• 6月16日・金曜日。晴れ。今年はカラ梅雨か、との予報あり。猛暑の中、渇水の不安が横切る。

    昨日(6/15・木)は、日本の将来にとって、一つの大きな節目の日となった。「共謀罪」法成立の日として、人びとの心に深く刻まれるであろう。時代の潮目が変わり、社会の閉塞と共に、この日は益々強く思い起こされるであろう。「コレハアノ日カラ始マッタ」(以下は、主に昨日の朝日新聞を参照にした)。

    本法が成立するまでの経過の異常さはドウか。法務委員会の最終決議を省略し、中間報告として本会議に持ち込み、一気に採決となった。法案の中身は複雑怪奇であり、主務大臣すら理解できない。答弁は常に変動し、さながら波間の板切れの如くであった。昨日は良かったものが、今日は「犯罪者」となる危うさである。立法趣旨は「国際組織犯罪防止条約」批准のためであり、これにはテロ対策を必要とし、そのための法律であるときいた。しかし、「防止条約」の目的はテロ対策ではなく、国際的な金融犯罪の取り締まりにあり、この批准のために国民生活の自由を制限するごとき立法は必要ない、とは「条約」草案者でもあった国連の特別報告者が言っていることである(ジャパンタイムズ)。

    立法趣旨がこうであれば、法律の対象者はどうなったか。ついにその明確な範囲は引かれなかったのである。だから、誰でもが捜査の対象者になりうる。これは限りなく治安維持法にちかい。同法にも、時の主務大臣は断言していた。これによって一般人が捜査対象者になることはない、と。しかし、その結果は歴史の示す通りである。

    本法の忌まわしさ、危険性は、官憲による国民の内面生活への介入であり、それを通した統制への可能性である。これまでの刑法は、為された犯罪行為を基に捜査がなされ、犯罪者が特定される、この意味で「既遂」主義であったものが、今後は行為の計画段階で捜査が開始されるという「未遂」主義に転換された。ただし、やみ雲な捜査がなされる分ではなく、そこに至るまでには、何段階の法的な縛りがある。つまり、こうだ。「法案は共謀罪とは異なる。対象は組織的犯罪集団と明文化し、具体的な計画と準備行為という要件がある。組織的犯罪集団と関わりのない一般の人は捜査の対象とはなり得ない。内心の自由を侵すことでないことも明白だ」(自民・西田昌司議員)。

    だが、組織的犯罪集団や一般人とは誰の事か。それは誰によって決められるのか。捜査に直接従事する検察、警察であり、政治家ではない。残念ながら、西田議員の言葉は到底信じられない。元北海道警察釧路方面本部長・原田宏二氏によればこうである。一般人とは、「政府のやることに反対しない人」であり、「警察が脅威になりうると判断すれば監視対象になりうる」。そして、続ける。「公安警察が徹底した監視活動をするのは、権力の維持に直結するからだ。これまでも容疑の有無にかかわらず、政府の施策に反対する市民運動をカメラで撮影し、人物を特定するといった監視をしてきた。『共謀罪』によってさらに対象が広がるだろう」(以下次回)。

