• 4月5日・月曜日。雨。今年は花を愛でる間もなく、早や葉桜となった。コロナ故か、そんな余裕も無かったが、温暖化の影響とは、過日の報道で知った。

    4月9日・金曜日。薄曇り。ここ2日の夜間の冷え込みは、かなり堪えた。予報では霜が降りるとあり、さもありなんと合点する。

     

    承前。奥野前掲書には、ほぼ16話の霊的体験談が採録されているが、これらが一本の書物として刊行されるには、3年の歳月を要し、氏はその間体験者とそれぞれ3回は会って話を聞くという方針で臨んだ。そうすれば、話の真偽も分かるだろうと始めた事だが、それ以上に「語られる物語」の微妙な変化に気づかされたり、何より回を重ねて会うことで互いの意も通じ、「リラックスして話」が出来るようになったことがよかった。そうした話の中では、本書の趣旨にそぐわず、ここに採録されなかった話も多かったようである。例えば、震災とは関係ないが、入院した老母が夜分に子供の幽霊たちと楽しそうに話をしたり、歌うのを聞いている様子について、付き添いで泊まった娘が歌声は確かに聞こえたが、子供たちの姿は見えなかったと語る話はその一つである。

    これはこれで、十分、怖い話である。筆者は、以下ではそうした話の中の一話のみを紹介するが、それは通読後、妙に我が頭に映像としてクッキリと留まったからであり、読み手が変われば、別の話が大きな意味を持つかもしれない。ということで、興味があれば、是非、本書を直に読まれたい。

    阿部由紀(33歳)さんの話である。彼女はあの一本松で有名になった高田松原のひとである。愛宕山と松原で知られた町も、現在、松原は津波に呑み込まれ、山は土地のかさ上げのための土として消えてしまったと言う。

    父や兄たちが東京に出たこともあり、彼女もこれにならって上京するが、震災に遭うのは、その5年後であった。当日は体調が悪く、悪寒と頭痛のため、痛み止めを飲んで出社するほどであった。午後2時、東京は大きく揺れた。震源は三陸方面と聞き、一気に血の気が引いた。

    故郷の惨害をテレビで目の当たりにしたのは、翌日、東京にいる身内の安否を確認するために尋ねた父親のアパートである。取り合えず4人の安全は確認できたが、テレビに映る故郷の映像には目を覆った。とりわけ母や祖母たちの安否が知れずに、はげしく懊悩させられた。と、その時、ぞっとするような寒気に襲われ、由紀さんは早々に自分のアパートに引き上げた。

    彼女が不思議な映像を見るのは、部屋に落ち着いてしばらく経ってからである。疲れ切ってベッドに寄りかかり、ぼんやりと、「おばあちゃん、大丈夫かな」と、陸前高田に住む母方の祖母を案じた矢先の事である。

    「すると、突然、そのおばあちゃんが見えたんです。動画のように見えたというより、走馬灯のような感じなのですが、不思議なことに顔ははっきりしているのです。もちろんカラーでした。…あれほどリアルに見えたのは初めてです。声はありませんでした。でも、あまりにはっきり見えたので、驚くと同時に、私の体がその場で固まってしまったのです。/越前高田に『マイヤ』というショッピングセンターがあるのですが、そのあたりをおばあちゃんが怖そうな顔で逃げているんです。でも、杖をついていて難儀そうでした。そのあと映像が切り替わり、おばあちゃんは椅子に座っていました。何人かと一緒に座っていて、どこだろうと思っていると、しばらくしてそれが車の中だとわかったんです。/最初、『なんだ、これは』と思って、おばあちゃんが見えていることが信じられませんでした。/でも、おばあちゃん、元気なんだと思ったらまた映像が切り替わったんです。今度はおばあちゃんが水の中に浮かんでいました。水の中に空気の泡がぷくぷく浮かんでいました。音のない映像なのに、なぜかぷくぷくという音だけが聞こえてくるんです。その瞬間、私は息ができなくなり、手が震え始めたんです。/すると突然映像が消えて、おばあちゃんの顔がどんと私の目の前にあらわれたのです。真っ黒い顔で口を一文字に結び、目をつむってすごい顔をしているのが鮮明に見えました。言葉はなく、おばあちゃんの恐ろしい表情だけが何度も繰り返されました。しばらくそれが頭から離れず、目を閉じても出てくるんです。そのとき、これは絶対に津波に巻き込まれたんだ。おばあちゃんはもうダメなんだと思って涙がこぼれてきました」(162頁以下)。

