• 2月14日・金曜日。曇り。バレンタインデーとは言え、我が昔日の華やかさは最早なし。今さらそれを嘆く歳でもないが、南極の気温が本日20度Cと聞いては、地球の存続を真に憂うる。先行きの艱難をジッと考えれば、恐るべきものがある。

     

    この所、都市と地方の関係は一枚のコインの表裏のようであり、一方の発展は他方の衰退を来たし、両者が補完して共々に成長して行けるようにはとても見えない、その様な経過を見てきた。しかも都市が大規模になるにつれて地方の疲弊は甚大化する。だが、都市と地方のそうした対立的な関係は本質的であり、これは逃れられない必然なのか。或いはそれは、ある一点を超えた結果であるのか。これは別途検討されなければならない問題であろうが、以下ではそれに立ち入る前に、多くは都市内に生じている、これまた深刻で何とも言ようの無い問題を見ておきたい。

    題して『宅地崩壊 なぜ都市で土砂災害が起こるのか』(釜井俊孝著・NHK出版新書・2019)である。本書は実に恐ろしい衝撃的な本である。自ら住まう建物がある日突然、土台もろとも崩落すると言うのである。その契機は様々ある。多くは地震や豪雨が引き金になるのであろうが、しかし宅地までもが崩壊すると言うには、それ固有の原因が無ければならない。それは何か。その理由を知ればこそ、またもやわれわれの都市造りが関係しているらしい事に慄然とさせられるのである(以下次回)。

  • 2月5日・水曜日。晴れ。早や風緩む。立春のゆえと言うより、暖冬異変の現れの一つに過ぎまい。今夏の猛暑ぶりが今から思いやられる。風邪のぶり返しに苦しみ、一週間。と言って、病院に行けば、コロナウィルスにやられそうで、ただ家で咳き込むばかり。今日は峠を越えたのか、かなり楽になった。

    2月12日・水曜日。晴れ。いまだ、寒い日はこたえ、咳込む日もある。慣れぬマスクが外せず、鬱陶しいこと限りなし。

     

    わが国の再生エネルギー資源は必ずしも不足している訳ではない。むしろバイオマス、波力、地熱と言った多様な資源に恵まれているようでもある。ただ、立地の問題やコスト、エネルギー伝達手段の脆弱性等により、現在の所はどうしても太陽光、風力に偏ってしまうらしい。それが大玉村の問題を生んだ一因でもあろう。

    しかも太陽光パネルの技術は中国、ヨーロッパに遅れを取り、「それが今後の大きな課題である」と前回の記事は言う。市場は外国勢に席巻され、国内のパネル製造業者の多くが破産に追い込まれているのが現状である。だが、わが国はかつて、この分野では世界をリードする技術力を誇ったのではなかったか。そして、もしそのまま技術開発が進み、他資源に対しても効率性の良い技術や対策を探り出す方向で研究が進められていれば、大玉村のような問題は回避とは言わないまでも、緩和されていたのではなかったか。

    なぜこんな事になったのか、この問題はわが能力に余り、とても立ち入る事は出来ない。ただ一言、いまだに原子力開発への執着とその温存を第一とする国家政策と、それゆえ税制、法律、その他各種の手厚い保護政策に支えられて、この国策に乗った電力会社の巨大な原発投資とが一体となり、さらにはそれに関わる多種多様で膨大な組織・機関の利害が重なって、原子力以外の電力エネルギーの開発を阻止し、封圧してしまったのではないかと言って置きたい。記事にもそれを匂わす言葉があるが、それ以上にここでは上の問題を、政財官学の錯綜した権力関係を見据えつつ解きほぐした、上川龍之進『電力と政治』(上・下・勁草書房・2018)を挙げておこう。

    ただ、こう言ったからといって、大玉村はじめ他の市町村が直面するこの種の問題を正しく捉えた事にはならないだろう。ここで問われているのは、こうである。国が破れてもなお残るとされた「山河」が、破れもせぬまま無惨に毀損され続けなければならない理由とは、一体何か、これである。河を穿ち、山を削り、さらには山上にまで這い上がるほどの、大量のパネル群や風車が何故必要なのか。それだけのエネルギー需要があるからである。何処に。大都会にである。

    大都会はまさに、近隣から「人・モノ・カネ」に加え「水や土さらに景観」まで根こそぎ呑込むブラックホールと化し、周辺地域を疲弊へと追い込み、今やそれに止まらず大都会自身が自らの巨大化を支えられず呻吟し始めつつあるように見えるではないか。現在目の当たりにしている、新型コロナウィルスの蔓延とたかがマスクの不足に混乱するその姿は予兆的であろう。エネルギーは元より、飲料水、食糧、医療品のいずれか一つが不足すればがどうなろう。また、それらの輸送路の断絶を想起してみよ。されば、大都会の生活は無数の網目に支えられ、その一点の破綻でさえ混乱に陥ると言う、いかに脆弱な基盤の上にあるかが分かろうと言うものである。