  • 6月8日・木曜日。梅雨入り。曇りのち晴れ。

    6月12日・月曜日。梅雨の幕間か、晴れ。本日は、前回の文章の手入れとする。

    ソルジェニーチン 『収容所群島 1918-1956 文学的考察』(木村 浩訳・全6冊 新潮文庫)1/1~2/17

    網野善彦 『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(岩波新書)2/21~23

    村上重良 『国家神道』(岩波新書)2/24~28

    島薗 進 『国家神道と日本人』(岩波新書)3/1~3/7

    『古事記・日本書紀考』(西東書房)3/8~13

    フロイス 『ヨーロッパ文化と日本文化』(岡田昭雄訳 岩波文庫)3/14~17

    大野 晋 『日本語の起源』(岩波新書)3/18~24

    沼 昭三 『家畜人ヤプー』(幻冬舎アウトロー文庫・全5冊)3/24~4/16

    立花 隆 『日本共産党の研究』(講談社文庫・全3冊)4/17~5/6

    スイフト 『ガリバー旅行記』(平井正穂訳 岩波文庫)5/7~10

    ドストエフスキー『永遠の夫』(千草 堅訳 新潮文庫)5/11~14

    フロイト 『自我論集』(竹田青嗣編 中山 元訳 ちくま文庫)5/15~28

    高橋源一郎 『恋する原発』(河出文庫)5/28~29

    同上    『非常時の言葉 震災の後で』(朝日文庫)5/30~31

    以上25冊

    これが五か月間の成果であるが、こうして改めてリストにしてみると、仕事を持つ身とは言え、その貧弱さは頭で思う以上に歴然としてくる。この程度の読書であれば、たとえば山田風太郎なら、一月の分量であろう。

    彼は家業の医者となるため故郷の丹波からはるばる東京にやって来た。確か太平洋戦争直前のころと思う。だが、初年度は医大への入学は果たせず、浪人生活を余儀なくされた。すでに両親はなく、生活費は折り合いの悪い、やはり医者である叔父の仕送りに縋らなければならなかった。粗末な下宿住まいとカツカツの食事が病弱な彼を苛んだ。下痢と風邪は宿痾に近く、果ては肋膜から結核まで心配するありさま。私の記憶に間違えが無ければ、その為に徴兵検査で、即刻帰京させられるほどであった。生活費の不足は、当然アルバイトで補い、そんな鬱憤を、やっと手にした有り金で晴らすことになる。信じられないような暴飲暴食、煙草、映画鑑賞に蕩尽され、「オンナ」にまで回す余力はなかったようである。ソンナであるから、次年度の医大受験に自信のあろうはずも無かったが、新宿の東京医専に潜り込むことが出来たのは、誠に幸いであった。

    これは戦中から戦後にかけた当時の苦学生の生活そのものであったかもしれない。彼の『戦中派虫ケラ日記』、『戦中派焼け跡日記』はそうした庶民の生活や時代状況を実に生き生きと活写し、渋谷、新宿の雑踏を伝えてくれる。この意味で、荷風のようなトップエリート達の日記とは一味、二味も違う貴重な歴史資料でもありうる。

    しかし、彼は単なる虫ケラではなかった。彼には奇想天外な着想と豊かな文才があった。この頃、次第に人気を博する探偵小説に惹かれ、自分でも創作に打ち込み、雑誌に投稿し、新人賞を取るまでにいたる。こうして乱歩に見いだされ、彼の庇護と励ましを受けつつ、遂には東京医大を卒業したにも関わらず、医者を断念し、作家の道を選んだのである。彼のその後の人生を築く基礎は、こんな困窮の中で培った山のような読書ではなかったか。そうした読書遍歴の一端が、先の日記の折々で報告されるのであるが、漢書を含めた東西の文学書にくわえて学業である医学の専門書も、当然入っている。そこで、ある評者は風太郎を評して、当時、彼は書物を食べていた、それは驚くほど食い合わせの悪いものであったろう、と呆れたほどである。その事を彼の日記はまざまざと教えてくれる。

    私は、そんな彼と比べようなどと思うほどバカではない。それにしても、上には上があるもので、何事にせよ、自惚れるようなことがあってはならぬ、さもなくば大恥をかくと肝に銘ずる次第である。同時に、俺はオレ、この己をそれとして受け入れ、自分のなしうる事を為すことで良しとしようと、改めてわが身に言い聞かせているところでもある(この項終わり。いずれ、上記のような選書になった次第を述べる時もあろう)。

  • 5月29日・月曜日。快晴、初夏の日差し(前回の文章やや手直し)。

    今年も今日で五か月を終える。そこで、我が恥を晒すようで躊躇いもあるが、今後の話の都合も有って、この五か月間に読んだ書籍一覧を掲げてみよう。その際、大著、小著、難易度に関わらず、一冊は一冊として数えてみると、24冊であり、あと残りの二日で何とか一冊を加えて25冊とする。月平均五冊。いかに多忙とは言え、誠に情けない。

