• 8月11日・水曜日。晴れ。

     

    「異形の五輪」(朝日新聞より)がおわった。異形とは、コロナ感染者の激増と共に、医療現場の崩壊が迫るその最中での熱戦が、まるで別世界のように展開され、一方で興奮と陶酔の喚起が、他方では感染の恐怖を呼び起こす。解放と自粛がないまぜになり、国民感情は分断されたからである。同時に広島・長崎では平和祈念式典が持たれた。そこでの総理の重なる失態が、五輪への異常な執着と重なり、「異形」の度はさらに増した。

    こうして、平和の祭典であるはずの五輪が、国論を二分する。だから政府は、五輪の成功を声高に強調しなければならなかったのだろう。真に祝福されたものであれば、わざわざ成功を言い募るまでも無いからだ。

    報道によれば、閣内でも総理に対し、五輪の中止を進言する閣僚がいたようである。それに対し、中止が一番楽だ、と言いながら、これを拒否して開催に突き進んだらしい。その唯一の頼みは、ワクチンへの期待であり、接種の進捗であった。つまり、これに全てを託してのことだが、これは言わば、「国民の健康を「賭け」の対象」(朝日新聞・8/9・社説)したようなものである。こんな事が許されるはずもない。

    しかもである。その後の止まらぬ変異株の出現と強毒化によって、今に至るも、ワクチンの効能は確定されてはいない。3回目の接種が取り沙汰されていること自体が、これを証明する。こんなことで、国民の生命を守ると言う、総理の毎度の決意は果たされているのであろうか。

    果たして、最近の世論調査(朝日新聞・8/7,8実施)では、「菅内閣支持28% 最低」・「五輪開催「よかった」56%」(同8/9(月))と出た。まさに国民の意識や感情の分断は、明らかであり、身もだえしているようではないか。同時に総理の統治能力が問われているのである(以下次回)。

  • 8月6日・金曜日。晴れ。炎暑の中、コロナ感染者の増加は続き、首都圏の医療崩壊が迫る。

     

    前回見た夏野氏の発言については、まだ言及すべき点は多々あり、本日、引き続いて取り上げる心算であった。しかしその内容があまりに愚劣に過ぎ、嫌気がさすのに加えて、筆者にとって論ずべき重要な問題が次々生じ、ここでは2点を指摘し、これで終わりにしたい。その1は、氏にとっての選挙とは数さえ揃えればいい話で、そんなものは「アホな国民感情」を上手く騙せば、ドウにでもなるとお考えのようである。何故って、「誰かが金メダルを取ったら雰囲気」が変わるような、そんな他愛の無いものなのだから。ここには、民意の総意を示す選挙に対する敬意のカケラも無い。これ程までに「国民感情」を舐め切ったればこそ、同氏はこれを「アホな」と侮蔑できたのであろう。

    その2は、この度の大会組織委員会とは、一体、いかなる人々によって構成されているのであろうか。森前会長以来、人を侮辱し、批判を浴びるまで何とも思わぬ面々が続出し、そんな彼らを必死に守り抜こうとする委員会とは、どのような会議体であり、何を議論してきたのであろう。森氏の例の発言が、会議では何の違和感もなく、むしろよくぞ言った、あるいは笑い話の一つとして済まされたであろう事は、推察に難くない。

    「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポ-ツを役立てることである」と、『五輪憲章』に謳われているようだ。だが、「人間の尊厳」や「人類への調和」が一度でも、委員会の真面目な議題になったのであろうか。確かに、建て前と本音の乖離は日常茶飯であるにしても、理想や理念を単なる飾り物以下にしか見ない、組織委の一連の事態はあまりに無様である。それが国家の責任のもとで推進される会議体でのことであり、その臆面の無さはどうであろう。日本とはこうした国であると、全世界に晒したのである。それらを日本国民として負わねばならぬ恥辱を、どう晴らしてくれようと言うのであろう(この項、終わり)。