    今やわれわれは、事態の深刻さを直視しなければならない時にあるのではないか。全ての機能が集中し、それらを支えるためには、巨大装置群が不可欠となり、それを維持し更新するためだけでも途方もない努力を必要とする都市の在り方を改めて、地方分散型の国造りへと舵をきるべき段階にいたったと、痛切に思うがいかがか(この項終わり)。

  • 1月23日・木曜日。小雨。やや寒し。

    1月31日・金曜日。晴れ。今週は寒さと疲労が重なり、風邪気味。よって一日置きに寝込む。本日、不承不承、マスクを着用するが、コロナウィルス感染を恐れたと言うよりも、ウッカリ咳き込めば周りの刺すような視線が面倒ゆえである。それにしても伺いたい。マスクにそれ程の予防能力があるのか。電子顕微鏡レヴェルでしか捉えられないウィルスをマスクが防御できるとは、中々信じ難い。事実、それに近いことを言う研究者の言もある。だからか、ヨーロッパ人はマスクを着用しなければならないほどの容態であれば、まずは家で静養し、外出するな、となるらしい。国民の大半が顔半分を隠して市中を往来する姿は、彼らにとって一奇観であるとは、大分以前に読んだ米紙にある。つまり、これは信仰の問題に近いが、ならばそれを信ずるものはつければ良いが、その信仰を押し付けないでほしいという事である。

     

    これまで都市の発展とその裏側で進行する地方の疲弊を、あれこれ垣間見てきたが、今これを一言で言えば、都市に潜む巨大な富、成功のチャンスが地方から先ずは人を奪い、次いで「モノ・カネ」の全てを吸引する都市の「巨大なサイフォン」機能である。その威力はすでに見たように、単なるモノに留まらず、郷土の土台である「土や砕石」を剥ぎ取り、安価な外国産の材木輸入のために豊かな森林を惜しげもなく遺棄し、その結果水資源や国土の保全を危うくさせる。それほどの破壊力である。のみならず、今や国土の景観そのものまでも変貌させると言うのである。しかもそれは、戦争の破壊によってではなく、促そくと迫る経済開発の結果としてなのである。

    「日本で最も美しい村」の一村として讃えられる大玉村(福島県)は、世界に先駆けて世界遺産に登録されたペルー・マチュピチュ村との友好都市を結んだ事で知られるが(2015)、その村が昨年、「大規模なる太陽光発電施設の設置は望まず」とする「宣言」を発せざるを得ないほどに追い込まれてしまった(The Japan Times Sun.Jan.19,2020)。

    断っておくが、当村は太陽光や風力等の再生可能なエネルギーの使用に反対なのではない。むしろ各家庭に対し積極的にこれを推奨してきた村である

    だが、これはどうか。牧草地や豊かな水田、青々とした森林に囲まれた、文字通り名画に見るような牧歌的な田園地帯に、平野と言わず、山と言わず、黒灰色の広大なソーラーパネル群が侵略、侵入して、その景観を徐々に、しかし確実に呑み込みはじめてしまった。こうした事態は、確かにこの国が初めて直面する大きな「挑戦」である。しかもそれは当地に留め置かれるような事ではなく、事情が許せば「砕石・砂」の採掘と同様、全国的に起こりうることだからである。こうして、当村の住民たちが懸念する豊かな景観を子孫たちに受け渡すことが不可能になるであろう。それで良いのか。これが住民たちの心配であった。

    こんな事が起こったのは、3.11の巨大地震によって福島原発が破壊され、代わって再生エネルギー源の一つとしてソーラーパネルが見直され、これに政府の助成金や税制上の優遇政策が導入されたからであった。かくて開発業者をはじめその従事者たちの大挙した流入が起こったのである(以下次回)。

  • 1月14日・火曜日。晴れ。年改まり、早や半月。

    1月21日・火曜日。晴れ。寒風やや強し。

     

    前便では、山梨県の山中で目の当たりにする、無惨に抉り取られた「山川」の「真に荒涼とした」姿にたじろぐ一読者が、これは都会の建築資材用の土砂を採取するためだと、瞬時に了解された体験談を紹介したが、こうした事はなにも千葉や山梨に限ったことでは無いだろう。骨材として良質な土砂や砕石に恵まれ、都市への運搬が可能であれば、日本中どこでも起こり得るし、事実、それは発生していたのである。その詳細は佐久間前掲書にゆずるが、ここではその一例として京都府城陽市の場合を示しておきたい。荒れ果てた自然破壊に対して住民、市行政が一体となって挑戦し、何とか事態の改善に取り組む姿が、人をして勇気づけるからである。

    当市は「京阪神という大都会に山砂を二十年間にわたって供給してきた、いわば関西における君津市である」。市の後背地に当たる丘陵地帯の山砂は格好の獲物であった。その果てはどうなったか。「沿道には廃屋があり、小川の川底が上がり、赤く変色しているのは君津と同じであった。採取跡地やヘドロ池が至る所にあり、吹き荒れた開発の嵐の結末を見せつけていた。深さが百メートルもありそうな採掘穴には驚いた。その穴は山イモを掘った跡のように深く抉られており、穴の底でパワー・シャベルを動かした作業員の身の上があわれであった。どこかが崩落すれば生き埋めになるのは、誰が見ても明らかで、現に崩落の跡があちこちに見られた。地獄を覗き込むようなおそろしさであった。

