• 4月21日・金曜日。薄曇り。蒸す。はや初夏の兆し。

    4月24日・月曜日。快晴。風さわやか。鶴巻公園の大樹・欅、楠、ユリノキ、プラタナス、銀杏の新緑例えようも無し。本日は前回の文章の訂正・補充のみ。

    この度初めて、主宰と親しくお話できる時間を頂いたことは、幸運であった。多くの来場者の方々もまた、同様の思いを持たれていたであろうから。そして、様々教えられた。その話の中で、特に私の印象に残ったことは、作者の生みだす作品と甲骨文字・金文との関係についてである。私の記憶にまちがえがなければ、それは以下のような趣旨であったと思う。だが我が記憶は最近キワメテ怪しく、日柄もたったことでもあるし、勢い私流の言い方と解釈になって、そんな事は、主宰は一言も言われていなかったかもしれない。だが、ここまで来たら引き返す分けにもいかない。勇を鼓して、私は言おう。作品は常にこれら古代文字との関係性が保たれていなければならない。それを踏まえてこその作品である、と。

    自由な発想と天がける想像が古代文字に「生命を吹き込み、新しい造形美を構築」すると言っても、それが作者の単なる空想の産物になってしまえば、作者の墨線による絵画に過ぎず、美的ではありえても亀甲会の作品にはならない、ということではないか。自由とは、必ずしも全てからの解放を意味しない。ましてや、勝手気ままになることではない。存在の根拠、原点を保持し、それに拘束されているがゆえに、却ってより大きな自由、可能性がえられる。例えば、俳句の季語はそのような一例ではなかろうか。

    こんな思いをもって参観すれば、今年も細やかではあるが「臨書」のコーナーがあった。会員達にとっては、これは自分たちの修業の産物であり、その意味で楽屋裏の話であるかもしれない。だが、ここは刺激的で、実に興味深いコーナーである。息を詰めて甲骨文・金文を写し取る者は、その作業を通じて古代文字の線と形、さらにはこれらの文字を刻印した古代人の祈り、願いを己が手と腕と体そして心に刻み込むはずである。これが、先に私が言った「象形文字との格闘」の意味である。その傑作を、私は二年前、初めて本会を訪ねた折、主宰の作品を通じて知った。何も分からぬことながら、心にズンと響いたあの不思議な感覚は今に残っている。このような営みは、パリの画学生が巨匠の作品の前にキャンパスをたて、オペラグラスを首にかけ、目の前を参観者たちが幾重にも重なり、引きも切らずに通り過ぎるのをものともせず、必死に模写していたルーブルでの様を想起させる。

    「臨書」とは、辞書によれば、書道で、手本を見て字を書くこと。また、その書いた書、とある。「学ぶ」とは、まねび、であり、徹底した模倣によって自然に事柄を体得していくことであろう。そうした学びは、それほど楽しい作業ではない。己自身の自由気ままを拘束し、ひたすら対象に付き従うことを強いられるからである。しかし、このような自己鍛錬を通じてえた技量、精神力が自身の奥深くに潜む何ものかを引き出し、「作者の精神(内面率)の志向」を作品に表現させる糧となるのではないか。

    だが、このような学びを通して自由な世界を開くという鍛錬は、書道に限った事ではない。人の営みのあらゆる領域、すなわち学問研究、スポーツ、芸能、いな全ての仕事における基盤である*。名人とは「格に入り格を出る」人だと、将棋の棋士から教えられたことがある。先人たちによって積み上げられた定跡や棋理を徹底して学び取り、ついにはそれを超えて全く新たな地平を拓く棋士を言うのだと思う。ならば、人生の一時期、私はその様な基礎鍛錬の場に身を置き、これを耐え抜かねばならなかった、されば今少しマシになりえたであろうにと、この歳になって改めて思うが、イヤ、時すでに遅し。

