2021年1月15,20,25日

1月15日・金曜日。曇り。

1月20日・水曜日。晴れ。

1月25日・月曜日。晴れ。

 

世情は現在、コロナ感染対策で大わらわである。特に中央政府の対応が無惨である。結局、緊急事態宣言の発出に追い込まれてしまった。感染の急上昇を見るまでは、各知事や医師会、医療事業者からの切迫した要望があったにも関わらず、感染阻止の対策を取らず、GOTOキャンペーンに明け暮れた。まだ事態はそこまで行っていない、慎重に見極めて、と言っているうちの果てである。その間、死なずに済んだ命も失われた。コロナ以外の治療に手が回わらなくなったこともあると言う。揚げ句、政府が最も大事にしていた「経済」も殺してしまった。だが、こうした一連の深刻な事態を目の当たりにしてさえ、総理はこう答弁する。「根拠なき楽観論に立って対応が遅れたとは考えていない」(朝日新聞・令和3・1/21)。まさに、感染拡大はキャンペーン実施のせいでも無ければ、そも対策の遅れなど無いと言わんばかりである。では、感染の第三波は生じていない、と言われるのであろうか。

ここで是非にも言っておきたい事がある。第二波から第三波にかけての中だるみの時期、政治は何をしていたのか。GOTOにかまけ、事態の注視と言いながら、時間を無為に過ごした。あの時すでに高潮の予兆はあり、それは欧米の感染状況からもハッキリしていた。スペイン風邪の事例に学べば、後発があるのは疑いなかった。であれば、その後の医療の逼迫に備え、なしうる準備、対策が取られるべきであったのである。その政治責任は厳しく問われなければならない。順天堂大学・掘賢教授(感染制御学)は言っている。「政府が手をこまねいているうちに感染爆発につながった…政治が科学的根拠を軽視し、経済優先へとかじを切ったことが事態を悪化させた。一方で、状況を深刻にとらえずに、飲食の機会を通じて感染を拡大させた国民の側にも原因の半分はある」(朝日新聞・令和3・1/15)。ただ、後段については、筆者には承服しがたい。政府の発したメッセージは中途半端で、条件付きの会食は推奨されていたようにも受け取られたからである。

政治とは、選択であり、それに対する結果責任を引き受けることだと思う。これを基準にすれば、現政権の選択は間違った。普通、「命」を捨てても守るべき重要な対象など、そう有るものではあるまい。特に、平時にあっては考えられない。眼前で、病に倒れた人を見捨てて、カネ儲けに走る人たちがいることは認めても、それを政策目標にする政権は、民主主義社会では支持されえないであろう。

なるほど、経済を殺せば、多くの人々が倒れる。それを救うために、経済を維持する。もっともな話である。だが、それが何故、旅行関係業者なのか。エッセンシャルワーカー、派遣社員、リモートワークに適さない人々に、どれだけ政治の目が届いているのか。GOTOには、総理にとって重要な政治家との関わりが取り沙汰されているだけに、何か如何わしさが感ぜられるのである。

それ以上に大事なことがある。現下のコロナとの戦争に対する対策の問題である。現在、政府がようやく取り始めた、緊急事態の対策をきちんと採り、病勢が治まれば経済を開くと言う、メリハリのある対応をとる事、自治体首長に権限を委譲し、各地域の独自性を尊重すること、これに尽きる。これらは医学者、首長たちが口をそろえて主張していたことでもある。そもそも感染症を、中央が全国一律の規制で対応する等、土台無理な話だからである。ついでに、これを契機に地方再生への端緒が開かれたら何よりである。

現在のコロナ禍は、幸いにも第一次大戦直後のスペイン風邪の流行時とは根本的に異なる、平時での感染症である。戦後の混乱時を免れてもいる。また、その後のわが国の医療や環境衛生、栄養状況、国民の教育水準等から見て、感染が長期にわたるとしても、きちんとした対策を採ればウイルスとの共生の道も開け、経済社会を大混乱に陥れるほどの惨害には至らないはずである。数々の感染症の歴史からも、そう判断して間違いではあるまい(山本太郎『感染症と文明―共生への道』岩波新書・2020参照)。

そして、経済的規制のその間は、関連する業種、人々に対する十分の補償こそが第一の施策であろう。そうした財政的な余裕を持つために、財政赤字の解消等の政策を取ってこなかった咎めが、今問われているのである。仮に、財政赤字の拡大や財源不足の恐れから、上記の対策が採れない代わりに、罰則によって国民生活を規制しようとするならば、それこそ本末転倒である。国民は何のために税金を納め、各種の権限を政府に認めているのか。こうした緊急の事態に憂えることのないためではなかったのか。政府の結果責任はここにあるのである。

それにしても第一波の頃、比較的軽微にやり過ごせた事に慢心したか、日本人の礼節と清潔好きがマスクの着用を呼び、世界に先駆けコロナを制した、と言った類いの妄言を弄したトップの政治家がいたが、愚かしい限りである。世界が苦悶する問題に、日本人だけが、何故に優越できると言うのであろう。それはあたかも、原発の危険を注視し、その回避に舵をきった欧州に対し、今なおこれを制御しうる技術として執着する我が政府・経済界のある種の優越意識につながるようにも思えて仕方がないのだが、これはただ筆者の妄言なのであろうか…。(この項、終わり)。


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