    あらかじめ、私の一日を簡単に。一日の始まりは起床から。これは誰でも同じ事乍ら、私の場合は不規則極まりなし。不規則が規則となっている。大学やその他やむを得ない用事で強要されない限り、昼か一時半頃のお目覚めである。就寝はだから深夜の二時、三時は毎度のことで、しばしば明け方となる。当然、睡眠の質は悪く、しばしば昼寝となる。こんな生活を知る後輩の元同僚は、言ったものだ。「年寄りは自然と早寝早起きになるのに。先生は若い。自分は十時過ぎると、もう眠い」。これに対して、すかさず言ってやった。「お前は、ダラクしたのだ」。そして、朝食なのか昼食なのか分からぬ第一回目の食事をもって、一日は厳かに始まる。

    義務的な外出のない限りは、ほぼ春日部に蟄居し、他にヤルこともないため本を読む。仕事場はあったが、現在は長男に明け渡し、自宅の書斎(?)も居心地が悪く、という言い訳のもと、近所のロイヤルホストが我が書斎、というか仕事場である。行けば、五、六時間は過ごし、いつだったか支店長が私に、「お客さんは私以上に出店率が高いですね」ときた。これは褒められたのか、呆れられたのか、今以て判然としない。それともう一つの仕事場。ナガーイ電車の中である。だが、最近それは睡眠の場に変わりつつある。

    こうした枠組み、体制でなされる読書に、どれだけの集中力が注がれ、こんなことで果たして深い理解が得られるものか、有体にいえば、これはもうただ活字を追うだけの、自己満足の所業でしかあるまい。が、ともあれ、そうして読まれた書籍のリストが以下である(以下次回)。

  • 5月17日・水曜日。曇り。今月末をもって、大学監事としての職務、ようやく一年となる。長かったような、短いような。これがあと三年続く。

    5月24日・水曜日。曇り。少々、蒸す。このところ前年度の監査及び新年度の予算編成等に関わり、監事の業務も中々多忙であった(本日は前回の文章の引継ぎ)。

    一方が日本中をうろつき回れば、他方は世界中を飛び回って、いずれも疲れを知らなかった。しかし、その彼らの寿命は、今で言えば、短命であった。檀は肺癌により64歳、開高は食道癌で58歳の命であった。むしろ、あれだけのことをして、よくぞそこまで生きたと言ってやりたい。やはり彼らは、「健康過剰」だったのだ。

    だが、長命なんぞは両者にとってドウでも良かった。彼らが命の短さを嘆きながら逝ったとは、とても思えない。全てを覚悟の上で、思ったことを思ったとおりにやり抜いて、生き死んでいったのだと、私は思いたい。「人生一期、ただ狂え」と歌うようにして生き抜いたのは、あの団 鬼六であったが、この点では彼らも団に後れを取るものではなかった。もっとも、こう断言する理由を、私は一切持ってはいないのだが。

    私は自分が蒲柳の質とも言うべき体質ゆえか、檀や開高のような人を見ると、やたら感心する向きがある。しかしそれは、ただ彼らが健康、頑健だからだ、と言うのとは大分違う。殺しても死なない、という人間はどこにでもいるだろう。そうではなく、私が恐れ入るのは、多分、彼らが「健康過剰」を元手に、周囲の心配、迷惑を物ともせず、自分の追い求めたものにマッシグラニ突き進む生き様なのだろう。開高の『ベトナム戦記』(朝日文庫1965)はその格好の例である。女房が言ったように、彼がこれに首を突っ込もうが、突込むまいが、大勢にはまるで関係ないどころか迷惑になるところを、米軍将校にわざわざ頼み込んで、朝日のカメラマンと共に戦闘地の真っただ中となっているジャングルに潜入し、ベトコンの機銃掃射に追いまくられ、果ては遺書まで書く始末であった。何日か消息は絶たれ、「開高氏ベトナムで戦死か」との報道が流れた程である。家族の心配、如何ばかりであったろう。

    ここまで書いてきてフト思う。これは戦後直後の混乱期に無頼派と呼ばれた一群の作家たちに一脈通ずるものがあり、私はそこに共感しているのかも知れない。確かに檀 一雄はその一人であり、また友人太宰は無頼派の由来を、権力や束縛に反抗する「リベルタン」にあり、と言っていたように思う(『パンドラの匣』・河北新報社1946)。