    その後、祖母は陸前高田にある『酔仙』なる酒造会社の近くで、3月19日、遺体で発見されるが、由紀さんはすでにそれを予感していた。酔仙と共に周囲の景色が映像として脳裏に浮かんでいたからである。そして、この事や水中でもがき苦しんいるらしい様子を父や兄に告げたが、何も分かっていないのに、不吉な事を言うものではないと、たしなめられた。だが、祖母は避難先に向かって1人歩いているところを、折よく知り合いの車に同乗して、避難する途中の、あと一歩のところで津波に呑み込まれたらしい事がわかっている。してみると、由紀さんの見た映像は、祖母の死の経過をまざまざと、「走馬燈」のように示したものであろうと推察される。少なくとも、彼女はそう確信している(以下次回)。

  • 4月2日・金曜日。曇り。

     

    本日も引き続き、脱線させて頂く。前回ふれた、ミャンマー軍の兵士たちに惨殺された市民たちの無念は、どう晴らされると言うのか。彼らは、敵軍にではなく、よりによって自国軍隊に分けもなく銃撃されたのである。しかもそこには、彼らへの憎しみも持てない幼児まで含まれていた。そして、このような残虐をなし得た兵士たちは、今後、どう生き抜いていくのであろう。かつて「731部隊」に参画し、おぞましい人体実験を繰り返した医官が、迫り来る自らの死を前にして、「死ぬのが怖い」と涙ながらに語った事を、ここでもだいぶ以前に触れたが、ことはこれに連なる。

    これは、死後の世界をどう考えるかという問題である。神なくば、全ては正しい、と言ったのはドストエフスキーであった。つまり、死後が全くの無であるとすれば、地獄も裁きも無い。この限り、今生での生き様は、善行も悪逆非道も無い。ただそういう事があったと言うだけの話で終わる。だが、あの世があるとすれば、話は全く別物になる。悪行には、閻魔が現れ、恐ろしい裁きが下る。しかもそれは永遠に終わる事がない。源信はそう伝えている。

    では、あの世はあるのか、無いのか。以下の物語から、読者はご自由に判断されたい。奥野修司『魂でもいいから、そばにいて  3・11後の霊体験を聞く』(新潮社文庫、令和2年刊)が、その題材である。本書は、2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災者たちが語る、自分たちが失った最も愛する者たちの霊との邂逅、交流を記した書である。筆者が本書を挙げるのは、ここで記された内容がごく最近の、しかも体験者自身の口から語られた話であり、その読後感には否定しようのない圧倒的なリアリティを感じたからである。我われはすでに、東北地方の幽霊譚に類する物語として柳田国男『遠野物語』(1910)を持っているが、筆者がかつて本書を通読したとき、これは当時の民間伝承の一つであろうとの読後感しか持てなかったのに対して、この度はそれとはまったく対照的な印象を刻み込まれたのである(以下次回)。

  • 3月24日・水曜日。晴れ。前回の文章に多少手を入れた。また、そこでの論題については、朝日新聞朝刊(3/22・月)に掲載の「軍が握る政治 憤る若者」を扱った貝瀬秋彦アジア総局長の報告が参考になる。ここでは、ミャンマー、タイでの「真の民主主義を求める若者」たちの「新しい闘い方」を切り口に、現在の騒乱に至る両国の政治・社会情勢の一端が垣間見られると言う点で、貴重である。なお、筆者が当記事を知ったのは、前回の文章を記した後の事であり、これを生かすことが出来なかった。

