはや拷問に近く、今なお非常な疲労を覚える日々である。

    さて、著者は政治犯として逮捕後、各地の収容所に回され、10年間の刑期を努めたようだから、自らこれらの惨状を体験し、目の当たりにしたばかりか、当時ロシア全土に「癌腫」のように拡散していった他の収容所での惨劇、弾圧、理不尽の報告を踏まえて(その協力者は227人ほどになる。加えて、悪名高い白海運河建設に駆り出された囚人たちの奴隷的労働の過酷、無慈悲を指弾するどころか、英雄的労働として賛美したマキシム・ゴーリキを含む36人のロシア人作家らが行った権力への追従、加担が逆照射され、これを著者はロシア文学の死滅と断じた)、釈放後、本書を秘密裏に書き上げた。それに懸けたほぼ十年に及ぶ歳月には、収容所時代の惨状を詩形に換えて頭に叩き込んだ記憶を土台に、徹底して分散管理された協力者たちの貴重な報告や資料(これらが当局に露見すれば、その没収は当然として、累は彼らにも及びかねない)を小出しにしながら書き継いでいかなければならない苦心があった。これが事実とすれば、驚嘆すべき記憶力、精神力と言わなければならない。かくて本書の草稿は1967年、一応の完成をみるが、その後ロシアでの出版の機会を求めてか、地下深くに保存されざるを得なかった。にも拘らず、その存在が当局の知るところとなって、本書の執筆に深く協力した一女性が厳しい取り調べの後、自死するという悲劇までもたらした。

    本書の邦訳は、原書の第一巻がパリで1973年出版されたその翌年に出始めたから(訳者解説によれば、著者が訳者を指名し、新潮社より6巻の単行本として出版された。その際、著者の求めによって時を移さず文庫版も刊行される)、すでに43年前に本書はわが読書界では知られていたことになる。それどころか、早や1962年には『イワン=デニソーヴィッチの一日』(1970年ノーベル文学賞受賞)が、新潮社より木村 浩訳で出版されており、この時点ですでに収容所の存在とその実態は『群島』ほどに徹底的ではないにしろ、我々には周知のところであった。

    しかし、往時のスターリン政治の暴虐性は、すでに1956年2月、ソ連共産党第20回大会におけるフルフチョフの秘密報告によって一切白日の下に曝されていた。ちなみに、本報告が中ソ論争から両国の対立を呼び、諸国の社会主義陣営に大混乱を来たしたのみならず、全世界に驚愕と激震を齎した事情については、さし当り志水速雄『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』(講談社学術文庫204、1977)の名訳と解説を参照されたい。

    これを知れば、ソルジェニーツィンの本書もあながち誇張とばかりは言えない説得力を持つ。ただし、ここで盛られた個別的事実の集積と惨たらしさ、人面の裏にひそむ底なしの貪欲と悪意、いかなる獰猛な獣といえども到底及ばぬ残忍さ、執拗さ、苦しみ悶えつつ死ぬる者へのサディスティックな喜び、つまり悪鬼とはこれを言うか、それは我が身内にも潜むかという恐れ、を突きつけられるのである。これが文学作品の力であろうと思う。

  • 1月27日・金曜日。快晴。寒気やや緩む。1月30日・月曜日。快晴。明後日より如月。

    それにしても、と私は思う。著者は何故に、これほどの執着をもって、そこに在る美を求めて遍歴するのであろうか。美は確かにどこにでも在り、それと意識さえすれば容易に見出すことが出来よう。しかし、美はまた実に果敢なく、捉え難い。それゆえの悲哀と神々しさもそこに在る。その体験を、早春の裏磐梯にようやく芽吹こうとするブナの輝きに触れたその一瞬に、著者は得た。この感動、感懐を是非記録に留めなければならぬ。著者62歳の折の、遅い出立である。

    こんな思いが滲んだ一文をここに紹介し、本節を閉じよう。江戸期、宇都宮城の北側外堀辺り、町同心の屋敷が並んだ「鼠穴通り」と称する曲がりの多い細道が、当時の面影を偲ばせながら今も残っている。六月の、降っては薄日のさす梅雨らしい一日。著者は誘い込まれるように、その路地裏に足を向けた。目と鼻の繁華が嘘のような佇まいがそこには在った。竹垣のある古民家が二、三軒連なり、その中に木々や草花の飾るレストラン、日本料理店も埋もれている。見回せば、建てこんだ屋根の間に、「天の穴のように」くり抜けた空が覗き、柘榴の巨木が聳える。

    「路地ちかくでは、日向水木のひとむらが、葉という葉に露をおいて、きらめいている。春さきに黄色い可憐な花をつけたあと、柔らかな黄緑色の葉をだし、その葉は濃い紅にふちどりされて、緑をいっそう鮮やかにしている」。こんな静寂の中では、人の営みもそれらしくしっとりとしているのであろう。誰もいないと思った厨房から、「とんとん…」とまな板にあてる包丁の音が聞こえ、夜の仕込みが始まったと知れるのである。それでも、その静けさは壊れない。雨水を含む地面からは湿った土の匂いが立ち上がり、黒土の上に柘榴の花の「ぽとり」と落ちる音までが風情を添える。ここには確かに、もはや昔の事になってしまったあの懐かしい日々に繋がる何かがある。

    だが、この文章の末尾には無残な追記が細字で添えられた。「その後、鼠穴通り北側にあった売家は売却され取り壊されて駐車場へとかわり、南側の一部は住宅分譲地となった」。

    最後に、著者の経歴について一言付しておきたい。著者は文学一筋に歩んできた方ではない。明治大学政治経済学部・政治学科卒業であり、わが敬愛する故西尾孝明先生のゼミナールのご出身である。この度、私が本書を頂戴したのは、令夫人喜代子様のお勧めによる。夫人には、記して謝意を表したい。一読し、このような一文に及んだのは、本書に盛られた詩情とその豊かさに打たれたからであったが、同時に遅咲きの著者の直向きな情熱に私なりのエールを送りたいとの思いに駆られたからでもある(この項、終わり)。