    「その穴の傍らには百メートルはあるヘドロ池の堰堤が続いており、その中間あたりから下は、水位を示すように水が滲み出しており、堰堤の色が変わっていた。いつ決壊してもおかしくはない、と市職員は言う。市では、あちこちにあるこの採掘穴の処分に頭を痛めている」(前掲書、179-80頁)。

    採掘の最盛期には一日6千台ものダンプが細い山道を疾駆し、道路を抉り、晴れれば砂塵、降れば泥道の中、小中学生の通学は常に危険と背中合わせであった。四六時中の地響きと砂ぼこりは安眠障害を来たし、入院を余儀なくされる住民たちが出てくる。行商人や新聞配達から見放され、タクシーは寄り付かず、日用品の購入はもちろん、急患の搬送もままならない。

    かくて当市の住民たちは、こうした「人権侵害」、生活破壊の惨状を京都法務局に訴え出るのである(昭和42年)。また、同年、4月、7月には採取場からの泥水が70戸の住宅を襲って、被害総額推定13億円の損害を与えたとして、大阪通産局に対し、砂利採取法第九条にある「公益の保護」を業者に遵守させるよう要請したが、通産局は「法に違反しないので命令はできないし、罰することもできない」とニベもない回答である。当時、30社に及ぶ採取業者が勝手気ままな採掘に専心できたのも、こうした無規制、無統制な背景があったからこそであろう。

    だがこれを黙過すれば、住民の生命・財産は破壊されるばかりである。かくて住民、町が一体となった一大住民運動が展開され、「山砂利公害絶滅町民会議」として結実する。町会議員は街頭に飛び出し危機を訴え、一戸百円のカンパは総額52万円の資金を生み、1万4千名の署名が集まった。これを基に、百名の陳情団が結成され、「10月11日、76歳を筆頭に老若男女100名が、タスキ、ハチマキ姿で夜行バス2台に分乗し、東京に向かった」。要求項目は砂利採取法改正、13億円の国による損害賠償、ダンプカー規制強化などを中心に、通産省他7箇所を陳情し、実情を訴える。この運動は全国的に報道され、各自治体にも大きな影響を与えた。さらには、衆参両院議員などが次々現地調査に入ることになり、陳情は成功した。

    当時の町長であった島利一氏は述懐する。「こうした山砂利の闘いの経験によって、町民自身が自分たちの団結の偉大さを学び、自分たちの暮らしは自分たちで守るのだという自治意識を持つようになったのです。そして、政治の不合理さは、住民運動の力で変えさせていくことに確信を深めたのです。それ以後、住民要求は非常に多く出されるようになった…」(182頁)。

    まさに試練が人を、組織を鍛え上げると言う見本ともいうべき事例であろう。またそれ以後、各市町村、警察は条例、法令を見直し、生活権の保全、保護の対策を強化しつつあるようであるが、しかし他方で少しでも油断し、気を抜けば常に法の盲点をついた脱法行為は復活し、一つの決着は決して最終的な解決に至らないことを本書は教えているのである(この項、終わり)。

  • 令和2年 1月9日・木曜日。晴れ。

    先ずは、年頭のご挨拶を申し上げます。明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。私事ですが、今年の賀状にはこんな一文を添えてみました。お蔭様をもって、クリエイト社の我が「ブログ「金子光男の手紙」も、時に読者からの励ましに支えられ、更新中です。しかし、今年「喜寿」の身。あれこれ手当や修繕の欠かせぬ歳となりました。

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    頂戴した賀状には、「手紙」を楽しみにしているとの添え書きがしばしば見られ、これが筆者を大いに喜ばせ、かつは勇気づけられました。さらに、印刷媒体では味わえない著者と読者との、同時的な双方向によるやり取りの醍醐味を教えられました。例えば、かつて山梨に赴任していたある読者の生々しい体験談です。「生まれてはじめて、河原をけずり、山をくずし、土砂を生みだす光景を目にしました。けずられた山川の姿は、衝撃的に恐ろしく、真に荒涼としたものでした。これで日本の建物をつくっているんだ、ここから建築資材として各地に運ぶんだ、このような山がちな所から、と瞬時に分かりました。それが20年以上前のことです…」。筆者の、ただ活字を介して知ったに過ぎない知識は、こうして実体験として裏付けられたのです。

    さて、喜寿を迎えたわが体調は、昨年末の久しぶりの入院加療という文字通りの「大修繕」(ある賀状より)の甲斐もあって、本日ここに目出度く仕事初めが出来るまでに回復し、ここ当分は恙なく(と期待する)仕事に、遊び(⁈)に邁進できそうと、意を新たにしているところです。と言う次第ですので、改めまして、本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。