    3月31日・水曜日。晴れ。本日、これまた予定を変更し、以下の通りの脱線となった。

     

    本日もまた、テレビでミャンマー国軍の残虐行為を見、突き上げるような恐怖と怒りを覚えた。自電車に乗った、ただすれ違っただけの市民3人を無情に銃撃する兵士をどう考えたらよいのか。昨日の新聞には、重傷を負わされたデモ参加者の1人だろうか、兵はそのまま彼を引きずり、生きたまま炎の中に投げ込んだとあった。暴力はより狂暴な暴力を引き出し、人をしてサディスティックな倒錯に引き込む、とは精神分析の一説だが、軍全体の規律の崩壊は、もはや軍の態をなさず、圧倒的な火力をもつ凶暴なだけの暴力集団に堕した。

    そんな惨状を目の当りにしてさえ、中露両国は国際世論の抗議に対して国軍を擁護し、静観を決め込む。国内問題に他国は内政干渉すべきでは無いと言うのが、その理屈である。これによってミャンマーを政治的に取り込み、やがてはこの国の資源や地政学的な利益も手にし得るとの戦略からに違いない。だが、国家利益のためには眼前の地獄に一片の同情も寄せずに済まし、またミャンマー国軍に対して向けられているであろう自国内の国民の非難を圧殺できる、中露の冷徹さには、毎度の事とは言え、慄然とせざるを得ない。この両国はいずれも、これまで平然と自国民を惨殺し、いまなおその非を認めず、全てを正当化し、それが叶わなければ隠蔽し続ける酷薄な国家なのだ、と改めて想起させられる。

    だからと言って、筆者は、いわゆる自由主義陣営の諸国家が理想だと、言うのでは断じてない。それは歴史的にも正しくない。また、現在でも、指弾されるべき大問題が山とある。だが、過日のアンカレッジでの米中外相会談で、ブリンケン氏は率直に言っていた。自分たちにも人種問題その他の問題が山積しているが、それらの存在を我々は公式に認め、これに対応しようとしている。

    筆者にとって、この差異は無限の差である。この立場の背後には、異論の存在を許し、自由な議論とそれを主張する相手の人格権の承認、そして法治主義への確たる信頼が前提されているからである。中露両国には、これらの価値観は、国民各人はともあれ、国家としてはほとんど皆無ではないのかと言うのが、わが見立てである。こうした大国が、背後でミャンマーを支えているのである。軍事政権がそれに力を得、自信を持つとすれば、今後の事態の成り行きは容易では無かろう(この項、終わり)。

  • 3月22日・月曜日。曇り時に雨。ジャパンタイムズの記事に触れ、本日も少々脱線する。

     

    クーデター後のミャンマーの混乱はさらに悲惨の度を増してきた。国民を守るべき軍隊が、その国民に対して水平射撃を断行し、犠牲者の増加もいとわず、鎮圧に躍起である。中露は、これを国内問題として、静観を言い募り、他国の介入を牽制する。ここに、両国の政治レジームへの執着と、凶暴性は覆い難い。体制さえ維持されれば、いかなる犠牲も顧慮しないからだ。かつて持たれた社会主義への羨望は、ほんの50年足らずで、かくも無残な変貌をとげるとは、思いもしない結果であった。もっとも、フランス革命の末路も血の粛清であった事を思えば、体制の一挙的革命なるものの限界なのであろうか。スターリン主義、文化大革命・天安門事件、金日成から東欧社会主義諸国による弾圧政治の数々を思う。

    こうした最中、ジャパンタイムズ(3/20)が、一面を使って、これまた悲惨なレポートを掲載した。海外に居住する軍事政権(Junta)幹部の子女たちがやり玉にあがり、彼らの私生活が危機に晒されている。これに対して、ある母親は、自分の命は捧げても、子供たちの生活だけは守って欲しい。「罰は私に。娘は許して」。この叫びは悲痛である。