    *これについては、「天声人語」や志賀直哉の作品を写し取ることで文章が鍛えられる、と高校生のころ国語の教師からよく聞かされた話を思い出す。また、いつだったか、直木賞作家の桜木紫乃氏がテレビの対談で、高樹のぶ子『透光の樹』を四百字原稿用紙に書き写しピッタリ三百枚に収まった、との経験談を感動の面持ちで語っていたのも印象に残っている。この場合は、文章の鍛錬よりも、小説の結構、作中人物の息遣い、とりわけ癌で逝ってしまった恋人を追慕しながら、次第に痴呆化する母親の情念にたじろぐ娘の気持ちなどに、直に触れたいとの願いからではなかったかと思う。そうした場面への肉迫はただ読むだけでは不十分なのであろう。その状景を正確に表わすための文章のリズム、選ばれた言葉は漢字なのか平仮名なのか、句読点、段落等学びえた事は幾らでもあったはずである。他には、職人芸の伝承もこの「まねび」を介してしかありえない。最後に、我々のような分野では、巨匠の翻訳をするのが最良であろう。だがそれは、言うは易く、行うは難しで、部分訳は幾つか作ってはみたものの、一冊丸々となれば、遂に私はなしえなかった(この項終わり)。(5月2日に付記)。

  • 4月14日・金曜日。快晴。桜散る。入学式後の2日間、寝込む。疲労性腰痛(?)のため。

    躍る墨線が相互に重なり、一つの形象を成し、それらが縦、あるいは横に配された身の丈ほどの紙面に向き合うこと数分か。突然、意味を成し、文章となり、映像となって蠢き、そして躍り出す。そう、「亀甲展」(於上野の森美術館・3月3日~7日)での事である。私にとって3度目の参観であるが、この感覚は今なお新鮮である。

    他の書展でもこのような体験はあるのだろうか。この手の分野にはまるで縁のない私には何とも言いようもなく、むしろ諸氏に教えて頂きたい。他はともあれ、本展には躍動と、そしてこれは前回知った事だが、色彩がある。ただ黒の墨線と紙面の白の二色からだけで、豊かな景色が醸されるのである。例えば、飛翔する鳳凰や天空にかかる虹の文字から。それは、亀甲会の趣旨に発することで、本会に際立った個性ではないだろうか。本会は中国の古代文字である甲骨文・金文に寄りながら、それらの文字に潜む美を発掘し、改めて生命を吹き込み、「新しい造形美」を「構築」することにあるという。とすればその営みは、当然、完成された漢字へと転生する直前の象形文字(ヒエログリフ)との関わり、もっと言えばそれとの格闘を逃れることは出来ないからだ。つまり、ここでの書は、本来的に絵画、映像を内包しているのである。

    このような古代文字の内に「美」を発見し、今に甦らせた主宰・加藤光峰氏の慧眼にはただ驚く他はない。氏が齎した新たな美は書の可能性を豊かに開いたに違いない。今更言うまでもないことながら、氏の半世紀に及ぶ内外における縦横の活動、事績が、それを証していよう。

    この度の参観で、私なりに思うところがあった。それは、上で象形文字との「格闘」と言った事と関わるが、これは次回にしよう。

  • 4月7日・金曜日。雨のち晴れ。本日、武道館にて大学の入学式(午前・午後に分けた二部制をとるも、いずれも満員。)。千鳥ヶ淵の桜、満開。堀の斜面を滑り落ちる櫻華の重なり見事であった。明日より、大学の業務平常に復す。

    丸まる二か月に及んだ『収容所群島』考だが、今日こそホントウに終えよう。私自身、もういい加減、娑婆に出たいからだ。それには、話をあまり広げず、上手く纏めなければいけない。

    個別の出来事の特性、それが抱える意味を全て明らかにし、理解することなどできるものではない。生とは汲み尽くし難い多様性と内容を湛えているからである。恐らく、この事を理解するか、しないかによって、ある事柄や事象に対したとき、その人のそれに向き合う姿勢は全く異なることになろう。傲慢になるか、謙虚になるかの違いである。歴史的出来事に対する畏れ、と言って良いのかもしれない。これに比べれば、事柄を一般化し、法則的な概念に押し込めてお終いとするような見方は、何ほどの事もない。これはゲーテに繋がり、ドイツ歴史学派はここから多くの霊感を得たように思うが、これを突っつくと、またもや迷路に踏み入るので、以下ではこれまでの話との関わりで考えてみよう。

