• 2月3日・水曜日。晴れ。

    2月5日・金曜日。晴れ。本日は前回の文章に手を入れるにとどまる。なお、新型コロナウイルスについては、その実態はいまだ明確になっていないようで、その事は本欄でも折に触れて指摘してきたが、各国で種々の変異ウイルスが発見されるにいたっては、さらにその思いは強まる。つまり、この度の疫病は我われの想定する以上の難物であり、ワクチンの製造、接種ですべて決着がつく生易しいものでは無さそうだ、と改めて気を引き締めた方がよかろう。

     

    前回の文章を、ここで一言補足しておきたい。コロナ禍が無ければ、実習生のわが国への入国は問題なく、東北地方の人手不足も生じなかった。その限り、何も不都合は起こらなかった。だがコロナによって、彼らが来られなくなって見ると、これまで見えなかった問題が、一挙に噴き出した。当地は実習生の存在に如何に頼っていたかが、ハッキリしたからである。産業も街の存続までもが、彼ら次第と言うのであるから。そしてこれは、東北3県の問題であるばかりか、「日本の縮図」である、つまりわが国全体の事でもあると言うに至っては、実習生問題は改めて真剣に検討される必要があると言う他はない。

    まず、制度の問題がある。労働力は欲しいが、居つかれては困る。よって、滞在は短期間に限り、家族の帯同も禁止する。ここでは彼らの人権はもとより、最低賃金、損害・疾病保険と言った各種の保障が、法的・制度的に何処まで担保されているのか。違反者を訴え、損害を回復させる執行力はどうか。これらは、派遣労働者にも通ずる問題である。

    加えて、わが国の場合、実習生の募集の在り方が、強く指弾されなければならないだろう。他国は知らないが、ただ韓国では、政府が責任をもって彼らの受け入れを指導し、ブローカーの介入を阻止しているようだ。わが実習生は、日本での就業のために、すでにして自国の斡旋業者に百万円以上の借金を負わされるらしい。その返済のためにも、退社は出来ない。彼らはそうした事情に付け込まれ、日本での就業において、病気であれ、何であれ、雇主の無理難題にギリギリまで耐えざるを得ない状況にあると言う。この一事だけでも、筆者であれば、日本ではなく、韓国を選択する。何故、こんな事が起こっているのだろう。

    現在のわが国の産業構造は、もはや外国人労働者を抜きにしては存立しえないところまで来ている、と見てよいだろう。その事は、すでに本欄でも折にふれ見てきた。農漁業、製造業、建築、介護、各種サービス業等々である。しかも、この傾向は今後、強まりこそすれ、弱まることはあるまい。出生率の劇的な改善はまず見込みはなく、生産年齢者数の回復が不可能であるからだ(ついでに言えば、現政権が推進しようとする不妊治療の保険適用化が、少子化解消・人口増から生産年齢層の増加を目指すものだとすれば、それによる意味ある人口増は達せられない)。ならば日本は、外国人に就業の機会を与えてやっているのではない。今や、来てもらっているのである。我われはその事実をシカと見詰め、認めなければならない。

    であれば、わが国の外国人労働者(そして、非正規労働者も含む)について、制度的な抜本的見直しと、実行が必要であろう。この種の政策が誠実に取られなければ、経済的格差や身分的な差別が蔓延し、彼らの中に鬱屈した根深い不満をうみ、騒擾の温床になるのは避けがたい。こうして、日本社会は常にのっぴきならない混乱を恐れ、それだけ脆弱な国家になるだろう。これらの事態を回避しようとすれば、民族主義者や国粋主義者の意向がどうあれ、わが国は結局のところ多くの外国人と共生し、やがては移民国家・多民族国家として存続していく他はあるまい。我がこの予想は、恐らく的中するに違いない(この項、終わり)。

  • 1月27日・水曜日。晴れ。前回の文章、一箇所段落を組み替え、また若干手直しをした。

    1月29日・金曜日。晴れ。

     

    新聞の一面で、こんな見出しをいきなり眼にしたら、どんな印象を持たれよう。「実習生頼み 被災地に不安」、「「いないと街なくなる」定住には壁」(朝日新聞・令和3・1/25)。

