• 12月4日・金曜日。晴れ。

     

    前回書き落として、そうだアレもと気づいた事、自慢がてらにここで添えておきたい。先月11月一杯をかけて歩いた我が総歩数は、締めて306,066歩、一日平均にして10,202歩となる。これは喜寿を越えた身としては、一大快挙と申し上げたい。一日でも休めば、これは不可能となる数字である。毎日コンスタントに一万歩近辺を維持しながら、一か月を続けるには、体力、気力、天候、時間等の条件に恵まれなければまず無理である。因みに、当月の最低歩数は5,282歩、最高は15,312歩であった。

    今年は二回目の達成である。8月であったと思う。コロナと熱帯夜に苦しむ最中、夜間22時頃から歩き出し、まるで人気のない、ひっそりとした春日部市内を当てどもなく彷徨う姿は、カメラに映せば、ほぼ狂人か不審者であったろう。そんな折であった。たまたま自宅付近に停車していたパトカーが筆者を見とがめ、こちらもワザとこれを避けるような素振りで、進行方向を変えたから、たまらない。スワとばかり、サイレンこそ鳴らさなかったが、追いかけられた。これが過日、パトカーにつけ狙われた、と記した顛末である。そう言えば、かつて山田風太郎が、深夜の二時頃、犬を連れて自宅近辺の聖蹟桜ヶ丘を散策していたら、パトカーに暫く注視され、まさか犬連れの泥棒もあるまいと見逃されたらしい、と書名は忘れたが、書いていた。やはり同氏もどこかヘンテコなところがあったようだ。

    ともあれ、当方としては、単なる暑気払いと運動不足の解消を兼ねた、夜ごとの散歩に過ぎないものが、治安当局としては「くせ者」と色めき立ったのもよく分かる。以来、自宅付近のパトカー駐車は見ないが、当局にはこの近辺に不審者ありとの記録が残されているやも知れない。中国政府であれば、間違いなくそうなるであろう。それにしても、何故あんなところにパトカーがいたのだろう。通報者でもいたのだろうか。考えてみれば、不思議である。

    本日は他に書くべきこともあったが、わが教え子(と言っても60歳近辺だが)に「一日平均一万歩達成」と配信し、事務所の連中にも自慢したところ、いたく感心されたような気分になって、ならばと閑話にふけった次第である(以下次回)。

  • 11月27日・金曜日。曇り。早稲田までの車中でこんな戯れ句(川柳のつもり)を捻った。

    コラコロナ 窓を降ろして 風邪を引き ミツオ

    GoToの 面子にこだわり 院潰し  ミツオ

    12月2日・水曜日。雨。ついに師走。3、4年ぶりに路上の易者さんに手を差し出した。定期的にそんな気持ちになる。悟った心算で、何かに縋りたいオノレが情けない。そして、ご託宣。「あなたは株には向きません。地道におやりなさい。」道理で損ばかしして来たはずだと、妙に得心する。易には、我が体験では、嘘八百ではないある信憑性がある、と思う。見料、2000円なり。

     

    「大きなお星さまあるねぇ」とは、前回の記事にある2歳の男の子の呟きである。これまでは、都内の駅前タワーマンションに住み、ネオンや街灯のともる街の明るさしか知らなかった。それが一転する。赤城山のふもとに位置する、黒保根町(桐生市)の水田に囲まれた平屋に移り住むことになった、その当日の夕刻である。ふと見上げれば、青みがかった天上にははや一番星が浮きあがり、次第にその数を増す煌めく星の大きさに思わず見惚れた。夜空とはこういうものであったかと、感嘆したのであろう。その詩情は天空の星々と語り合った賢治のそれに繋がるものがあったのかも知れない。それまで「長男が「星を見た」なんて語ったことはなかった」とは、父親の言葉である。