    スターリンの「群島」建設と拡大の意図は、反対勢力や政治犯を撲滅させて、彼の政治支配の安定化を図ることにあった。それが「肉挽き器」とも言われた苛烈な処置を生んだのだが、その結果は彼の意図を見事に裏切るものとなったのである。たしかに、信じられない数の人命が磨り潰された。しかし、これを潜り抜け生き延びた人々は、酷寒の中、重労働と不眠と飢渇の重圧を受けながら、なお体力、気力は横溢し、生の幸福すら感じられた。高い人間性を維持して生きている。何故であろう。そこには、まずは命をつなぐ食い物、ネグラはあり、これ以上何かを略奪される心配も無く、そして共に信頼し、語りあえる仲間がいるからであるらしい。それに反して、スターリン死後、群島から釈放された彼らは、家族のもとに帰って安心すると、生への意欲を失い、一挙に消耗して果てたと言われるのである。

    ここには、スターリンの思いもよらない人間の生命力・精神力の強さがある。彼の残虐を生き抜いたソルジェニーツィン初め多くの人々が、彼を歴史の闇から引きずり出し、弾劾するに至った。さらには、揺るぎない独裁、体制と信じ、だからこれにすり寄り、権力を恣にした人間集団も無傷では済まなかった。その他悲しみを負わされた人たちの告発が続く(同種の問題が我々に対して、今、韓国の人々から提起されていることを忘れることはできない)。

    あるいはまた、幸・不幸とはどういう事か、という問題を考えさせられる。これは、物質的な条件は無くてはならないが、それにしがみ付く必要も無いという、古くて、新しい問題である。さらに、弾圧を乗り越える力を得た者は、そこから逆に、新たな地平を開き、別種の幸福に至りうる、という著者の言明に打たれる。このくだりに触れたとき、「虐げられた者は幸いなり。天国は彼らのものなればなり」との、イエスの教えの意味の一端に初めて触れえたような気がした。だから弾圧は許される、などと誤解してはならない。理不尽な圧政には、断じて闘い、これを叩き潰さなければならない。だが、それとは別に、弾圧者の意図を遥かに越えたところでの平安を著者が見出したという事実は、圧倒的な権力に喘ぐ、様々な国の多くの人々に、常に変わらぬ勇気を与え続けるのではないだろうか。これまで、長々と書き連ねてきたが、何か書き切れていない不満が残る。ご関心の向きは、是非、本書に当たり、自身でお考え頂きたい。ここでの文章が何がしかの刺激になれば幸いである。

  • 3月22日・水曜日。晴天。昨日、靖国神社にて、気象庁職員による開花宣言あり。

    前回、「まだ、言うべきことは尽きないが」とモッタイを付けながら、ソルジェニーツィン考を終了しようと思ったが(実はこの主題に飽きてきたせいもあった)、行方知れずの一貫性の欠如こそ、この『手紙』の唯一の取柄と思い直して、今月中はこの主題に関わる事にした。

    そこで、「言うべき事」の一つは、収容所群島の呆れるほどの肥大化である。著者は「群島」を癌腫に例えて、ロシア全土に蔓延していくその繁殖の在り様とその原動力を抉り出した。その記述は執拗であり、容赦がない。収容所が建設されるや、周辺の生活、風俗、文化はたちまち破壊され、しかもそれは近隣都市から果てはモスクワにまで逆流し、要するにロシア全土に害悪が及ぶのである。収容所の常軌を逸した仕組みと生活がその原因である。