    10年前の大震災によって壊滅的な被害を負った東北地方の被災地の現状である。ただでさえ人口減少に苦しむ中、いまだ震災とその後の復興も道半ばの只中にありながら、現在のコロナ禍がこれに追い打ちをかけてきた。このままでは産業の維持はおろか、地域の存続すら危ぶまれる状況に陥った。そんな苦境が眼前に迫る。宮城県知事の言葉は深刻である。「人口の減少は(津波被害にあった)沿岸部で最大の課題。新たな人に移り住んでもらうことは非常に重要」である。しかもこれは、ただ東北地方に限らず、大都市圏の恩恵に浴しえない列島の現状でもあるだろう。まさにそれは「日本全体の縮図でもある」のだ。

    記事によれば、わが国の生産年齢人口(15~64歳)はこの10年間で6%の減少であるのに対し(これ自体、大変な数だ)、被災3県(岩手、宮城、福島)では11%にも及ぶ。この落ち込みを埋めているのが、海外からの実習生たちなのである。例えば、三陸沿岸部の水産加工業者「かわむら」の場合、従業員300人の内、実習生が70人を占めると言う。この一事からも当地の人出不足の深刻さは明らかだが、現在のコロナ禍により彼ら実習生の入国がママならず、それによる経済の停滞は免れない。ちなみに、昨年6月時点での全国の実習生は約40万人と言われ、同様の問題は全国的であると言ってよかろう。

    以上は、コロナが惹き起こした一時的な人出不足に過ぎず、感染症の終了と共に解消される問題なのか。そうではない。今まで隠されていた実習生制度の欠陥が、現在のコロナ禍によって炙り出された事だと考えなければならない。すでに本欄でも触れたことだが(昨年12/7、9の欄参照)、多くの実習生が取得する「1号資格」の場合、5年間の滞在期間中に目指す技術を習得し、母国に帰国しなければならない。家族の帯同も許されていない。明け透けに言えば、本制度の真意は、移民は拒否して、労働力の不足は補いたい、そんな身勝手な趣旨であろう。

    これでは、彼らは日本に居つかない。石巻市のベトナム実習生の「次は、韓国に行きたい」との言葉は痛烈である。彼女は手取り12万円のうち2万円を手許に残し、あとは家族に送る。ここには来日のために借りた100万円の返済分も含まれる。最低賃金は韓国に比して高くもなければ、何より韓国では採用手続きはブローカーを排して、国が責任を持ち、これだけでも渡航準備費用は格段に違う。

    斉藤善久氏(神戸大・労働法)は言う。「日本は最低賃金の水準が先進国の中で低いうえ、政府が外国人を労働力の補填としか見ていない。このままでは、外国人から選ばれなくなる。…家族の帯同や長期の在留資格を広く認め、日本人と支え合って暮らせる社会をつくるべきだ」。先の「かわむら」の会長は現地の惨状を知るだけに、さらに深刻である。「外国人がいなくなれば街がなくなる。定住できるように見直すべきだ」。

    我われは何処か、思い上がっていないだろうか。公徳心の高さがコロナを抑え、わが技術力の水準は原子力を縦横に駆使でき(1/25)、また途上国の誰もが日本に憧れている。だから、来て良いと言えば、みんなやって来る。そんな思い上がりが、折角の実習生を殴りつけ、不要になればオッポリ出すことも平気なのであろう(12/7・9)。だが、そのツケはやがて高い支払いを求められることになるのではないか(この項、終わり)。

  • 1月15日・金曜日。曇り。

    1月20日・水曜日。晴れ。

    1月25日・月曜日。晴れ。

     

    世情は現在、コロナ感染対策で大わらわである。特に中央政府の対応が無惨である。結局、緊急事態宣言の発出に追い込まれてしまった。感染の急上昇を見るまでは、各知事や医師会、医療事業者からの切迫した要望があったにも関わらず、感染阻止の対策を取らず、GOTOキャンペーンに明け暮れた。まだ事態はそこまで行っていない、慎重に見極めて、と言っているうちの果てである。その間、死なずに済んだ命も失われた。コロナ以外の治療に手が回わらなくなったこともあると言う。揚げ句、政府が最も大事にしていた「経済」も殺してしまった。だが、こうした一連の深刻な事態を目の当たりにしてさえ、総理はこう答弁する。「根拠なき楽観論に立って対応が遅れたとは考えていない」(朝日新聞・令和3・1/21)。まさに、感染拡大はキャンペーン実施のせいでも無ければ、そも対策の遅れなど無いと言わんばかりである。では、感染の第三波は生じていない、と言われるのであろうか。