  • 8月2日・月曜日。晴れ。前回の文章に通ずる憂慮を、朝日朝刊「声」欄に読んだ。佐藤康子氏の「五輪強行 開戦時の日本を想起」(7/31(土))である。「反対という多くの声」を無視した五輪強行は「いつか来た道をたどるのではないか…と強く危惧」されると共に、「コロナ禍は、日本という国が国民のために存在しないということを明らかにしてしまった」と手厳しい。本日は、この指摘をうけながら、下記の問題を取り上げた。

     

    先ず、次の文章をお読み頂きたい。夏野剛なる御仁がABEMAニュース番組に出演したときのことである(7/21)。子供の運動会や発表会が無観客なのに五輪だけ観客を入れたら不公平になるとの意見に、こう言い放つ。「クソなピアノの発表会なんかどうでもいい。それを一緒にするアホな国民感情に、今年選挙があるからのらざるを得ない」。「そのうち誰かが金メダルを取ったら雰囲気変わると思います」。ちなみに、同氏は出版大手のKADOKAWA社長であり、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会参与を務める人物である。

    KADOKAWAによると、当発言は「社長として大変不適切なもので、当人も深く反省し」、よって役員報酬の月額20%を3か月返上されるそうである(朝日新聞7/29(木)・朝刊より)。以下は、「朝日」の文章が夏野氏の発言を基本的な点で正しく伝えている、と前提した上でのわが主張である。

    まず、伺う。社長として反省するとは、いかなる意味であろうか。かような発言は、いかにもKADOKAWAの評判を落とし、今後の業績等にも影響をおぼしかねず、これを深く憂慮し、3か月間の報酬2割分を返上するとういう意味なのであろうか。とすれば、非難された人々への反省は皆無となるが、それで宜しいか。

    たしかに、子供たちの運動会や演奏がオリンピックや世界の奏者のそれに遠く及ばぬことは、言うまでもない。であればこそ、大金をはたいて足を運ぶのだろう。だが、及ばぬ内容は、多くは積み上げられた技量、経験等であり、対象に向かう情熱やひたむきさは、いずれもそれほど変わるものではあるまい。むしろ、子供たちの場合、欲得や地位や名声から自由な分、はるかに純真であるに違いない。

    子供たちは昨日まで出来なかった課題を乗りこなし、そこで感ずるリズムや身体的躍動に感激し、充実と達成感を覚え、次なる難所へと挑戦する。苦悩と共に味わう成長の喜びは何物にも代えがたい宝であり、それをそばで見守り、励ます師匠や親たちは、そこから自分たちの無限の喜び、生き甲斐さえ引き出すであろう。これこそが芸術やスポーツの真の力ではないだろうか。

    それを「クソなピアノの発表会」と面罵する夏野氏とは、いかな芸術・スポーツ観をお持ちなのであろう。KADOKAWAと言えば文化事業を担う一大出版社ではないか。氏にとっての芸術・スポーツとは、それに向かう心情はどうあれ、ただ完成された形式美を備え、カネになりさえすれば一級品ということになるのであろうか。とすれば、それは何とも貧相な文化観ではないか。しかも、人を見下し、何とも思わぬ倨傲な人格が、わが国の文化事業の代表者の1人であることに、愕然とせざるを得ない。

    ホイジンガによれば、芸術・スポーツのいずれも神の御前に捧げる遊びに端を発する。だからいい加減なのではない。日常の仕事を越えた直向きさ、真剣さをもって捧げられる。ここには世俗的なカネや地位、名誉など入り込む隙は無かったはずである。それらは全て、その後の経過に纏わりついたものであろう。

    ここで、恐らく夏野氏には思いも及ばぬ一事を紹介しておこう。現在、将棋の永世名人の資格を持つお1人が述懐されたことである。将棋に倦み、疲れた日々にあった頃、小学生の将棋指導に招かれて、子供たちがひた向きに打ち込む姿勢と情熱に打たれた。そして、かつての自分を思い出し、改めて将棋への意欲を取り戻したと言う話であった。ひとは、その気になりさえすれば、誰からでも学ぶことはある。「教えつつ学ぶ」とは、そういうことである(以下次回)。