    記事によれば、軍政幹部には、こうした成り行きは想定内の事であった。だとすればこのクーデターの先行きは、更に残酷になろう。それも当然であるに違いない。国民の反発に加えて、国際世論の指弾は必至であり、それを押して事を断行すれば、多くの国民を惨殺し、闇雲に事を進めて、成就する他はない。さもなくば、軍政の崩壊と自らの破滅である。徹底的にならざるを得ないのは、権力闘争の酷さであろう。

    だがこれは、何に発した事であろう。ただただ軍幹部の権力欲だけなのであろうか。どうも、それだけでは無いように思えるのだ。自分たちだけが、国や国民を守護し、その為の指導力と講想力を擁し、それ故軍には正義がある、との確たる信念に裏打ちされてもいるのではないか。つまり、この度の軍の行動は、彼らからすれば正義の実行であり、短期的には国民に多大な犠牲を強いようとも、結局は国民・国家の発展のためなのだ、という信念の発露ではないのか。言わばそれは、健康の回復をめざした癌病巣の切除と同等の理屈であろう。手術に苦痛は付き物である。であればこそ、家族を犠牲にし、国民の命を奪うこともやむを得ない。そして、正義の実現を標榜する戦争が容赦ないものになる事は、宗教戦争の歴史が常に示してきたところであろう。

    軍のそうした思考は、裏返えせば、国民の自律性と能力を侮蔑した夜郎自大な思い上がり以外のものではなかろう。また、こうした思考は、わが国の近代史とも無縁でないことを、想起したい。第二次世界大戦に至る軍の跋扈と国民弾圧の歴史は、いまだ遠い昔話ではないからである(この項、終わり)。

  • 3月10日・水曜日。晴れ。忘れていたが、わが毎月の歩行歩数をここに記録として残したい。いつか、この時代の後期高齢者が毎月どれ程歩いたかについて、一つの参考になるやもしれないではないか。1月の1日平均歩数・8479歩。最高・14215歩、最低・4012歩。総歩数・262859歩。2月の1日平均歩数・9854歩。最高・12334歩、最低・5919歩。総歩数253510歩。

    なお、本日より、2月26日・金曜日の項の論題に戻る。

    3月16日・火曜日。晴れ。一昨日の夜、悪寒の故に眠れず、あれこれ心配したが、事なきを得た。本日出社。なお、前回の配信について、やや難解な内容にも関らず、好意的な返信を複数頂戴した。記して、謝意を表したい。

     

    ローマクラブの刊行した『成長の限界』が世界に衝撃を与えたのは、1972年のことである。世界人口の増加、工業化の進展による環境破壊や汚染が、資源の枯渇と共に食糧生産力の減少を来たし、このまま事態を放置すれば、地球上の成長は100年後には限界に達すると言うのである。こうした地球の終末論的見解は、今なお形を変えて生き続けているが、地球温暖化を目の当たりにした現在、筆者もまたその一人である事を、ここに公言しておく。もっとも、この種の警告は、例えばK・ボールディング『二十世紀の意味』(原著は1964年に刊行され、邦訳は1967年に岩波新書より清水幾太郎訳として出ている)において、すでに発せられており、ローマクラブが最初であったとういう訳でもない。

    但し、人口増加の問題は、ボールディングが言い、ローマクラブも指摘したようには進行しなかったようである。たしかに、現在の世界人口数はこの50年間でも二倍に増加し、76億人を超える勢いであり、さらに2030年には86億人、2050年には98億人を見込むと言われ、この限り彼らの予想は的中しているようにも見られる(前掲書『2050年世界人口大減少』46頁より)。しかし我々が現在経験しているように、わが国はじめ先進国での人口減少は、そうした趨勢とはまさに逆行しているのも事実であって、これが途上国にも波及していけば、事態は逆転するのかも知れない。世界最大を誇る中国が、近年、人口減少に転じ、一人っ子政策の転換を余儀なくされたとの指摘は、そうした傾向の予兆であるのかも知れないのである(以下次回)。