    ここで是非にも言っておきたい事がある。第二波から第三波にかけての中だるみの時期、政治は何をしていたのか。GOTOにかまけ、事態の注視と言いながら、時間を無為に過ごした。あの時すでに高潮の予兆はあり、それは欧米の感染状況からもハッキリしていた。スペイン風邪の事例に学べば、後発があるのは疑いなかった。であれば、その後の医療の逼迫に備え、なしうる準備、対策が取られるべきであったのである。その政治責任は厳しく問われなければならない。順天堂大学・掘賢教授(感染制御学)は言っている。「政府が手をこまねいているうちに感染爆発につながった…政治が科学的根拠を軽視し、経済優先へとかじを切ったことが事態を悪化させた。一方で、状況を深刻にとらえずに、飲食の機会を通じて感染を拡大させた国民の側にも原因の半分はある」(朝日新聞・令和3・1/15)。ただ、後段については、筆者には承服しがたい。政府の発したメッセージは中途半端で、条件付きの会食は推奨されていたようにも受け取られたからである。

    政治とは、選択であり、それに対する結果責任を引き受けることだと思う。これを基準にすれば、現政権の選択は間違った。普通、「命」を捨てても守るべき重要な対象など、そう有るものではあるまい。特に、平時にあっては考えられない。眼前で、病に倒れた人を見捨てて、カネ儲けに走る人たちがいることは認めても、それを政策目標にする政権は、民主主義社会では支持されえないであろう。

    なるほど、経済を殺せば、多くの人々が倒れる。それを救うために、経済を維持する。もっともな話である。だが、それが何故、旅行関係業者なのか。エッセンシャルワーカー、派遣社員、リモートワークに適さない人々に、どれだけ政治の目が届いているのか。GOTOには、総理にとって重要な政治家との関わりが取り沙汰されているだけに、何か如何わしさが感ぜられるのである。

    それ以上に大事なことがある。現下のコロナとの戦争に対する対策の問題である。現在、政府がようやく取り始めた、緊急事態の対策をきちんと採り、病勢が治まれば経済を開くと言う、メリハリのある対応をとる事、自治体首長に権限を委譲し、各地域の独自性を尊重すること、これに尽きる。これらは医学者、首長たちが口をそろえて主張していたことでもある。そもそも感染症を、中央が全国一律の規制で対応する等、土台無理な話だからである。ついでに、これを契機に地方再生への端緒が開かれたら何よりである。

    現在のコロナ禍は、幸いにも第一次大戦直後のスペイン風邪の流行時とは根本的に異なる、平時での感染症である。戦後の混乱時を免れてもいる。また、その後のわが国の医療や環境衛生、栄養状況、国民の教育水準等から見て、感染が長期にわたるとしても、きちんとした対策を採ればウイルスとの共生の道も開け、経済社会を大混乱に陥れるほどの惨害には至らないはずである。数々の感染症の歴史からも、そう判断して間違いではあるまい(山本太郎『感染症と文明―共生への道』岩波新書・2020参照)。

    そして、経済的規制のその間は、関連する業種、人々に対する十分の補償こそが第一の施策であろう。そうした財政的な余裕を持つために、財政赤字の解消等の政策を取ってこなかった咎めが、今問われているのである。仮に、財政赤字の拡大や財源不足の恐れから、上記の対策が採れない代わりに、罰則によって国民生活を規制しようとするならば、それこそ本末転倒である。国民は何のために税金を納め、各種の権限を政府に認めているのか。こうした緊急の事態に憂えることのないためではなかったのか。政府の結果責任はここにあるのである。

    それにしても第一波の頃、比較的軽微にやり過ごせた事に慢心したか、日本人の礼節と清潔好きがマスクの着用を呼び、世界に先駆けコロナを制した、と言った類いの妄言を弄したトップの政治家がいたが、愚かしい限りである。世界が苦悶する問題に、日本人だけが、何故に優越できると言うのであろう。それはあたかも、原発の危険を注視し、その回避に舵をきった欧州に対し、今なおこれを制御しうる技術として執着する我が政府・経済界のある種の優越意識につながるようにも思えて仕方がないのだが、これはただ筆者の妄言なのであろうか…。(この項、終わり)。

  • 令和3年・1月13日・水曜日。晴れ。

     