  • 7月28日・水曜日。晴れ。先月の歩行総数・273,536 歩、1日平均歩数・9,118歩、最高・13,911歩、最少・4,792歩であった。

    また、7/23(金)、大手町合同庁舎にて、2回目のワクチン接種を終える。1回目は、接種部位の筋肉痛が、軽く2,3日残っただけであったが、2回目は違った。日頃は深夜の4時前後に就寝するところ、当日は妙な疲労を覚え、早や(?)2時半には寝につく。夜半の3時を回った頃であろうか、突然体が悪寒と共に震え出し、5,6分も続いたか。やや間をおいて3回起こるが、その時間は次第に短くなった。その後、体の節々に痛みが残り、翌日一杯それは続く。その間、頭に重しの入ったような、鈍痛とも違う状態で、起きているような、寝ているような時間を過ごす。ハッキリ眠れたのは午前10時以降であったか。夕刻、18時頃に起きだし、徘徊を兼ねて、書斎に向かう。その後、恐らく、3千歩は稼いだ。

     

    コロナ禍のオリンピックは、盛り上がって来たのか。筆者はすんなり受け入れる気分になれず、テレビ映像も断片的に見るばかりである。それでも、スケートボードの少年少女の選手たちの活躍には、心より拍手を送る。

    オリンピックに大きな影を落とすコロナだが、その猛威はいよいよ容赦なく、感染者の数は東京だけでも連日3千人に迫り、全国では7千人を超えるかという勢いである。これは開催前から十分指摘され、警告を受けていたことで、それがその通りになった事に、脅威は持っても、驚きはない。

    だが、このような事実を目の当たりにしてさえ、タジログことなく競技を続けさせる政権の覚悟なのか、意地なのか、ともかく目を瞑って突貫させる精神には、心底驚き、恐怖を覚える。まるで敗戦末期の日本軍部と政治がひたすら国体護持を目指して、結局、2発の原爆と共に、国民を地獄に引きずり込んだあの顛末を思い起こさせるからだ。それもこれも、ワクチン接種の広がりとその効果に全てを託してのようである。だが、海外では2回接種者にも感染が拡大しているとの報もある。感染者は増えても重症者数はそうでもないと言い張るが、入院者数の増加は通常医療の妨げになりつつあり、入院の拒否や予定手術の延期が要請されている現実に、一体どう対処しようとするのであろう。今、医療現場はギリギリの状態に追い込まれているという。オリンピックのために崩壊することは、絶対無いのであろうか。

     

    聞けよ民命捧げて五輪護持   みつお

     

    そんな中、西村カリン氏(ラジオ・フランス、仏リベラシオン紙特派員)の指摘に、深く頷いた(朝日新聞、7/27(火)朝刊)。自民党、菅政権は国民から遊離し、国民の置かれた状況が分かっていないのではないか。たまたま記者会見で総理に質問する機会を得た。「ワクチンを前提とせずに安心・安全な五輪が可能と言っていたが、感染拡大や死者が出るリスクがあっても開催して大丈夫だと思う理由は何ですか」と訊いたところ、「感染対策を講じることができるからです」。全く科学的根拠のない、この答えに失望した。

    そして、言う。「官房長官として8年近く、連日記者会見をしてきたので経験豊富とされていますが、私は「本物の記者会見」を経験していないのではないかと思います。事前にスタッフが集めた質問に対してメモを読むのではなく、厳しい質問を避けず、アドリブで語るという意味です。/会見中の首相はとにかく緊張しているように見え、質問に直接答えず、何度も同じことを繰り返すことが目立ちます。民主主義国のリーダーです。しっかりと記者と対話をしてほしいと思います。/菅首相はグローバルなコロナ禍の中、世界を相手にし、世界から注目と関心を集めている五輪に関しても、完全に内向きの発想と思考に終始しているようしか見えません。自民党内にも、野党にも、首相にとって脅威となるライバルがいないので、そうしたことが許されているのでしょう」。

    彼女は平明な言葉で、実に辛辣なことを言ってのけた。筆者はこの一言に触れ、わが国の政治家のレベル、ジャーナリストの質、国民の政治的意識まですべて剥き出しにされたような思いに駆られ、訳もなく恥じ入る他はなかった(この項、終わり)。