    コロナ禍にあって、幸いにも若い両親は共にテレワークの可能な職にあった。だが、その在宅勤務中には、長男は玩具代わりのタブレット端末を相手に、一人動画を追い続けるばかりであった。転居の転機はこれである。「移住の決め手は子育て。息子は図鑑や動画でしか見たことがなかったトンボやカエルを追いかけ、家のまわりの田んぼで取れた新米のおにぎりをよく食べる」。

    群馬県は、こうした移住を考える家族の後押しをと、「リモート県」を銘打ち、テレワークのできる環境づくりに動き出したようだ。と言って、転居がそれほど簡単でないことも確かである。そのためには、相互に納得できる条件が整わなければならない。それでも、記事によれば、東京への転入者から他県への転出者を差し引いた人数は、今年5月、9年ぶりにマイナスに転じ、その数509人を示す。さらに7,8,9月も引き続き、それぞれ2千から4千人の転出者オーバーであったと言う。

    言うまでもなく、コロナ感染の影響である。だが、大都会から地方への転出のメリットとは何だろう。月並みだが、上記のように圧倒的な自然環境がまず挙げられよう。過密を避け、様々なストレスから解放される。ときに過酷な自然に煽られながら、それ以上の慰楽がある。さらに、現在では衣食住の生活環境は、ひと頃からは格段に改善され、情報、医療、教育関連もIT・交通等により格差は縮小しつつある。過疎ゆえの居住環境は都心とは比較にならない。安価で、広い。これは、わが国ばかりか欧米の傾向でもあり、それゆえの地方転居も多いらしい。

    唯一の難問は、経済格差と富の都心への偏在だろう。この解消を図る政策こそ、腹を据え、真剣に取り組んでいかなければなるまい。それは言うまでもなく、本欄でも見てきた地方再生への取り組みとその政策化に他ならない。それは同時に、コロナや未知の疫病からの有効な回避策になると信ずる。この度のコロナ禍がもたらした惨状に少なからぬ意味があるとすれば、これによって地方回帰への契機が与えられたことかもしれない。記事は言う。「一極集中の解消は、地球環境と経済活動の調和をめざすSDGs(持続可能な開発目標)が掲げる「住み続けられるまちに暮らし、働きがいのある仕事に就く」の実現に向けて、追い風になりそうだ」(以下次回)。

  • 11月25日・水曜日。雨。コロナ感染第三波、列島を覆う。医療体制の維持か経済の活性化か。政策のバランスをどう取るか。誠に難問である。安倍事務所の問題、噴き出る。それにしても、総理辞職を待ったかのような捜査、あるいは情報リークをどう理解すべきだろう。これでは、権力にある間、捜査は免れる。ならば権力者は、死に果てるまで権力を手放すべきではない、と考えないだろうか。

     

    現在のコロナ禍があぶり出した、我われの社会に根ざす様々な脆弱性は、これまで本欄において筆者なりに明らかにして来たつもりだが、ここでは「東京一極集中から地方への分散」の問題を考えてみたい。これは「社会のたたみ方」なる本欄の中心課題につながる問題だからである。

    読者はもうお忘れかも知れないが、一昨年来からここで考えようとしている問題は、地方社会の疲弊を解き明かし、その再生をどう図るかである。その為にはまずは地方行政の能力に余る行政区の拡散をおし留め、こうしてコンパクト化した地方社会を相互に連合させて、東京初め大都市圏に依存しない地域社会を創生できないかということであった。これを筆者は「社会のたたみ方」と呼んだのである。

    このような発想から出発した論議であったが、すでに二年余りの時を経、時々の社会問題にも振り回されている内に、足取りは誠に覚束ないことになってしまった。だが、ここでの趣旨はそう言うことであった、と申し上げておく。

    では、地方の疲弊とは、何だろう。その第一は人口の減少である。その原因は幾つもあろうが、この事に尽きる。しかし今や潮目は、変わった。コロナ禍によって、都市住民が脱出し始めたからである。しかもこの流れは、わが国ばかりか世界的潮流となったらしい。「東京脱出 コロナ下の地方移住」、「脱・人口集中 コロナで世界転機」と、朝日新聞(11/23・月)が大きく伝えるところである(以下次回)。