    明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

    さて、本日がわが仕事初めとは、まったく悠長な話ながら、出社のつもりで起き出すそばから、何やら悪寒がしたり、疲労があったりと、その都度支障が起き、やむなく本日が初日となった。幸い、今のところコロナの難からは免れている様子で、まずはご安心あれ。とこう申し上げるのは、本日、親しい友人から、新年になって「手紙」の更新がないが、大事ないかとのメールを受けたからでもある。

    わが体調の変容には、はっきりとした理由がある。自堕落な生活は変わらず、就寝、午前4時から6時頃、起床は13時から14時と、それはそれなり規則的なのだが、太陽とは疎遠な生活に加え、寒夜の運動(?)は続行中である。これでは、悪寒もあれば疲労も来ようと言うものである。ブログの読者からは、深夜の散策は危険ゆえ、お控えあれとの賀状を二三頂戴した始末である。これを旧同僚に言えば、まずは呆れられるか、世の中の迷惑だから止めろ、と言われるのがオチであろう。

    なお、先月12月の歩数記録は、総歩数315,581歩、一日平均10,180歩、最高15,349歩、最低5,217歩であった。11月に続く二か月連続の一日平均1万歩の達成である。これは筆者には大いなる慶事であり、年頭のご挨拶には誠にふさわしい事と、ここに謹んでご報告させていただいた次第である。

    因みに、今月の平均歩数は、本日現在7,064歩であり、今月の一万歩は早々に断念せざるを得ない。と言うよりも、この種の挑戦は、対社会的にはあまり評価される様子もなさそうなので、昨年をもって打ち切りとし、今年は少しく身にあった散策にしようと、目下思案中である。

     

    と、以上のような次第で新年を迎えました。後期高齢者と言われて久しい我が身とはいえ、今年は殊に気合を入れて、他の迷惑を顧みず、己の欲するままに振る舞い、コロナの年に対決して参る所存です。本年も旧年に変わらぬお付き合いを頂ければ幸いです(以下次回)。

  • 12月28日・月曜日。晴れ。

     

    ここに柳田の面白い文章を引いておこう。わが国の場合、「都市には外形上の障壁がなかったごとく、人の心も久しく下に行通って、町作りはすなわち昔から、農村の事業の一つであった。どこの国でも村は都市人口の補給所場、貯水池のごときものだと言われているが、我々のように短い歳月の間に、これほどたくさんの大小雑駁の都会を、産んだり育てたりした農民も珍し」く、だから少々の出来損ないがあるのも我慢することだ(30頁)。

    このように、都市は農民によって作られ、維持されるのだとすれば、何ゆえ都市は農村を軽んじ、また自分に都合よく利用するような気風が生じたのか。その理由は種々あろうが、先ずは都市の衣食住の問題がある。元々農民の子孫である住民には、殊に食糧の欠乏がいかなるものかはよく分かっており、しかも生産の場から離れ、もはや自らそれを調達しえないと言う、そうした不安感に常に苛まれてきた。その事が彼らを鍛えて、農村との駆け引きにおいて鋭敏にしていった。「町の住民の殊に敏捷で、百方手段を講じて田舎の産物を」、彼らに有利なように引き寄せ、それを政府も容認し、こうして「都市を本位とした資本組織」を発達させたのだと、柳田は言うのである(31頁以下)。古代ローマ帝国の統治では、都市住民に十分な食料と娯楽の提供が特に重視されたと言われるが、さもなければ暴動を惹き起こしかねなかったからである。ここには、統治上、同じ精神が認めらるのではないか。

    グローバル時代の現在、我われは以上のような問題からどれ程免れているであろうか。たしかに今の所、外貨は潤沢であり、また冷凍技術・輸送力等の技術進歩によって食料品はじめ生活必需品の多くを、難なく必要以上に輸入出来る時代である。しかし食糧安保が言われ、資源・環境問題が取り沙汰される現在である。止めどない経済開発も疑問視されてきているのである。

    このような時代にあって、わが国はこのまま世界に依存し続けることが可能なのであろうか。しかも大都市は肥大化する一方、これに反比例して地方は縮小し続け、その活力が枯渇する。この事は国や社会の存続を危くさせないのか、と深く危惧する。ましてや、都市とは常に地方の支えのもとに存立するのだとすれば、その地方の極度の疲弊は、都市そのものの否定につながるのではないのか。

     

    早々に書かれた文章ゆえ、瑕疵や不備も多かろうが、時間も尽きた。これを以って本年の仕事納めとさせて頂きたい。

    一年間のご支援に謝し、来年もまた宜しくお願い致します。良い年をお迎えください。