  • 7月16日・金曜日。晴れ。東京、いよいよ梅雨明け。いきなり熱暑の襲来である。熱中症にご注意あれと、自分を含めてお見舞い申し上げる。なお、前回の文章、構想をやや変更し、よって格段に良くなったと一人悦に入る。

    7月21日・水曜日。連日の熱暑に参る。前回の文章は粗雑であり、誤解を招く。よってかなり訂正したが、大都市の構造的な危うさ、社会的理不尽に関わる、わが論旨は変わらず、わざわざ読み返すまでも無い。

     

    過日、福田和代『東京ホロウアウト』(東京創元社、2020)なる小説を読んだ。実に予言的な書である。hollow outとは「くり抜く・空洞にする」というほどの意味だが、東京に集中する幹線道路・鉄道の麻痺により、全国から輸送されるはずの食料品がストップし、東京が「空洞になって」、干上がる。しかもそれは、オリンピック開催の直前を狙ったテロ行為であった。

    本書は2018~19年にかけて雑誌に連載された作品の書籍化であり、惜しくもコロナ禍を作品に生かせなかったが、交通テロをコロナ疫病に読み替えれば、まさにただ今現在を映し出す迫力がある。

    収益性と効率性を極端にまで追求するために、スーパーやコンビニは在庫を圧縮し、商品の補充のために、産地と東京を繋ぐ輸送は激烈にならざるを得ない。また、鮮魚等の生鮮食品の場合は、当日のセリ時間を外すことが出来ないことから、深夜から早朝にかけて、ドライバーは命がけの輸送を強いられる。こうして、東京の物流は何事もなければようやく維持されるが、ひとたび齟齬が生じれば、取り返しの付かない混乱を来たす。

    つまり大都会の生活は、じつに脆弱な仕組みと、無理を重ねてようやく成り立つものでしかなかったことを知る。しかもそれらを支えるドライバーたちの経済状況は、ガソリン代、高速道路代は自分持ちで、他のエッセンシャルワーカーのそれと同様、カツカツでしかない。とすれば、わが東京は人心においても、また構造体としても、奈落の淵に立つようなものであり、いつ転落してもおかしくない。こうした大東京の脆弱性を狙って、事もあろうにオリンピック直前の、国内外から押し寄せる膨大な人流の最中に、テロが画策・実行されるのであった、そして…。

    それにしても、作家の直感力はしばしば時代の課題を抉り出し、作品化することでそれらを最も明確な形で提示してくれる。本作でもそれは遺憾なく示された。このテロはそもそも、産廃業者による山中の不法投棄に端を発っする。これにより、地下水汚染が発生し、不法投棄が発覚する。農業、牧畜は破壊され、彼らの生活や夢が絶たれた。当然、業者の社長は訴訟を受け、そして自死に追い込まれる。だがそれは上位の取引業者に強要された、やむに止まれぬ果てであった。こうして、強者が弱者に全てを押し付け、責任を負わずに逃げ切れるという現代の社会経済的な構造が浮き彫りにされるのである。

    その限り、産廃業者は単なる悪徳業者ではなく、社会の犠牲者の1人であった。こうして、本来は、敵味方であった業者の遺族と生活を失った農業者たちが、同じ被害者として結束する。まさにこのテロは、社会の不正義、不条理に押しつぶされた人々による、復讐の念に燃えた敗北覚悟の大勝負なのであった。

    だが先の熱海で発生した土石流事故には、これまでの報道による限り、そうした背景があろうとはとても思えない。業者が浮利を求めて、産業破棄物の不法投棄にくわえた不法な宅地造成が重なったものであろう。ここには、行政の怠慢と法的な不備も指摘されなければなるまい。さらには政権によって叫ばれた「強靭な国家」の建設は、単なる掛け声だけでしかなかったことが、いよいよ明らかになったのではなかろうか。無限に孕むこうした事故の今後を思うと、なにか空恐ろしくなって来る。

    なお本書は、他にも現代社会が抱える多様な問題を突きつけているという意味で、一読に値する(この項、終わり)。