  • 11月16日・月曜日。晴れ。先週1週間を、休載とした。歯の故障により、離乳食風、介護食風の粥に類した食事には大いにマイッタ。いずれそんな時のための準備と覚悟だと、天は我に強いられたのであろうか。それにしても、週2,3日、こうして出かけられることの、有難さを思う。

    11月18日・水曜日。晴れ。本日は前回の文章に若干手を入れたに留む。かくて文意は通じ易くなったと、自ら慰める。

    なお、先日、朝日・夕刊(11/13・金)に無気味な記事を読む。25年前(1995年3月)、オウム真理教が犯した地下鉄サリン事件について、オウムの後継団体「アレフ」は、当事件は「教団以外の者による陰謀」だと主張し、インターネット上に「CIAのでっち上げた事件ではないか」と喧伝しているとの事である。この恐ろしさは、この種の虚偽の言説が時と共に捻じ曲げられ、事件を知らない若者たちがこれを信じて、再びカルト教団の復活を予感させることである。たったの25年間での捏造が、かくも容易となれば、百年前の事件はどうなるのであろう。好き勝手な改造、捏造など思いのままではないか。

    以上は、公文書その他記録文書類の保存、収集が如何に重要であるかを改めて警告している。とすれば、昨今の役所の公文書その他の管理の杜撰さに対し、国民は一層注視していかなければならないはずだ。

     

    さきの「二つの国」は、米国だけの事ではない。日本、ヨーロッパ、中国、韓国等は、いずれも同様の問題を抱えているのではないか。グローバル化により、国内にあった製造業はより安価な労働力や生産の適地を求めて諸国へ移転し、同時に資本と技術も引き抜かれ、国内産業は空洞化せざるを得ない。それは当然、関連する国内の膨大な下請け業者や商業施設を衰退させ、これは一国全体に波及する。それにしても、「日本製鉄 呉製鉄所を閉鎖へ」(朝日新聞‘20,2/7)の記事は衝撃的であった。さらに同社はこれに留まらず、非効率な製鉄所の閉鎖も次々計画しているようであり、これがかつて「鉄は国家なり」と謳歌した、わが国の製鉄業の現在である。まさに、ラストベルトは米国だけの話ではないのである。

    しかも、そのグローバル化の密度は途方もない。例えば自動車生産は移転先の工場で一貫して生産され、完結するのではない。ある部品はA国、原料はB国からというように、細分化と共に特化され、網目のようにくみ上げられたグローバルなサプライチェーンが成立しているのである。であれば、今般のコロナ禍や大規模な自然災害が起これば、その国から供給されるはずの部品が途絶え、日本国内での生産が中止に追い込まれることもあったと言う。それ故、日本政府は、現在中国に集中しすぎている生産拠点の分散化を、その政治リスクも考慮して検討しているとは、過日の報道にあるとおりである。

    こうした国外移転の産業とは反対に、通信・金融・証券・技術部門および、広告産業ほかの関連産業部門(但し金融部門は現下の低金利政策と融資先の縮小により低迷しているが)は高成長を享受し続け、それらが集中する大都市圏の商業圏は空前の繁栄を誇っている。東京に見る沿海諸都市部に展開される高層ビル群、マンション街はその象徴であろう。

    熱狂的なトランプ支持者たちの怒りは、一面もっともであり、よく分かるにしても、これをそのまま放置してはならない。分断された「二つの国」は是非にも繋げられなければならない。何ゆえにかくなったかを解き明かし、相互の理解を進める事であろう。それにしても、筆者は問いたい。国をここまで分断させたこれまでの米国政府の経済政策はどこまで真面であったのか。4年前、民主党は長年の熱烈な支持者から見捨てられる憂き目にあった。つまり、党は彼らの真の要望に向き合って来なかったのである。それを、今回どれ程回復したのであろうか。