    先ず、群島内の住民は政治犯と雑多な刑事犯からなり、後者は殺人、強姦、泥棒などあらゆる犯罪者たちである。処遇は彼らにはるかに寛大であり、所内の食事、衛生、清掃と言った楽な仕事に就き、酷寒の外の仕事に回されても班長、監督と言った役回りである。所内の生活で最も重要な食事と睡眠、その場所も格段の差があった。しかも彼らは団結し政治犯の私有物やカツカツの食事まで劫略する始末である。収容所の所長、監督者、護衛兵らは彼らの傍若ぶりを黙認、あるいはこれを積極的に政治犯の監督に利用した。彼らの刑期の短さについてはすでに見た。

    つまりここでは、悪が善となり、価値基準の崩壊が生じ、ならず者の生活が王道となる。そんな彼らは刑期後、各収容所周辺に住み着き、彼らの生活ぶりが市域に浸潤し、やがてはロシア全土に拡散されるという訳である。それが及ぼす道徳的な退廃、破壊はどんなものであろう。

    では、収容所の維持と拡大はどうであったか。スターリン時代にその隆盛を極めたが、おりしもその時期、ヨーロッパの政治状況は急を告げ、さらにヒトラーとの戦争に突入して以来、軍人たるもの、ヨーロッパ戦線への投入は不可避となった。しかし、収容所の建設、維持発展に従事する軍人たちはその運命から免れられる。何故なら、政治犯の放置と跋扈は、ソヴィエト連邦の崩壊を招来しかねないからだ。ならば、ヒトラーへの勝利が至上命令であると同様、収容所の維持・発展もまた欠くべからざる命題であるだろう。かくて、これに従事する将校・軍人、官僚、秘密警察といった膨大な量の人間どもが人知を凝らして収容所の必要性やらその成果を喧伝し、組織の充実、その拡大に邁進していくことになる。一つの組織が成立すると、組織の論理と利害に突き動かされ、その使命が尽きて、もはや存立の理由(raison d‘etre)が消滅しても、なお維持しようとする力が働く。このことが、第二次対戦以降まで「群島」が生き続けた理由である。わが国の「原発村」がこうした指弾を浴びるような存在でないことを、ただ願う。

    これとの関連で第二に言っておきたい。収容所の当初の目的についてである。社会主義国では資本主義国とは異なり、非人間的な搾取、格差それに発する犯罪者はイナイ。こんな建て前がまことしやかに語られていたようである。このような言い草を、本書によって私は初めて知った。それゆえ、ここでの収容所は犯罪者を収監する監獄ではない。ここは「矯正労働収容所」であり、労働を通して社会主義国に相応しい市民に生まれ変わるための施設である。

    では、その目的は果たされたのか。結論は、全くの否である。さきにふれた運河建設は機械力ほか全ての必要条件を欠いた、ただ人力による短期の突貫工事のため、水深は浅く、鋼鉄船は航行できず、その後完全に造り直されねばならぬ代物であった。他の作業についても同断である。駆り出された人々は監督者の居ないところではひたすらサボタージュし、重労働を押し付け、あるいは成果の捏造に走った。奴隷労働が非生産的であることは、ローマの時代から証明済みのことである。それかあらぬか、著者はしばしばロマノフ王朝時代の農奴と比較し、こちらの方がはるかに人道的であったとさえ言うのである。

    そして、私にとって印象的であるのは、ドストエフスキーの『死の家の記録』(1862)との比較である。ここに描かれた世界は決して愉快なものではないが、ソルジェニーツィンに比すれば、はるかにユーモアに富み、ゆとりが在り、人間的である。ドストはベッドにあって、周囲の囚人たちの振る舞い、生活を隈なく観察し、それを卓抜な文章に留める自由があった。彼は囚人と共に散歩にも出かけることが出来た。また、ソルジェニーツィンは帝政期の政治犯に対する処遇について、レーニン、スターリンを挙げて言っている。彼らはかなり自由な生活と月々所定の年金を受けていた。レーニンはそれで生活し、必要な書物を買うことが出来たようである。ヴィンデルバンドは言っていた。人間の進歩は、技術上の蓄積できる分野では可能であっても、資質、能力といった領域では難しい。進歩は制度や規則の改革によってなされる。その規制力によって人々の振る舞いは正され、社会は進歩する、と。しかし、それはどうも怪しい。社会規範の改良なら、先に述べたように、スターリンは申し分が無かったはずだ。だが、彼の場合、完全に逆行していることは明らかだからである(以下、次回)。