    しかし、それにもかかわらず、この見方は私の意に満たない。そんな風に言ってしまっては、無頼が反権力という裃をまとい、居住まいを正して、正当化される。これでは、先の「ただ狂え」ということにはならない。たしかに開高には、反権力的な姿勢が強く、だから一時期左翼的作家とみられ、ある筋からは敬遠されたようだが、私にとっての彼の魅力はそんなところにあるのではない。『日本三文オペラ』(新潮文庫1971)が織り成す猥雑で騒々しい世界はどうか。ここでは、戦後直後の大阪のかなり大きなばた屋部落と思しき地区において(彼自身、取材のために、どれくらいだか、彼らと生活を共にしたようだ)、その住民たちと官憲が、近くの広大な兵器工場跡に埋蔵された鉄屑をめぐって、毎夜繰り広げる争奪戦の死闘が展開されているが、その大真面目で、バカバカしい人間の可笑しみと哀れさ、逞しさが実に面白い。

    かつて私も何かの「主義主張」に憧れ、我が生活を律しなければ、と健気に考えた時期もあった。が、いまこの歳になって思うには、自分も何かに縛られる事なく、世界を飛び回り、勝手放題のバカバカしい人生(もっとも我が人生が愚かでなかった分けではない、どころか十分バカバカしいものであったのだが)は面白かっただろうナ、しかしそうするには、自分にはそのための体力、精神力、何より覚悟において著しく欠けるものがあった、と諦める他はないのである(この項終わり)。

  • 5月2日・火曜日。五月晴れ。先週、萌黄色の欅は早や深緑に。

    すでに言ったことかもしれないが、私はそれほど健康ではない。たしか『火宅の人』の中で、檀 一雄が自分を健康過剰と言っていたのを読んで、そんな言葉があるのかと訝りながら、同時に羨ましい人だとつくづく思った。その言葉のとおり、彼は家庭を打ち捨て、愛人に溺れ、浴びるように酒を飲み、太宰や安吾と遊び呆ける生活(?)をおくって斃れることも無かった。自ら包丁をとるほど食にうるさく、料理に関する多くの著書を残した。しかも頑健さは肉体だけではない。口述筆記の手当てが付かなくなると、粗略の限りを尽くしている女房に頼み込むという豪胆さである。これはもう、並の男の成しうることではない。これには私も脱帽し、ただ感嘆した。「ソウカ、オヌシ、ソコマデヤルカ!」。

    私の好きな作家に開高 健がいる。彼もまた檀流に言えば、健康過剰でどこまでホントの話かは知らないが、平野 健あたりから女の扱いについて訊かれるくらいで、その道の達人であったことは間違いなかろう。それでも今西錦司には性病予防の丸薬を突きつけられ、「なんだ、こんなことも知らないのか」と一喝されて、ここはアフリカの奥地ではないし、京都なモンで、と力なくうなだれる他なかったようだが(『人とこの世界』ちくま文庫、2009)。

    彼の健啖ぶりは人の知るところである。『夏の闇』(新潮社文庫、19972)の中で、恋人から、貴方は汚穢趣味だから、と呆れられるような主人公を描くが、その通り、彼は東南アジアのごみ溜めのような場末に入り込んで、そんな不潔をものともせず、そこでの粥が好物であった。『オーパー』を読む者は、アラスカから南米の突端に至る釣りの大旅行に圧倒されるだろう。酒については何も言うまい。何しろ45度の酒が水っぽいと言うほどの御仁だからだ。

    そして、家庭を顧みること皆無であったことも、人後に落ちなかった。だからホントに久しぶりに、家族揃っての会食後、レストランから帰って、一人書斎でご満悦のところ女房、娘が入ってきて、「あたし達を母子家庭のようにほっぽり出して、何処にいるんだか、生きているやら、死んだものやら、散々心配させて。マッタク。世界が一人でどうなるものでも無いのに。このバカヤロウ」と、耳元で痛烈な一声を浴びせられたのであった(『耳の物語』文庫ぎんが堂、2010)(本日はここまで)。