2021年3月22日

3月22日・月曜日。曇り時に雨。ジャパンタイムズの記事に触れ、本日も少々脱線する。

 

クーデター後のミャンマーの混乱はさらに悲惨の度を増してきた。国民を守るべき軍隊が、その国民に対して水平射撃を断行し、犠牲者の増加もいとわず、鎮圧に躍起である。中露は、これを国内問題として、静観を言い募り、他国の介入を牽制する。ここに、両国の政治レジームへの執着と、凶暴性は覆い難い。体制さえ維持されれば、いかなる犠牲も顧慮しないからだ。かつて持たれた社会主義への羨望は、ほんの50年足らずで、かくも無残な変貌をとげるとは、思いもしない結果であった。もっとも、フランス革命の末路も血の粛清であった事を思えば、体制の一挙的革命なるものの限界なのであろうか。スターリン主義、文化大革命・天安門事件、金日成から東欧社会主義諸国による弾圧政治の数々を思う。

こうした最中、ジャパンタイムズ(3/20)が、一面を使って、これまた悲惨なレポートを掲載した。海外に居住する軍事政権(Junta)幹部の子女たちがやり玉にあがり、彼らの私生活が危機に晒されている。これに対して、ある母親は、自分の命は捧げても、子供たちの生活だけは守って欲しい。「罰は私に。娘は許して」。この叫びは悲痛である。

記事によれば、軍政幹部には、こうした成り行きは想定内の事であった。だとすればこのクーデターの先行きは、更に残酷になろう。それも当然であるに違いない。国民の反発に加えて、国際世論の指弾は必至であり、それを押して事を断行すれば、多くの国民を惨殺し、闇雲に事を進めて、成就する他はない。さもなくば、軍政の崩壊と自らの破滅である。徹底的にならざるを得ないのは、権力闘争の酷さであろう。

だがこれは、何に発した事であろう。ただただ軍幹部の権力欲だけなのであろうか。どうも、それだけでは無いように思えるのだ。自分たちだけが、国や国民を守護し、その為の指導力と講想力を擁し、それ故軍には正義がある、との確たる信念に裏打ちされてもいるのではないか。つまり、この度の軍の行動は、彼らからすれば正義の実行であり、短期的には国民に多大な犠牲を強いようとも、結局は国民・国家の発展のためなのだ、という信念の発露ではないのか。言わばそれは、健康の回復をめざした癌病巣の切除と同等の理屈であろう。手術に苦痛は付き物である。であればこそ、家族を犠牲にし、国民の命を奪うこともやむを得ない。そして、正義の実現を標榜する戦争が容赦ないものになる事は、宗教戦争の歴史が常に示してきたところであろう。

軍のそうした思考は、裏返えせば、国民の自律性と能力を侮蔑した夜郎自大な思い上がり以外のものではなかろう。また、こうした思考は、わが国の近代史とも無縁でないことを、想起したい。第二次世界大戦に至る軍の跋扈と国民弾圧の歴史は、いまだ遠い昔話ではないからである(この項、終わり)。


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