2021年3月24,31日

3月24日・水曜日。晴れ。前回の文章に多少手を入れた。また、そこでの論題については、朝日新聞朝刊(3/22・月)に掲載の「軍が握る政治 憤る若者」を扱った貝瀬秋彦アジア総局長の報告が参考になる。ここでは、ミャンマー、タイでの「真の民主主義を求める若者」たちの「新しい闘い方」を切り口に、現在の騒乱に至る両国の政治・社会情勢の一端が垣間見られると言う点で、貴重である。なお、筆者が当記事を知ったのは、前回の文章を記した後の事であり、これを生かすことが出来なかった。

3月31日・水曜日。晴れ。本日、これまた予定を変更し、以下の通りの脱線となった。

 

本日もまた、テレビでミャンマー国軍の残虐行為を見、突き上げるような恐怖と怒りを覚えた。自電車に乗った、ただすれ違っただけの市民3人を無情に銃撃する兵士をどう考えたらよいのか。昨日の新聞には、重傷を負わされたデモ参加者の1人だろうか、兵はそのまま彼を引きずり、生きたまま炎の中に投げ込んだとあった。暴力はより狂暴な暴力を引き出し、人をしてサディスティックな倒錯に引き込む、とは精神分析の一説だが、軍全体の規律の崩壊は、もはや軍の態をなさず、圧倒的な火力をもつ凶暴なだけの暴力集団に堕した。

そんな惨状を目の当りにしてさえ、中露両国は国際世論の抗議に対して国軍を擁護し、静観を決め込む。国内問題に他国は内政干渉すべきでは無いと言うのが、その理屈である。これによってミャンマーを政治的に取り込み、やがてはこの国の資源や地政学的な利益も手にし得るとの戦略からに違いない。だが、国家利益のためには眼前の地獄に一片の同情も寄せずに済まし、またミャンマー国軍に対して向けられているであろう自国内の国民の非難を圧殺できる、中露の冷徹さには、毎度の事とは言え、慄然とせざるを得ない。この両国はいずれも、これまで平然と自国民を惨殺し、いまなおその非を認めず、全てを正当化し、それが叶わなければ隠蔽し続ける酷薄な国家なのだ、と改めて想起させられる。

だからと言って、筆者は、いわゆる自由主義陣営の諸国家が理想だと、言うのでは断じてない。それは歴史的にも正しくない。また、現在でも、指弾されるべき大問題が山とある。だが、過日のアンカレッジでの米中外相会談で、ブリンケン氏は率直に言っていた。自分たちにも人種問題その他の問題が山積しているが、それらの存在を我々は公式に認め、これに対応しようとしている。

筆者にとって、この差異は無限の差である。この立場の背後には、異論の存在を許し、自由な議論とそれを主張する相手の人格権の承認、そして法治主義への確たる信頼が前提されているからである。中露両国には、これらの価値観は、国民各人はともあれ、国家としてはほとんど皆無ではないのかと言うのが、わが見立てである。こうした大国が、背後でミャンマーを支えているのである。軍事政権がそれに力を得、自信を持つとすれば、今後の事態の成り行きは容易では無かろう(この項、終わり)。


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