  • 3月14日・火曜日。雨、時々曇り。忙中閑の中、ようやく早稲田に出向く。

    いずれにせよ、国家統治とは本来的に、酷薄にして峻烈なものである。それは洋の東西、時代を問わず、免れえない事実である。であれば、当時のソヴィエト政権の群島政策それ自体が異常であったわけではなかろう。人権思想の希薄な時代であってみれば、なおのことである。

    それにも拘らず、そこには断じて看過されてはならない理不尽、残忍性、凶暴性があり、それらは今もって厳しく指弾されなければならない。ソルジェニーツィンの怒りもそこにあるように思う。まずは、当局による犯罪者の恣意的な特定とデタラメな刑期の決定である。その背後には、政敵に対するスターリンの執拗な復讐心や権力誇示があり、それに基づく当局のいい加減な法解釈と運用がある。次いで刑期についても、重大な刑事犯ですら4,5年で釈放されるのに対し、政治犯の場合には10年20年は普通であり、ようやく満期に達した政治犯の突然の刑期延長も珍しくなかった。しかも収容所内での処遇も歴然とした違いがあった。

    ソヴィエト連邦は、いわゆる「スターリン憲法」(1936)の制定によって世界で最も民主的な憲法を持ちえたが、それによる政治がなされたことは、絶えてなかった。その状況は第二次大戦後からフルシチョフ時代を超えてなお変わらず、これを告発しつ続けるソルジェニーツィンは、1974年、遂に国外追放へと追い込まれた。だが、何故コンナ馬鹿馬鹿しい事態が生き続けたのか。彼によれば、スターリン時代以来の、教育の独占とプロパガンダの徹底、そしてその成功である。だから市民の誰もが、政治犯となった者たちにはきっとその理由があり、当然なのだ、と考えた。というのは、政府は間違いを犯さないからだ。では、理由も分からずに、突然拘束された彼本人の場合はどうか。その時、彼はこう思う。自分だけが何かの手違いでこうなったに過ぎない。だから、事情が分かれば直ちに釈放されるハズだ、と。

    これは世論の不在のためである。これが著者の結論である。とすれば、政府を堂々と批判する自立した報道機関、自由な教育制度、自主的な思考と判断、そして政治結社の自由と行動、多党制の是認が要請される。ここまでたどれば、事はただソヴィエト連邦の問題に尽きる訳ではない、と知るであろう。世界情勢は限りなく、各国家が自らの権力強化に走り、国内の自由な思考、論議を抑制する方向に向かっているように見える昨今である。ソルジェニーツィンの告発は我々の問題でもあるのである。

    まだ、言うべきことは尽きないが、ここでは次の一点のみを付して、この項を終えたい。社会主義を標榜する国家は、近代にあっても多々あった。そのいずれも、近代資本主義の生み出した格差、搾取等の問題に対峙し、人間性の回復と平等を理想とする国家建設を目指したが、結局、これとはまるで異なる無残な独裁に傾斜したのは何故か。カール・ポッパーはかつてこれを「全体論」(Holism)と呼んで厳しく批判した。社会・国家制度を一纏めにして、全体論的に一挙に解決出来るとする考え方は間違いである。そのためには、反対勢力を弾圧しうる巨大な権力装置と有無を言わせぬ執行力が求められようからである。そうではなく、社会に生ずる諸問題、除去すべき悪や矛盾を一つずつ漸次的に解決し、そのようにしてより良き社会の建設を目指すという考え方を提示した。そのプログラムを彼は、確か『歴史主義の貧困』(1936)で提起するが、私はこれを支持する。