    だが他方で、トランプ大統領はこの4年間で、両者の分断を埋める努力、政策をいか程進めてきたのであろうか。外交政策はさておき、国内の貧富の格差、人種差別、地球温暖化を放置し、むしろ分断を煽り、それを利用し、熱狂的な支持者たちを獲得してきたのではなかったか。彼の減税政策は富裕層に一層優位であり、貧困層にはさほどの恩恵にはならない。彼らには減税されるほどの所得が薄いからである。さらに各種の社会保障への攻撃は報道される限りでも目に余る。

    ともあれ、今や米国はじめ「二つの国」の分断に苦しむ諸国は、癒されなければならない。その第一は、経済格差の是正であり、米国に見る極端な貧富の解消ではないのか。その手掛かりは、まずは税制を見直し、累進課税による所得の再配分機能を再生させることだ。こうして政治的にも健全な中産階層が復活し、社会の安定性は増すことになるだろう(同様の見解として、デミン前掲書参照。また、少々ほめ過ぎだが、ジェスパー・コル(ジャパンタイムズ定期寄稿者)の論説・「米国、日本に学べ」(ジャパンタイムズ‘20、11/14)を挙げておく)(以下次回)。

  • 11月6日・金曜日。曇り。米大統領選、いまだ決着を見ず、それにつれ不穏な空気が醸成されつつある。だがここは米国の良識を信じ、事態の平穏な解決を祈る他はない。

     

    一昨日(11/4・水)の朝日新聞特集記事の中に、「進む分断 異なる意見の現実知って」と題する記事があり、小欄ながら、米国トランプ支持者の本音の一端に触れ、彼らの支持理由を簡潔に伝えている。

    ここで言う支持者とは、「ラストベルト」と称される中西部の、殊にオハイオ州の製鉄業労働者たちである。彼らは長年民主党支持者であった。だが、前回の大統領選以来、共和党と言うよりも、トランプ大統領支持者へと転換する。その理由は、彼らの次の不満の内に凝縮されていよう。「米国は二つの国でできている。カリフォルニア州の連中が荷下ろしする輸入品は、かつて俺たちが作っていたもの。俺たちの仕事を奪っていることに連中は気づいていない」。

    たしかに、現実に起こっていることは、その通りであろう。米国東西の二つの海岸線沿岸部では、輸出入の交易が栄え、大都市が続き、金融・不動産・技術・電子部門といった知識集約的な産業は天井知らずの成長を謳歌しながら、中西部の製鉄・自動車等の製造業は衰退の一途をたどる。しかもそれら製造業の多くは、安価な労働力と巨大な市場に惹かれて、中国他アジア地域へと移転してしまった。

    これぞ、政府の規制、介入は不要であり、唯一取るべき政策は国内の治安と戦争抑止に尽きると言わんばかりの、夜警国家的な新自由主義論に基づき、グローバル化を推進してきた経済政策の結果であり、成果である(P・デミン・栗林寛幸訳『なぜ中間層は没落したのか アメリカ二重経済のジレンマ』慶応義塾大学出版会・2020)。だがそれは、ラストベルト地帯の労働者から見れば、支持してきた民主党の裏切りであり、自分たちは見捨てられたとみたのもやむを得ない。これに対して、トランプ大統領は、明瞭に「アメリカファースト」を掲げ、国内に産業を呼び戻し、移民を遮断し、彼らの不満の解消に尽力したのであるから、揺るぎない支持を得たのも当然であったろう。

    なるほど歴史的な文脈を離れ、現状だけを切り取って見れば、彼らの失望と怒りはよく理解できる。それ故、冨永京子氏は先の特集記事で言う。「現実を見ると、自国優先の大統領を支持したい気持ちは上から目線で断罪できるものでは全くない」。確かに、その通りであろうが、ここには触れられていない他の側面もあり、それが大統領に対する支持以上の巨大な不満、批判として浮上しているのも現実である。まさにそれが「二つの国」米国の姿なのであろう(以下次回)。